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1巻
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私の言葉が突拍子もないものに聞こえたのだろうか、キョトンと目を丸くして顔を上げた彼女の表情はキュンとするほど愛らしかった。
「あ、いえ、ごめんなさい急に。その……余計なお世話かもしれませんが、髪を結ったりはされないのかなぁって。可愛らしく編み上げたらきっとオリビア嬢のご気分も晴れやかになるのではないかって。そう思いまして」
「ああ、これ……」
私の言葉にオリビア嬢は困ったように眉尻を下げると、細い指先で自分の髪を一房弄びながら言った。
「前は侍女に結ってもらっていたのだけれど……体調が思わしくなかったりで、結局一日中部屋で過ごすことが多いものですから。どこにも出かけず誰にも会わないのに、朝から侍女の手を煩わせることが申し訳なくなってしまって。もう髪は結わなくていいわって、私から言ったんです」
「……そうなのですね」
うーん、もったいない……。たとえ家の中で過ごすにしても、綺麗に髪を整えて過ごせば気分も上がるはずなのになぁ
この人を可愛く飾ってあげたい。それで少しでも、明るい気持ちになってくれるのなら。
「あなたの髪型はとても素敵ね」
「あ、ありがとうございます。毎朝自分で結ってるんですよ、私」
「そうなの? すごい。とても器用なのね」
オリビア嬢は興味をそそられたのか、編み込みを作った私の髪型を食い入るように見ている。そうよね、やっぱり女の子だもの。オシャレが嫌いなわけがない。
「あの……、オリビア嬢さえよければ、私に髪を結わせていただけませんか?」
「えっ? で、でも……、あなたにそんな手間をかけるのは申し訳ないわ」
「いえ、全然手間じゃありませんわ。私得意だし、好きなんですこういうの」
「そう……? じゃあ……お、お願いしてもいいかしら……」
「ええ! お任せくださいっ」
ふふ。やったわ。せっかくだからとびきり可愛くしてあげなくちゃ。私はウキウキしながらドレッサーに置いてあったブラシやピン、リボンなどを借りると、ソファーに腰かけているオリビア嬢の背後に回った。
「失礼いたします」
(……うわぁ、本当にツヤツヤ……。これはやりがいがあるわ!)
若く清純な彼女の魅力を引き立てるような、それでいて凝った愛らしい髪型にしようと、私は指先をくるくると動かしていく。
サイドの髪だけを少し残して、後ろで一つにまとめると、その束と水色のリボンとを一緒に緩く三つ編みにする。それをピンで数ヵ所留めつつ後頭部にくるりと巻き上げていき、リボンの先をふわりと垂らした。
「はい、できました。どうですか? 下ろしていることが多いようでしたから、まとめて結い上げてみましたわ。髪型が変わると、気分が変わりませんか?」
「……っ! 素敵……。こんな短い時間で、こんなに可愛くしてくれるなんて……。あなたすごいのね、ロゼッタさん」
何度も角度を変えながら手鏡を見て感嘆するオリビア嬢の言葉に、思わず頬が緩む。
「ふふっ。お気に召したようでよかったです」
「ええ! 本当に素敵。あなたの言う通りね。ここまで気持ちが弾むなんて。……嬉しいわ。ありがとうロゼッタさん」
そう言って私の方を振り向いた彼女は、今日一番の晴れやかな笑顔だった。
「……ロゼッタさん、今日はたくさん話を聞いてくださってありがとう。なんだかあなたはとても話しやすいわ。こんなに自分の気持ちを人に打ち明けたのは久しぶりです」
「ふふ、私でよければ、これからもなんでも話してください。たとえ私がアクストン公爵家の侍女になれなかったとしても、お手紙をやり取りしたり、時々はこうして会ってお喋りしたりすることもきっとできますもの」
その後は私の学園生活の思い出話で盛り上がり、ただの面接にしてはかなり長い時間をオリビア嬢のお部屋で過ごしてしまった。別れ際には互いにしっかりと手を握り合って挨拶し、今日の出会いに感謝し合った。
それから日を置かずして、アクストン公爵家から我が家に採用通知が届いたのだった。
第二章 アクストン公爵家の侍女
アクストン公爵家の住み込みの侍女として働くことになった私の主な仕事は、オリビア嬢の身の回りのお世話だった。
オリビア嬢が起きると、身支度をお手伝いする。お化粧をして髪を結ってあげたり、ドレス選びや靴選びをお手伝いしたりする。これが思いの外楽しかった。
そもそも私はオシャレが大好きで、自分の肌や髪のお手入れも欠かさなかったし、流行りの小物やドレスについても詳しかった。自分の知識を駆使してこの美少女を美しく飾ることはウキウキしたし、オリビア嬢をとても喜ばせもした。
「ふふ、あなたって本当にヘレナのようだわ。ヘレナもこうして私好みのお化粧を上手にしてくれていたし、私に似合う色のアドバイスもよくしてくれたの。あなたと歳も同じだし……っ、ごめんなさい。他の人と比べるようなことを言っては、不愉快よね……?」
「ま、ふふ。いいえ。オリビアお嬢様が喜んでくださるなら私もとても嬉しいですわ。もっと褒めてくださいませ」
「まぁっ、ロゼッタったら。ふふ……」
こうしてたまに軽口を叩くと、オリビア嬢は本当に楽しそうに笑うのだった。
最初の頃は、私たちの様子を見たあの兄の冷徹公爵にチクリと小言をいただくことも少なくなかった。
「気に入られたのは結構だが、あまり妹をはしゃがせないでくれないか。笑いすぎると発作が起こって咳が止まらなくなることがある。何かあってからでは遅いのだぞ」
「……はい、申し訳ございません」
「お兄様ったら……! 自分のことはちゃんと自分で分かっているわ。ロゼッタにきつく当たらないで」
だけどそのたびに、オリビア嬢がこうして私を全力で庇ってくれる。
「ごめんなさいね、ロゼッタ……。兄って女性が嫌いなのか苦手なのか、いつもあの調子なのよ。嫌になって、辞めたりしないでね……」
辞めません辞めません。素晴らしい職場ですもの、ここ。オリビア嬢は優しくて可愛いし、嫌な仕事仲間もいない。使用人たちは皆品がよく、穏やかでいい人ばかりだ。食事も美味しいし、ふかふかベッドの個室付き。誰が辞めるものですか。公爵様の嫌味の一つや二つ、我慢するわ。
「ご心配なく、オリビアお嬢様。アクストン公爵に叱られたぐらいで私は辞めたりいたしませんので。それに、いつも大切なことを教えていただいておりますわ。たしかにお喋りが楽しくても、ほどほどにしなくてはいけませんね。オリビアお嬢様のお体に負担のかからない程度に。気を付けますわ」
私がそう答えると、オリビア嬢はふう、と深く溜め息をつく。
「……あんなだから、お兄様にはお嫁さんが来ないのかしら」
「……まさか。アクストン公爵家のご当主ですよ。しかも、あれほどの美しい容姿をお持ちで……旦那様さえその気になれば、それこそよりどりみどりでは?」
私が素直にそう答えると、オリビア嬢はますます眉間に皺を寄せる。
「うーん……。じゃあやっぱり、お兄様が選り好みしすぎているのかしら……。うちには兄と私しかいないのに。兄が結婚してくれなかったら、アクストン公爵家は私たちの代で終わってしまうわ」
「そ、そんなこと。旦那様はよく分かっておいでのはずですもの。きちんと考えておられるはずですわ。大丈夫ですよ」
口ではそう言いつつ、実は私も疑問でならなかった。いくら性格にちょっと難ありとはいえ、このアクストン公爵家の当主とあらば引く手あまたのはず。どうにかして繋がりを持ちたいと思っている家も多いだろうし……
(きっと縁談を断りまくってここまで来たんだろうなぁ……)
簡単に女性に心を開きそうな感じでは、たしかにない。
それにしたって、結婚して跡継ぎを作ることはこの公爵家にとって大切なことだろうに。
(……ま、私が心配する話でもないわね)
ある夜、帰宅したアクストン公爵を捕まえてオリビア嬢が真剣に頼み事をはじめた。
「お願いよ、お兄様。もうお茶会には半年も行っていないわ。体調も安定しているし……ね? いいでしょう?」
「前回のことを覚えていないのか。途中で具合が悪くなったと言い出せずに、真っ青な顔で夕方帰ってきたかと思えば丸五日も寝込んだんだぞ、お前」
「あの頃よりも今の方がずっと体の調子がいいわ。お医者様に聞いてみて、お兄様。お願いよ」
少し離れたところに立ちオリビア嬢を見守っていた私は、祈るような思いだった。
幼い頃から外出の機会がほとんどなく、病弱だったため学園にも通えなかったオリビア嬢には、同じ年頃のご友人が少ないのだとか。
そんなオリビア嬢の元へ、珍しくお茶会の招待状が届いたのだ。
その茶会の招待主は、ライリー様とオリビア嬢のお母様、亡きアクストン前公爵夫人の古い友人でもあったゲルナー侯爵夫人だった。数ヶ月に一度程度の間隔で、こうしてオリビア嬢を気遣って声をかけてくださっているらしい。何度か参加しているためオリビア嬢も顔見知りのご令嬢が何人かいるようで、行きたくてたまらないのだろう。
(そりゃそうよね……いくら素敵なお屋敷とはいえ、ずっと閉じこもっていたら外に出たくもなるってものよ)
必死に頼み込むオリビア嬢と、苦虫を噛み潰したような顔のライリー様を見ながら、私も心の中で許可が出ることを祈っていた。
「今回はすぐにお暇するから!」
「……本当だろうな」
「本当よ! それに、ロゼッタも一緒なのよ。ロゼッタがちゃんと私を連れて帰るわよ」
オリビア嬢の言葉に、ライリー様がチラリとこちらを見るようなそぶりをした。
「……次の診察の結果次第だ」
「っ! あ、ありがとうお兄様!」
晴れやかな顔をしたオリビア嬢の頭の中では、もうすでにお茶会用のドレス候補が次々浮かんでいることだろう。
◇ ◇ ◇
それから二週間後、オリビア嬢は爽やかな水色のドレスに身を包み、丁寧にお化粧を施してゲルナー侯爵宅に赴いた。髪は可愛らしくハーフアップに結って何ヶ所か細い三つ編みを垂らしてある。凝ったヘアスタイルにオリビア嬢は大喜びしてくれた。
(あとは帰宅時間ね……。絶対に長居しないようにしなくては……)
今朝、ライリー様から直接念を押された。
「必ず二時間以内に帰らせてくれ。くれぐれも長居は無用だ。分かったな」
厳しすぎる気はするけれど、以前お茶会で無理して長居したことから体調を崩したという過去があるならば、ライリー様の心配も理解できる。
(今はとにかく実績を積むことが大事よね。無事の帰宅が何度か続けば、そのうちオリビア嬢の外出時間も徐々に延ばしてもらえるでしょう)
私はそう考えながら、ゲルナー侯爵家の門をくぐるオリビア嬢の後ろに続いた。
中庭にはすでに何人ものご婦人方やご令嬢が来ていて、長テーブルを囲み談笑していた。
「あら! 来てくださったのね、オリビアさん」
「ご無沙汰しております、ゲルナー侯爵夫人。本日はお招きくださってありがとうございます」
主催者とオリビア嬢がにこやかに挨拶を交わしている間、私は少し離れたところに静かに立ち待機していた。しばらく会話をしてから、さ、どうぞ座ってちょうだいねと夫人に言われたオリビア嬢が奥の席につく。
何人かの顔見知りと思われるお嬢さん方が彼女に声をかけてくれる。そちらの方に視線を送って、私は固まった。
「……あら、あなた……」
なんと、その中の一人はあのエーベル・クルエット伯爵令嬢だったのだ。向こうもすぐに私に気が付き、目を丸くしている。
まさかこんな席でまた私に謝罪なんかしながらわぁわぁと泣いたりしないでしょうね……と、私が警戒していると――
「ロゼッタさんじゃないの! ロゼッタ・ハーグローヴ子爵令嬢。何ヶ月ぶりかしら、卒業以来だわ。お久しぶりねぇ。……あなた、こんなところで何をしているの?」
「お知り合いでしたの? 彼女は今、私の侍女をしてくれていますの。とても頼りになるし、気も合うし……私、彼女のことが大好きなんですのよ。ふふ」
何も知らないオリビア嬢が嬉しそうに微笑んで言った。
へぇ……と答えたクルエット伯爵令嬢は、泣くどころかニンマリと嫌な感じに口角を上げた。
「まぁ、そうでしたのー。オリビア嬢の、アクストン公爵家の侍女に……まーぁ、そう……。うふふふ」
何よ。何が言いたいのよ。
「……ええ。そうなんです。お久しぶりです、クルエット伯爵令嬢」
今日のクルエット伯爵令嬢には、学園で見せていたあのか弱げな雰囲気は全くない。オリビア嬢を交えてご令嬢方と話に花を咲かせながらも、時折チラチラと私の方を振り返ってはクスッと笑っている。
(何? 感じ悪いわね。男性がいない場だと、この人こんなにも変わるの?)
大方結婚できずに働き出した私のことが面白くてたまらないのだろう。ありありと顔に出ている。
というか、自分はどうなのよ。クルエット伯爵令嬢が結婚したという話は聞かない。
頭の中には様々な思いがよぎったけれど、私はクルエット伯爵令嬢の嫌な態度を極力気にしないようにした。今日の私はあくまでオリビア嬢の侍女。オリビア嬢さえこのお茶会を楽しんでくれて、無事に帰宅できればそれでいいのだから。
いよいよライリー様と約束した二時間が経とうという頃、私はオリビア嬢にそっと声をかけた。
「失礼いたします、オリビアお嬢様……そろそろお時間でございますので」
「あら、もう? あっという間ねぇ」
オリビア嬢はがっかりした様子だったけれど、ここで兄上との約束を破れば当分次はないとよく分かっているので、渋々腰を上げる。
「うふふふっ、ロゼッタさんったら。侍女が板についているわねぇ。お似合いよ、あなたには」
「……はぁ。それはどうも」
学園時代とは別人のような笑みを浮かべるクルエット伯爵令嬢に、私は不気味さを覚えた。
(これがこの人の本性だったってこと? あの〝エーベル親衛隊〟の男たちに見せてやりたいわね、この意地の悪い、いやぁ~な笑顔を……)
「あなた一生侍女としてアクストン公爵家で働くおつもりなの? ご結婚はもう諦めたのかしら? まぁ……でもそれもいいかもしれないわね。あなたってなんだか、そっちの方が性に合ってそうですもの。殿方に大事に愛されて女の幸せを手にするよりも、自分の稼ぎで独りで生きていく方が……」
「……え?」
あまりに嫌味ったらしいクルエット伯爵令嬢の言い方に、ついにピュアなオリビア嬢でさえ怪訝な顔で反応した。
「ふふ、いえ、ロゼッタさんって本当に成績優秀で素晴らしかったから。よいお家柄の夫人としてお屋敷で静かに暮らしていくよりも、才能を活かすお仕事をされていく方がずっと輝いていられる気がしたのよ。ふふ」
「ああ、……ええ、たしかに。ロゼッタって多才ですものね。私の知らないこともたくさん教えてくれるし。でも私は、そんなロゼッタだからこそ素敵な結婚をして幸せになってほしい気がするわ」
クルエット伯爵令嬢の言葉に悪意がないと判断したのだろう。私を褒めていると思ったらしいオリビア嬢はパッと明るい顔をしてそう言ってくれた。そんなオリビア嬢に、私も微笑んで答えた。
「ふふ、ありがとうございます、オリビアお嬢様」
「……ふっ……」
クルエット伯爵令嬢は私を見て、扇で口元を隠すようにしてまた少し笑った。
(いちいち気に障る反応するわね……絶対わざとでしょ)
お腹の中にモヤァとどす黒いものが渦巻くけれど、私はオリビア嬢のためにも笑みを崩さなかった。
その後、ご令嬢方に別れの挨拶をしたオリビア嬢が、最後にゲルナー侯爵夫人にも挨拶をしてこの場を立ち去ろうとした、その時だった。
侯爵夫人の周りにいた女性の中の一人が立ち上がり、私の方にスタスタとやって来る。
(……あ、この人)
「失礼、オリビア嬢。少しだけ、お宅のロゼッタさんとお話をさせていただけるかしら」
「……え? あの」
「ごめんなさい、時間はとらせないわ。よろしくて?」
「ええ。少しでしたら構いませんわ、クルエット伯爵夫人」
「ありがとう」
その女性――クルエット伯爵夫人はオリビア嬢にしとやかに礼を言うと、そのまま私に向き直った。
「……ロゼッタさん、その、なんと言っていいのか……娘のエーベルのことで、あなたにとても辛い思いをさせてしまったようね。……本当に、申し訳ないわ」
突然声をかけられてもどう返事をすればいいのか分からず、私は思わず口ごもった。
クルエット伯爵令嬢の母親であるこの伯爵夫人のことは、社交の場で何度か見かけていた。だけど、両親も特にクルエット家とは親しくないのか、ゆっくり会話しているのは見たことがないし、私もこうして伯爵夫人と面と向かって話すのは初めてだ。
戸惑う私をよそに、クルエット伯爵夫人はさらに言葉を重ねてくる。
「まさか、あなたの昔からの婚約者であったヘンウッド子爵令息のみならず、ダウズウェル伯爵令息までもが、うちの娘に懸想してしまうなんて……。しかも、そのためにあなたのことを……。相手側の一方的な感情だとは言っても、あなたがあまりにも可哀相で……私、あなたの二度目の婚約破棄のことを知った夜なんか、一睡もできなかったわ」
「……はぁ」
「辛くてたまらないでしょう? 今。大丈夫……?」
心底心配でたまらないというその表情は私への憐憫に満ちていて、なんだか自分がものすごく惨めな人間になった気がした。
……早くこの人のそばから離れたい。
私は咄嗟にそう思った。だけど本気で心配してくれている様子の伯爵夫人にあまり失礼な態度をとるわけにもいかない。
「……お気遣いありがとうございます、クルエット伯爵夫人。ですが、どうかそんなにお気になさらないでください。こんなことでダメになってしまうご縁なんて、所詮その程度のものだったのですから。遅かれ早かれ、別の何かが原因で破局していたかもしれませんわ」
「まぁ、ロゼッタさん……。気丈なのね。本当は辛くてたまらないでしょうに」
「いえ、本当に、私は大丈夫です」
「そんな……大丈夫なはずがないわ。子爵家のお嬢さんが二度も婚約を破棄されてしまったのよ。経歴に大きな傷がついてしまって……あなたがこの先どんな人生を歩むのかと思うと、私……。ね、何もしてあげられないかもしれないけれど、私でよかったら相談してちょうだい。あなたの過去の婚約者たちとうちの娘がこの先どうこうなることは決してないけれど、それでも私、あなたのためになることならなんでもしてあげたいって思っているのよ」
……なんだろう。この人の言葉を聞けば聞くほど、気持ちが沈んでいく感じがする。
(別に、私はそこまで可哀相な女じゃない)
もう話を切り上げたい。私は努めて明るい表情を作ると、これで終わりとばかりにクルエット伯爵夫人に言った。
「本当に、私は大丈夫です、クルエット伯爵夫人。たしかに結婚の話はなくなってしまいましたが、今はアクストン公爵家の侍女として毎日とても充実した日々を送っておりますので。楽しいんですのよ、とても。オリビアお嬢様は素敵な方ですし、ご当主のアクストン公爵もご立派な方で……」
「だけど、あなたのご両親はあなたを侍女としてよそのお宅で働かせたかったわけじゃないと思うわ。きっといい人と結婚して幸せになってほしかったはずよ。……どう? あなたのお母様、ハーグローヴ子爵夫人は。落ち込んでいらっしゃるんじゃない? お元気にされてる?」
ムカ。
……と、不愉快な気持ちが一気にせり上がってきて、思わず顔が強張った。どうしたんだろう、私。さっきのクルエット伯爵令嬢の態度で神経がピリピリしているからかしら。母のことまで持ち出してきてなかなか話を終わらせようとしない目の前の伯爵夫人になんだか無性に腹が立ってきた。
(いけないわ……落ち着くのよ、ロゼッタ。せっかく心配してくださっているのに。態度に出すな、態度に出しちゃダメ……)
「……ええ! 母も最初はしょんぼりしてましたが、私が毎日楽しく過ごしているものですから、ひとまずはこれでいいかという気持ちになっているようですわ、ほほ。では、すみませんがこれで……」
「だって、今日みたいなお茶会、ハーグローヴ子爵夫人ならきっとお顔を出すはずでしょう? あなたの二度目の婚約破棄以降、夫人は社交の場にほとんど顔を見せないと皆が言っているものだから……」
……この人、何を言っているのかしら。
母は別にゲルナー侯爵夫人と個人的に親しいわけではないから、今日みたいな内輪の茶会に呼んだり呼ばれたりする関係ではないというだけなのに。
「……ご心配いただいて、本当にありがとうございます。両親も私も元気ですから、大丈夫です。すみませんが、オリビアお嬢様をお屋敷に連れ帰る時間が迫っておりますので、本日はこれで失礼いたします」
結局、最後はかなり強引に会話を切り上げて帰ってしまったのだった。
「……というわけでして。帰宅時間が少し遅れてしまったのは、決してオリビアお嬢様がお帰りを渋ったからではございません。例の婚約破棄のことで、私があるご婦人に声をかけられしばらく捕まってしまったからでして……。申し訳ございませんでした」
アクストン公爵邸に帰るなり目を吊り上げて私たちを出迎えた当主のライリー様に、事情を説明させてくださいと懇願し、私はライリー様の執務室に入った。深々と頭を下げ、許しを請う。
しばらく無言でいた当主は、ふー……と長く息をつくと、分かった、と短く答えた。私はおずおずと顔を上げる。美麗な顔のその眉間にはくっきりと皺が刻まれており、いまだ彼が不機嫌なのが見てとれた。
「……それで、体調は」
「……あ、はい! オリビアお嬢様でしたら、大丈夫です。終始お疲れのご様子もなく、元気にお過ごしでいらっしゃいました。久しぶりのお茶会はとても楽しかったようで、ご令嬢方とのお喋りを喜ばれておいででしたわ」
「……そうか」
私の報告に、ライリー様の表情が少し和らいだ。大切な妹君が楽しいひとときを過ごしてきたことを喜んでいるのが手にとるように分かった。
(やっぱりオリビア嬢には優しいなぁ……)
もう下がっていいという一言が欲しいのだけど、ライリー様は何も言わない。ついには机の前に座りペラペラと書類なんかを捲りはじめた。
(……えぇ。どうしよう。では失礼いたしますって言って下がってもいいのかしら、こういう場合)
私が一人気まずくモジモジしていると、ふとライリー様が言った。
「……君は、大丈夫なのか」
「っ? は、はい?」
「妹について社交の場に行けば、今後も面白おかしくいろいろ尋ねてくる者が出るだろう。また不愉快な思いをすることになるんじゃないのか、オリビアの侍女をしていると」
……ああ。大丈夫なのか、って、そういうことか……
まぁたしかに、今日はちょっと嫌な思いはしたけれど。
だからと言って、これから先ずっと社交の場から逃げて回ることなんてできないし。気にしていたらそれこそ修道院にでも入るしかなくなるわ。
「私でしたら大丈夫ですわ。二度の婚約破棄は今さらなかったことにはなりませんし、どうせどこへ行っても当分何かしら言われ続けますもの。それはオリビアお嬢様の侍女をしていなくても同じことですわ」
「……」
「社交界は他人の噂話で持ち切りなことも重々承知しておりますし。どうせ今後誰かの新しいスキャンダルがいくつか出てくれば、誰も私の話なんて一切しなくなる日がやって来ますわ。それまでは何か言われても、のらりくらりと躱し続けるまでです」
「……ふ、そうか」
小さくそう言うと、ライリー様はこの部屋に私が入ってきて以来初めて顔を上げ、私を見た。金色に深く輝く綺麗な瞳と目が合って、思わずドキンと心臓が跳ねる。
(……うーん……。やっぱり素敵だなぁこの方……)
「随分肝が据わっているようで安心した。妹は君をいたく気に入っているからな。簡単に辞められてしまってはまたあいつが悲しむだろうから」
「ああ、いえ、ご心配なく。そのような考えは微塵もございませんので」
ケロリとそう答えると、私から目を逸らしたライリー様が少し笑った気がした。
「あ、いえ、ごめんなさい急に。その……余計なお世話かもしれませんが、髪を結ったりはされないのかなぁって。可愛らしく編み上げたらきっとオリビア嬢のご気分も晴れやかになるのではないかって。そう思いまして」
「ああ、これ……」
私の言葉にオリビア嬢は困ったように眉尻を下げると、細い指先で自分の髪を一房弄びながら言った。
「前は侍女に結ってもらっていたのだけれど……体調が思わしくなかったりで、結局一日中部屋で過ごすことが多いものですから。どこにも出かけず誰にも会わないのに、朝から侍女の手を煩わせることが申し訳なくなってしまって。もう髪は結わなくていいわって、私から言ったんです」
「……そうなのですね」
うーん、もったいない……。たとえ家の中で過ごすにしても、綺麗に髪を整えて過ごせば気分も上がるはずなのになぁ
この人を可愛く飾ってあげたい。それで少しでも、明るい気持ちになってくれるのなら。
「あなたの髪型はとても素敵ね」
「あ、ありがとうございます。毎朝自分で結ってるんですよ、私」
「そうなの? すごい。とても器用なのね」
オリビア嬢は興味をそそられたのか、編み込みを作った私の髪型を食い入るように見ている。そうよね、やっぱり女の子だもの。オシャレが嫌いなわけがない。
「あの……、オリビア嬢さえよければ、私に髪を結わせていただけませんか?」
「えっ? で、でも……、あなたにそんな手間をかけるのは申し訳ないわ」
「いえ、全然手間じゃありませんわ。私得意だし、好きなんですこういうの」
「そう……? じゃあ……お、お願いしてもいいかしら……」
「ええ! お任せくださいっ」
ふふ。やったわ。せっかくだからとびきり可愛くしてあげなくちゃ。私はウキウキしながらドレッサーに置いてあったブラシやピン、リボンなどを借りると、ソファーに腰かけているオリビア嬢の背後に回った。
「失礼いたします」
(……うわぁ、本当にツヤツヤ……。これはやりがいがあるわ!)
若く清純な彼女の魅力を引き立てるような、それでいて凝った愛らしい髪型にしようと、私は指先をくるくると動かしていく。
サイドの髪だけを少し残して、後ろで一つにまとめると、その束と水色のリボンとを一緒に緩く三つ編みにする。それをピンで数ヵ所留めつつ後頭部にくるりと巻き上げていき、リボンの先をふわりと垂らした。
「はい、できました。どうですか? 下ろしていることが多いようでしたから、まとめて結い上げてみましたわ。髪型が変わると、気分が変わりませんか?」
「……っ! 素敵……。こんな短い時間で、こんなに可愛くしてくれるなんて……。あなたすごいのね、ロゼッタさん」
何度も角度を変えながら手鏡を見て感嘆するオリビア嬢の言葉に、思わず頬が緩む。
「ふふっ。お気に召したようでよかったです」
「ええ! 本当に素敵。あなたの言う通りね。ここまで気持ちが弾むなんて。……嬉しいわ。ありがとうロゼッタさん」
そう言って私の方を振り向いた彼女は、今日一番の晴れやかな笑顔だった。
「……ロゼッタさん、今日はたくさん話を聞いてくださってありがとう。なんだかあなたはとても話しやすいわ。こんなに自分の気持ちを人に打ち明けたのは久しぶりです」
「ふふ、私でよければ、これからもなんでも話してください。たとえ私がアクストン公爵家の侍女になれなかったとしても、お手紙をやり取りしたり、時々はこうして会ってお喋りしたりすることもきっとできますもの」
その後は私の学園生活の思い出話で盛り上がり、ただの面接にしてはかなり長い時間をオリビア嬢のお部屋で過ごしてしまった。別れ際には互いにしっかりと手を握り合って挨拶し、今日の出会いに感謝し合った。
それから日を置かずして、アクストン公爵家から我が家に採用通知が届いたのだった。
第二章 アクストン公爵家の侍女
アクストン公爵家の住み込みの侍女として働くことになった私の主な仕事は、オリビア嬢の身の回りのお世話だった。
オリビア嬢が起きると、身支度をお手伝いする。お化粧をして髪を結ってあげたり、ドレス選びや靴選びをお手伝いしたりする。これが思いの外楽しかった。
そもそも私はオシャレが大好きで、自分の肌や髪のお手入れも欠かさなかったし、流行りの小物やドレスについても詳しかった。自分の知識を駆使してこの美少女を美しく飾ることはウキウキしたし、オリビア嬢をとても喜ばせもした。
「ふふ、あなたって本当にヘレナのようだわ。ヘレナもこうして私好みのお化粧を上手にしてくれていたし、私に似合う色のアドバイスもよくしてくれたの。あなたと歳も同じだし……っ、ごめんなさい。他の人と比べるようなことを言っては、不愉快よね……?」
「ま、ふふ。いいえ。オリビアお嬢様が喜んでくださるなら私もとても嬉しいですわ。もっと褒めてくださいませ」
「まぁっ、ロゼッタったら。ふふ……」
こうしてたまに軽口を叩くと、オリビア嬢は本当に楽しそうに笑うのだった。
最初の頃は、私たちの様子を見たあの兄の冷徹公爵にチクリと小言をいただくことも少なくなかった。
「気に入られたのは結構だが、あまり妹をはしゃがせないでくれないか。笑いすぎると発作が起こって咳が止まらなくなることがある。何かあってからでは遅いのだぞ」
「……はい、申し訳ございません」
「お兄様ったら……! 自分のことはちゃんと自分で分かっているわ。ロゼッタにきつく当たらないで」
だけどそのたびに、オリビア嬢がこうして私を全力で庇ってくれる。
「ごめんなさいね、ロゼッタ……。兄って女性が嫌いなのか苦手なのか、いつもあの調子なのよ。嫌になって、辞めたりしないでね……」
辞めません辞めません。素晴らしい職場ですもの、ここ。オリビア嬢は優しくて可愛いし、嫌な仕事仲間もいない。使用人たちは皆品がよく、穏やかでいい人ばかりだ。食事も美味しいし、ふかふかベッドの個室付き。誰が辞めるものですか。公爵様の嫌味の一つや二つ、我慢するわ。
「ご心配なく、オリビアお嬢様。アクストン公爵に叱られたぐらいで私は辞めたりいたしませんので。それに、いつも大切なことを教えていただいておりますわ。たしかにお喋りが楽しくても、ほどほどにしなくてはいけませんね。オリビアお嬢様のお体に負担のかからない程度に。気を付けますわ」
私がそう答えると、オリビア嬢はふう、と深く溜め息をつく。
「……あんなだから、お兄様にはお嫁さんが来ないのかしら」
「……まさか。アクストン公爵家のご当主ですよ。しかも、あれほどの美しい容姿をお持ちで……旦那様さえその気になれば、それこそよりどりみどりでは?」
私が素直にそう答えると、オリビア嬢はますます眉間に皺を寄せる。
「うーん……。じゃあやっぱり、お兄様が選り好みしすぎているのかしら……。うちには兄と私しかいないのに。兄が結婚してくれなかったら、アクストン公爵家は私たちの代で終わってしまうわ」
「そ、そんなこと。旦那様はよく分かっておいでのはずですもの。きちんと考えておられるはずですわ。大丈夫ですよ」
口ではそう言いつつ、実は私も疑問でならなかった。いくら性格にちょっと難ありとはいえ、このアクストン公爵家の当主とあらば引く手あまたのはず。どうにかして繋がりを持ちたいと思っている家も多いだろうし……
(きっと縁談を断りまくってここまで来たんだろうなぁ……)
簡単に女性に心を開きそうな感じでは、たしかにない。
それにしたって、結婚して跡継ぎを作ることはこの公爵家にとって大切なことだろうに。
(……ま、私が心配する話でもないわね)
ある夜、帰宅したアクストン公爵を捕まえてオリビア嬢が真剣に頼み事をはじめた。
「お願いよ、お兄様。もうお茶会には半年も行っていないわ。体調も安定しているし……ね? いいでしょう?」
「前回のことを覚えていないのか。途中で具合が悪くなったと言い出せずに、真っ青な顔で夕方帰ってきたかと思えば丸五日も寝込んだんだぞ、お前」
「あの頃よりも今の方がずっと体の調子がいいわ。お医者様に聞いてみて、お兄様。お願いよ」
少し離れたところに立ちオリビア嬢を見守っていた私は、祈るような思いだった。
幼い頃から外出の機会がほとんどなく、病弱だったため学園にも通えなかったオリビア嬢には、同じ年頃のご友人が少ないのだとか。
そんなオリビア嬢の元へ、珍しくお茶会の招待状が届いたのだ。
その茶会の招待主は、ライリー様とオリビア嬢のお母様、亡きアクストン前公爵夫人の古い友人でもあったゲルナー侯爵夫人だった。数ヶ月に一度程度の間隔で、こうしてオリビア嬢を気遣って声をかけてくださっているらしい。何度か参加しているためオリビア嬢も顔見知りのご令嬢が何人かいるようで、行きたくてたまらないのだろう。
(そりゃそうよね……いくら素敵なお屋敷とはいえ、ずっと閉じこもっていたら外に出たくもなるってものよ)
必死に頼み込むオリビア嬢と、苦虫を噛み潰したような顔のライリー様を見ながら、私も心の中で許可が出ることを祈っていた。
「今回はすぐにお暇するから!」
「……本当だろうな」
「本当よ! それに、ロゼッタも一緒なのよ。ロゼッタがちゃんと私を連れて帰るわよ」
オリビア嬢の言葉に、ライリー様がチラリとこちらを見るようなそぶりをした。
「……次の診察の結果次第だ」
「っ! あ、ありがとうお兄様!」
晴れやかな顔をしたオリビア嬢の頭の中では、もうすでにお茶会用のドレス候補が次々浮かんでいることだろう。
◇ ◇ ◇
それから二週間後、オリビア嬢は爽やかな水色のドレスに身を包み、丁寧にお化粧を施してゲルナー侯爵宅に赴いた。髪は可愛らしくハーフアップに結って何ヶ所か細い三つ編みを垂らしてある。凝ったヘアスタイルにオリビア嬢は大喜びしてくれた。
(あとは帰宅時間ね……。絶対に長居しないようにしなくては……)
今朝、ライリー様から直接念を押された。
「必ず二時間以内に帰らせてくれ。くれぐれも長居は無用だ。分かったな」
厳しすぎる気はするけれど、以前お茶会で無理して長居したことから体調を崩したという過去があるならば、ライリー様の心配も理解できる。
(今はとにかく実績を積むことが大事よね。無事の帰宅が何度か続けば、そのうちオリビア嬢の外出時間も徐々に延ばしてもらえるでしょう)
私はそう考えながら、ゲルナー侯爵家の門をくぐるオリビア嬢の後ろに続いた。
中庭にはすでに何人ものご婦人方やご令嬢が来ていて、長テーブルを囲み談笑していた。
「あら! 来てくださったのね、オリビアさん」
「ご無沙汰しております、ゲルナー侯爵夫人。本日はお招きくださってありがとうございます」
主催者とオリビア嬢がにこやかに挨拶を交わしている間、私は少し離れたところに静かに立ち待機していた。しばらく会話をしてから、さ、どうぞ座ってちょうだいねと夫人に言われたオリビア嬢が奥の席につく。
何人かの顔見知りと思われるお嬢さん方が彼女に声をかけてくれる。そちらの方に視線を送って、私は固まった。
「……あら、あなた……」
なんと、その中の一人はあのエーベル・クルエット伯爵令嬢だったのだ。向こうもすぐに私に気が付き、目を丸くしている。
まさかこんな席でまた私に謝罪なんかしながらわぁわぁと泣いたりしないでしょうね……と、私が警戒していると――
「ロゼッタさんじゃないの! ロゼッタ・ハーグローヴ子爵令嬢。何ヶ月ぶりかしら、卒業以来だわ。お久しぶりねぇ。……あなた、こんなところで何をしているの?」
「お知り合いでしたの? 彼女は今、私の侍女をしてくれていますの。とても頼りになるし、気も合うし……私、彼女のことが大好きなんですのよ。ふふ」
何も知らないオリビア嬢が嬉しそうに微笑んで言った。
へぇ……と答えたクルエット伯爵令嬢は、泣くどころかニンマリと嫌な感じに口角を上げた。
「まぁ、そうでしたのー。オリビア嬢の、アクストン公爵家の侍女に……まーぁ、そう……。うふふふ」
何よ。何が言いたいのよ。
「……ええ。そうなんです。お久しぶりです、クルエット伯爵令嬢」
今日のクルエット伯爵令嬢には、学園で見せていたあのか弱げな雰囲気は全くない。オリビア嬢を交えてご令嬢方と話に花を咲かせながらも、時折チラチラと私の方を振り返ってはクスッと笑っている。
(何? 感じ悪いわね。男性がいない場だと、この人こんなにも変わるの?)
大方結婚できずに働き出した私のことが面白くてたまらないのだろう。ありありと顔に出ている。
というか、自分はどうなのよ。クルエット伯爵令嬢が結婚したという話は聞かない。
頭の中には様々な思いがよぎったけれど、私はクルエット伯爵令嬢の嫌な態度を極力気にしないようにした。今日の私はあくまでオリビア嬢の侍女。オリビア嬢さえこのお茶会を楽しんでくれて、無事に帰宅できればそれでいいのだから。
いよいよライリー様と約束した二時間が経とうという頃、私はオリビア嬢にそっと声をかけた。
「失礼いたします、オリビアお嬢様……そろそろお時間でございますので」
「あら、もう? あっという間ねぇ」
オリビア嬢はがっかりした様子だったけれど、ここで兄上との約束を破れば当分次はないとよく分かっているので、渋々腰を上げる。
「うふふふっ、ロゼッタさんったら。侍女が板についているわねぇ。お似合いよ、あなたには」
「……はぁ。それはどうも」
学園時代とは別人のような笑みを浮かべるクルエット伯爵令嬢に、私は不気味さを覚えた。
(これがこの人の本性だったってこと? あの〝エーベル親衛隊〟の男たちに見せてやりたいわね、この意地の悪い、いやぁ~な笑顔を……)
「あなた一生侍女としてアクストン公爵家で働くおつもりなの? ご結婚はもう諦めたのかしら? まぁ……でもそれもいいかもしれないわね。あなたってなんだか、そっちの方が性に合ってそうですもの。殿方に大事に愛されて女の幸せを手にするよりも、自分の稼ぎで独りで生きていく方が……」
「……え?」
あまりに嫌味ったらしいクルエット伯爵令嬢の言い方に、ついにピュアなオリビア嬢でさえ怪訝な顔で反応した。
「ふふ、いえ、ロゼッタさんって本当に成績優秀で素晴らしかったから。よいお家柄の夫人としてお屋敷で静かに暮らしていくよりも、才能を活かすお仕事をされていく方がずっと輝いていられる気がしたのよ。ふふ」
「ああ、……ええ、たしかに。ロゼッタって多才ですものね。私の知らないこともたくさん教えてくれるし。でも私は、そんなロゼッタだからこそ素敵な結婚をして幸せになってほしい気がするわ」
クルエット伯爵令嬢の言葉に悪意がないと判断したのだろう。私を褒めていると思ったらしいオリビア嬢はパッと明るい顔をしてそう言ってくれた。そんなオリビア嬢に、私も微笑んで答えた。
「ふふ、ありがとうございます、オリビアお嬢様」
「……ふっ……」
クルエット伯爵令嬢は私を見て、扇で口元を隠すようにしてまた少し笑った。
(いちいち気に障る反応するわね……絶対わざとでしょ)
お腹の中にモヤァとどす黒いものが渦巻くけれど、私はオリビア嬢のためにも笑みを崩さなかった。
その後、ご令嬢方に別れの挨拶をしたオリビア嬢が、最後にゲルナー侯爵夫人にも挨拶をしてこの場を立ち去ろうとした、その時だった。
侯爵夫人の周りにいた女性の中の一人が立ち上がり、私の方にスタスタとやって来る。
(……あ、この人)
「失礼、オリビア嬢。少しだけ、お宅のロゼッタさんとお話をさせていただけるかしら」
「……え? あの」
「ごめんなさい、時間はとらせないわ。よろしくて?」
「ええ。少しでしたら構いませんわ、クルエット伯爵夫人」
「ありがとう」
その女性――クルエット伯爵夫人はオリビア嬢にしとやかに礼を言うと、そのまま私に向き直った。
「……ロゼッタさん、その、なんと言っていいのか……娘のエーベルのことで、あなたにとても辛い思いをさせてしまったようね。……本当に、申し訳ないわ」
突然声をかけられてもどう返事をすればいいのか分からず、私は思わず口ごもった。
クルエット伯爵令嬢の母親であるこの伯爵夫人のことは、社交の場で何度か見かけていた。だけど、両親も特にクルエット家とは親しくないのか、ゆっくり会話しているのは見たことがないし、私もこうして伯爵夫人と面と向かって話すのは初めてだ。
戸惑う私をよそに、クルエット伯爵夫人はさらに言葉を重ねてくる。
「まさか、あなたの昔からの婚約者であったヘンウッド子爵令息のみならず、ダウズウェル伯爵令息までもが、うちの娘に懸想してしまうなんて……。しかも、そのためにあなたのことを……。相手側の一方的な感情だとは言っても、あなたがあまりにも可哀相で……私、あなたの二度目の婚約破棄のことを知った夜なんか、一睡もできなかったわ」
「……はぁ」
「辛くてたまらないでしょう? 今。大丈夫……?」
心底心配でたまらないというその表情は私への憐憫に満ちていて、なんだか自分がものすごく惨めな人間になった気がした。
……早くこの人のそばから離れたい。
私は咄嗟にそう思った。だけど本気で心配してくれている様子の伯爵夫人にあまり失礼な態度をとるわけにもいかない。
「……お気遣いありがとうございます、クルエット伯爵夫人。ですが、どうかそんなにお気になさらないでください。こんなことでダメになってしまうご縁なんて、所詮その程度のものだったのですから。遅かれ早かれ、別の何かが原因で破局していたかもしれませんわ」
「まぁ、ロゼッタさん……。気丈なのね。本当は辛くてたまらないでしょうに」
「いえ、本当に、私は大丈夫です」
「そんな……大丈夫なはずがないわ。子爵家のお嬢さんが二度も婚約を破棄されてしまったのよ。経歴に大きな傷がついてしまって……あなたがこの先どんな人生を歩むのかと思うと、私……。ね、何もしてあげられないかもしれないけれど、私でよかったら相談してちょうだい。あなたの過去の婚約者たちとうちの娘がこの先どうこうなることは決してないけれど、それでも私、あなたのためになることならなんでもしてあげたいって思っているのよ」
……なんだろう。この人の言葉を聞けば聞くほど、気持ちが沈んでいく感じがする。
(別に、私はそこまで可哀相な女じゃない)
もう話を切り上げたい。私は努めて明るい表情を作ると、これで終わりとばかりにクルエット伯爵夫人に言った。
「本当に、私は大丈夫です、クルエット伯爵夫人。たしかに結婚の話はなくなってしまいましたが、今はアクストン公爵家の侍女として毎日とても充実した日々を送っておりますので。楽しいんですのよ、とても。オリビアお嬢様は素敵な方ですし、ご当主のアクストン公爵もご立派な方で……」
「だけど、あなたのご両親はあなたを侍女としてよそのお宅で働かせたかったわけじゃないと思うわ。きっといい人と結婚して幸せになってほしかったはずよ。……どう? あなたのお母様、ハーグローヴ子爵夫人は。落ち込んでいらっしゃるんじゃない? お元気にされてる?」
ムカ。
……と、不愉快な気持ちが一気にせり上がってきて、思わず顔が強張った。どうしたんだろう、私。さっきのクルエット伯爵令嬢の態度で神経がピリピリしているからかしら。母のことまで持ち出してきてなかなか話を終わらせようとしない目の前の伯爵夫人になんだか無性に腹が立ってきた。
(いけないわ……落ち着くのよ、ロゼッタ。せっかく心配してくださっているのに。態度に出すな、態度に出しちゃダメ……)
「……ええ! 母も最初はしょんぼりしてましたが、私が毎日楽しく過ごしているものですから、ひとまずはこれでいいかという気持ちになっているようですわ、ほほ。では、すみませんがこれで……」
「だって、今日みたいなお茶会、ハーグローヴ子爵夫人ならきっとお顔を出すはずでしょう? あなたの二度目の婚約破棄以降、夫人は社交の場にほとんど顔を見せないと皆が言っているものだから……」
……この人、何を言っているのかしら。
母は別にゲルナー侯爵夫人と個人的に親しいわけではないから、今日みたいな内輪の茶会に呼んだり呼ばれたりする関係ではないというだけなのに。
「……ご心配いただいて、本当にありがとうございます。両親も私も元気ですから、大丈夫です。すみませんが、オリビアお嬢様をお屋敷に連れ帰る時間が迫っておりますので、本日はこれで失礼いたします」
結局、最後はかなり強引に会話を切り上げて帰ってしまったのだった。
「……というわけでして。帰宅時間が少し遅れてしまったのは、決してオリビアお嬢様がお帰りを渋ったからではございません。例の婚約破棄のことで、私があるご婦人に声をかけられしばらく捕まってしまったからでして……。申し訳ございませんでした」
アクストン公爵邸に帰るなり目を吊り上げて私たちを出迎えた当主のライリー様に、事情を説明させてくださいと懇願し、私はライリー様の執務室に入った。深々と頭を下げ、許しを請う。
しばらく無言でいた当主は、ふー……と長く息をつくと、分かった、と短く答えた。私はおずおずと顔を上げる。美麗な顔のその眉間にはくっきりと皺が刻まれており、いまだ彼が不機嫌なのが見てとれた。
「……それで、体調は」
「……あ、はい! オリビアお嬢様でしたら、大丈夫です。終始お疲れのご様子もなく、元気にお過ごしでいらっしゃいました。久しぶりのお茶会はとても楽しかったようで、ご令嬢方とのお喋りを喜ばれておいででしたわ」
「……そうか」
私の報告に、ライリー様の表情が少し和らいだ。大切な妹君が楽しいひとときを過ごしてきたことを喜んでいるのが手にとるように分かった。
(やっぱりオリビア嬢には優しいなぁ……)
もう下がっていいという一言が欲しいのだけど、ライリー様は何も言わない。ついには机の前に座りペラペラと書類なんかを捲りはじめた。
(……えぇ。どうしよう。では失礼いたしますって言って下がってもいいのかしら、こういう場合)
私が一人気まずくモジモジしていると、ふとライリー様が言った。
「……君は、大丈夫なのか」
「っ? は、はい?」
「妹について社交の場に行けば、今後も面白おかしくいろいろ尋ねてくる者が出るだろう。また不愉快な思いをすることになるんじゃないのか、オリビアの侍女をしていると」
……ああ。大丈夫なのか、って、そういうことか……
まぁたしかに、今日はちょっと嫌な思いはしたけれど。
だからと言って、これから先ずっと社交の場から逃げて回ることなんてできないし。気にしていたらそれこそ修道院にでも入るしかなくなるわ。
「私でしたら大丈夫ですわ。二度の婚約破棄は今さらなかったことにはなりませんし、どうせどこへ行っても当分何かしら言われ続けますもの。それはオリビアお嬢様の侍女をしていなくても同じことですわ」
「……」
「社交界は他人の噂話で持ち切りなことも重々承知しておりますし。どうせ今後誰かの新しいスキャンダルがいくつか出てくれば、誰も私の話なんて一切しなくなる日がやって来ますわ。それまでは何か言われても、のらりくらりと躱し続けるまでです」
「……ふ、そうか」
小さくそう言うと、ライリー様はこの部屋に私が入ってきて以来初めて顔を上げ、私を見た。金色に深く輝く綺麗な瞳と目が合って、思わずドキンと心臓が跳ねる。
(……うーん……。やっぱり素敵だなぁこの方……)
「随分肝が据わっているようで安心した。妹は君をいたく気に入っているからな。簡単に辞められてしまってはまたあいつが悲しむだろうから」
「ああ、いえ、ご心配なく。そのような考えは微塵もございませんので」
ケロリとそう答えると、私から目を逸らしたライリー様が少し笑った気がした。
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