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2. パドマの婚約者

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 そんな苦痛に満ちた日々に終わりはなく、私は毎日朝から晩まで心を殺してひたすら働き続けた。髪を汚らしく染め、時に空腹のあまりフラフラとよろめきながら。
 エヴェリー伯爵夫人に命じられ私が作っていた黒髪の染め粉は、いくら苦心してもろくな仕上がりにはならなかった。髪はベタベタと気持ちが悪く、その上染め粉をつけた髪が肩のあたりを汚すものだから、粗末なワンピースはますます薄汚れていた。顔の周りも染め粉のせいで同じように煤けていて、私の風貌はまるで路上の物乞いのようだった。
 私の髪が伸びてくると、大抵はパドマが忌々しそうに舌打ちをしながら鋏を持ってきた。

「見苦しいわねぇ。切りなさいよ! あんたに長く美しい髪なんて必要ないんだからね! パーティーに出ることもなければ、婚約者だっていないんだから。あんたはその汚らしい格好のままで、死ぬまでこのエヴェリー伯爵家で下働きを続けるのよ!」

 そう言うとパドマは私の髪をわし掴みにする。

「きゃ……っ! い、痛い! 止めてください……っ」
「うるさいわね! ……ふん。なんであんたなんかがこんな髪をしてるのよ……腹立たしいわね。いい!? 一日でも染め忘れたら、絶対に許さないから! お母様に言いつけて、これまでで一番辛いをしてもらうんだからね!」

 そう怒鳴りながら、パドマは私の髪を肩のあたりまでザクザクと乱暴に切るのだった。
 パドマが実は、自分のくすんだ赤毛をコンプレックスに思っていることに、私はいつしか気付いていた。ある日掃除のためにパドマの部屋の扉をそっと開けると、出かけているものと思い込んでいた彼女が鏡台の前に座っていて、ため息をつきながら独り言を言っていたのだ。

『はぁ……。なんで私の髪はこんな色なのかしら。……せめてこの顔のそばかすだけでもなかったらいいのに……』

 彼女は彼女で、自分の容姿に悩んでいるのだろう。私への当たりの酷さがその裏返しなのも、何となく分かる。
 けれどこうやって手荒に髪を切り落とされるのは、私だってものすごく辛い。幼い頃は、長く伸ばし手入れした髪を母が毎日優しく梳かし、可愛らしい髪飾りをつけて結ってくれていたのだ。

『あなたの髪色は本当に素敵ね、ミシェル。神様からあなたへの贈り物かしら。可愛らしいあなたを何倍も魅力的にしてくれているわ。ふふ。大事にしなきゃね』

 母の優しい言葉を思い出すたびに、堪えきれないほどの悲しみに包まれる。
 かといって、「もうしないで」とパドマに抵抗することなど、エヴェリー伯爵と夫人が絶対に許さない。
 屈辱と悲しさで、パドマに乱暴に髪を切り落とされる時は、いつも涙が止まらなくなった。



 働きづめで楽しいことなど一つもなく、友人もいない。屋敷の使用人たちでさえ、私には余計なことは一切話しかけてこない。孤独で寂しく、辛い毎日。
 けれど、そんな苛酷な日々を送る私に、たった一人だけ優しくしてくれる人がいた。

「ミシェル、こんにちは。今日も大変そうだね」
「あ……、スティーブ様。いらっしゃいませ」

 スティーブ・ヘイゼル伯爵令息。ヘイゼル伯爵家の次男で、パドマの婚約者。私とパドマは同い年で、ともに十八歳になっていたが、スティーブ様はその四つ上の二十二歳だった。
 スティーブ様がパドマに会いにエヴェリー伯爵邸を訪れてくる日、私の心はいつも少し浮き立った。けれど、それは決して横恋慕などの感情からではなかった。

「毎日お疲れ様。……ほら、これ。伯爵家の皆には内緒だよ。あとでこっそりお食べ。令嬢たちの間で今流行っている店の焼き菓子だよ」
「っ! ……いつもありがとうございます、スティーブ様……」

 キョロキョロと周囲を見回し誰もいないことを確認すると、スティーブ様は手に持っていた小さな紙袋を私にそっと手渡した。
 スティーブ様はパチンとウィンクすると、人差し指を口元に当てて小さな声で言った。

「ほら、今のうちに自分の部屋に置いておいで。パドマか誰かが来たら、僕が上手く言っておいてあげるから」

 そのキザな仕草は、決して美男子ではないスティーブ様には正直あまり似合っていなかったけれど、私にはまるで王子様のように見えていた。
 私がこのエヴェリー伯爵邸で虐げられ、食事さえもまともに食べさせてもらっていないことに気付き、こうして時折私に優しくしてくれる人。
 慈悲に満ちたスティーブ様の存在は、孤独な私にとって大きな心の支えになっていたのだった。







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