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1巻

1-2

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 あの時とは比較にならないほど深い地獄の底に私を突き落とそうとしている。

「……最初はきっぱりと断っていたんだ。俺には子どもの頃から好きな人がいて、最近その人とようやく婚約できたところなんだ、って。だから、気持ちには絶対にこたえられないって。本当なんだ。……だけど、その子はずっと俺のことを……それで、俺」
「それで、何よ」
「……ごめん。気付いたら俺もその子のことが、頭から、離れなくなっていた……」

 苦渋くじゅうに満ちた表情で言葉を絞り出すアルロは、とても冗談を言っているようには見えない。グラリと目まいがした。

「私は、どうなるの? また、婚約を破棄されるってこと?」
「…………」
「そんなことになれば、私の人生がどうなるか、あなたは少しでも考えてくれたの? ……考えても、私よりその人を選ぶと?」
「ごめん……」
「どうして? 子どもの頃から仲良しだった、家族ぐるみの付き合いになった私を、ハーグローヴ子爵家を、切り捨てるっていうの……?」

 いつの間にか、私の瞳からは涙がボロボロとあふれていた。
 そんな私から目を逸らすようにして、アルロがぽつりと呟いた。

「……それでも、エーベルには、代えられない」

 エーベル?

(今、エーベルって言ったの……?)

 自分の聞いた言葉が信じられなくて、私は声を失った。

「エーベルを失うことは、考えられない……。あいつには、俺しかいない。俺にももう、エーベル以外の女は、考えられないんだ」

 また、あのエーベル・クルエット伯爵令嬢なの?

「俺たちは、卒業したら結婚する。……ロゼッタ、お前のことを好きだった気持ちも本当だ。幸せにしようと心から思っていたんだよ。だけど……ごめん」
「アル、ロ……」
「婚約破棄の責任はきちんととる。分割になってしまうけど、慰謝料も支払う。だけど……、エーベルと別れる選択肢はない。俺は彼女を守って生きていく。そう決めたんだ。……ごめん、ロゼッタ」

 言葉が出ない。
 頭の中に、私の前で顔を覆って泣いていた、いや、泣き真似をしていた彼女のつややかな赤い髪と、真っ白な細い指が浮かんでくる。可愛らしい声。真っ青で美しい丸い目。
 あの日食堂で、鋭い目つきで私を睨みつけていた、あの人の顔……
 アルロは再度、ごめん、と絞り出すように呟くと、私を置いて教室を出ていった。
 しんと静まり返った教室の中で、私はガクリと膝から崩れ落ち、床に座り込んだ。

(……どうして、どうしてまた、あの人なの?)

 両親には三日間、言えなかった。
 具合が悪いと言って、ずっとベッドに横になっていた。
 四日目の朝、ついに私は婚約破棄のことを両親に打ち明けた。
 二人はしばらくの間まばたきもせず、真っ白な顔でただ呆然と私を見つめていた。
 それから卒業までの日々は本当に地獄でしかなかった。
 案の定、学園でもこのうわさはすぐに広まり、生徒の間では様々な憶測が飛び交っているようだった。

「……ほら、ロゼッタ嬢の話。ヘンウッド子爵令息の時もさ、……覚えてるか? 廊下でエーベル嬢のこと当てつけみたいに怒鳴りつけてただろう?」
「二度も婚約破棄されるなんてさ、普通はあり得ないだろ? よほど性格に難ありなんだよ」
「人は見かけによらないよなぁ。黙ってれば可愛いのに……。どれだけ気が強いんだよ。こわぁ……」
「それにしてもロゼッタ嬢はこれからどうなさるつもりなのかしら。二度も婚約破棄されるなんてよほど大きな欠点のある人に違いないわ。もうまともな結婚は望めないわねぇ、あの人」
「うちの母もそう言っていたわ、先日の茶会で。たぶん修道院に行くんじゃないかしらって。だって、もうそれしか道はないもの」
「っ! ちょっと、静かに……」
「え? あらっ……」
(修道院か……。それもいいかもしれないわね……)

 慌てて押し黙った生徒たちの真横を無言で通り過ぎながら、私はそんなことを思っていた。
 こんな風に面白おかしくうわさされているのは、もちろん学園の中だけじゃない。今や社交界全体が私のことを、いや、ハーグローヴ子爵家のことを話のネタにして盛り上がっているはずだ。父は連日ダウズウェル伯爵家におもむいては何やら話し合っているようだし、母はよその茶会へほとんど参加しなくなった。私だけでなく、母も針のむしろなのだろう。

(なんでこんなことに……。もう男の人なんて一生信じないんだから!)

 私との婚約をあんなに喜んでくれていたじゃない。子どもの頃からずっと好きだったって言葉はなんだったの?
 本当は学園なんか来たくない。ブライスもアルロも、あのご令嬢も、もう誰の顔も見たくもないし、誰からも見られたくない。
 だけど、あと少しで卒業なのだ。ここで出席日数を危うくするわけにはいかないし、卒業試験も受けなきゃいけない。中退するにはもったいない時期だ。

(……その後の身の振り方を、考えなくちゃ)

 他人にうわさされるまでもなく、もうまともな結婚は望めないということは分かっていた。私に責任は一切ない、と思いたいけれど、貼り付けられた〝二度も婚約破棄された子爵家の娘〟というレッテルは生涯剥がれることはないだろう。
 そんなことがぐるぐると頭の中を巡っている時、ブライスとすれ違った。
 私を見た途端ギョッとした顔をして、あちこちに視線を泳がせながら早足で通り過ぎる。
 何よ、あれ。
 苛立ちつつ廊下を歩いていると、今度はアルロとクルエット伯爵令嬢が歩いてくるのが見えた。
 アルロは私に気付いた途端、隣のクルエット伯爵令嬢に何やらボソッと耳打ちすると慌てた様子で向きを変え、クルエット伯爵令嬢を置いてどこかへ行ってしまった。
 都合よく逃げたようなアルロにますます不愉快になるものの、私は無表情をよそおって歩く。
 するとすれ違いざまに、クルエット伯爵令嬢が私にささやいた。

「お気の毒さま」
(……っ⁉)

 瞬間的に私は察した。この人は意図的に私を陥れているのだと。

「何よそれ。あなた……やっぱりわざとなの? わざと私から婚約者を奪っているの? どうしてこんなことをするのよ! 私があなたに何かした⁉」

 自分の今の立場も、彼女が皆の同情を集めやすいこともすっかり忘れ、私はクルエット伯爵令嬢に詰め寄った。

「きゃぁっ‼ ご、ごめんなさい……、ごめんなさい、ロゼッタさん……っ! ち、違うの……違うのよぉ……っ! わ、わ、私……私は、何も……っ、あぁぁ……っ」
「ちょ、ちょっと」

 彼女は自分の顔を庇うように大袈裟おおげさに両手を当てて、わぁわぁと泣きはじめた。この光景にはなんだか見覚えがある。

「何をやっているんだ! ハーグローヴ子爵令嬢!」
「エーベル嬢に八つ当たりするなよ! 彼女は何も悪くないんだ! ただブライスが勝手に恋をしただけだ。アルロだってそうさ。勘違いするな。落ち着けよ」
「暴力はダメだよ。君がそんなだから、君の婚約者たちは……」

 クルエット伯爵令嬢の泣き声を聞いてどこからともなく集まってきた〝エーベル親衛隊〟のような男子生徒たちに腕を捕まれ、前に立ちはだかられる。私はがっくりと項垂うなだれるしかなかった。


   ◇ ◇ ◇


 ほとんどの貴族家の子女たちは学園を卒業する頃までには婚約者ができて、卒業後は相手方の領地の経営を学んだりと花嫁修業に入るものだ。
 だけど私は独り身のまま。どうにか踏ん張って卒業までは学園に通い続けたけれど、私はすっかり訳アリ傷もの令嬢として皆から奇異の目で見られるようになってしまった。皆に後ろ指をさされて悪口を言われ放題の中、我ながらよく頑張ったと思う。
 ブライスもアルロも、結局新たな婚約者はまだいないらしい。つまりクルエット伯爵令嬢との仲はどちらも進展していないようだ。一体あの人はなんなのだろう。どうして私と婚約者の仲を引っ掻き回しておいて、そのどちらとも正式に婚約しないのだろうか。
 うちからの慰謝料請求を恐れているのだろうか。


「……ヘンウッド子爵家とは裁判所を通して決着がついた。多少減額したが、おおむねこちらが要求した通りの金額を支払わせることができそうだ」
「そうですか……。ダウズウェル伯爵家はどうなっていますの? あなた」
「あちらも、息子の心変わりだと、その一点張りだ。相手の女性とはまだ交際しているわけでも婚約すると決まったわけでもないが、とにかくうちとの縁は解消したいと主張している」
「おかしな話ですわね。あまりにも無責任だわ」

 二人ともエーベル・クルエット伯爵令嬢についてはかたくなに口を閉ざしているらしい。両親に話すべきかと悩んだけれど、もうどうでもいいかと思った。話したところで私とあの人たちとの関係が変わるわけではないし。

「……私、修道院へ行くべきかしら」

 母は驚いた顔で私を見る。

「ロゼッタ! 何を言い出すの。そんなに急いで決めることはないわ」
「うちはお兄様がもう結婚しているし、きっといずれお義姉ねえ様が可愛い跡継ぎを産むでしょう? お嫁にいけないようじゃ、私は邪魔にしかならないわ」
「だからって、修道院なんて……! もう少しゆっくり考えましょう、ロゼッタ。探せばあなたにとっていいご縁が見つかるかもしれないわ。ねぇ、あなた」

 母はすがるように父の方を見たけれど、父は眉間みけんしわを寄せると小さくうなってあごを撫でている。私の結婚相手を社交界から探し出すのは至難しなんわざだ。いるとすれば後妻待ちの親子ほど歳の離れた人か、私のようなひどい訳アリか……

「……もしくは、何か手に職をつけて生きていこうかしら」

 ふと思いついて、私は呟いた。
 そうよ。別に修道院に行かなくても、自分の力で生計を立てればいいじゃないの。
 結婚できないならできないで、一人で生きるすべを探せばいいんだわ。
 この国ではなんらかの事情で適齢期に結婚することができなかった貴族家の娘は、問答無用で修道院に入るような風習がある。
 だけど行儀作法や様々なマナーを身につけるためとして、結婚前に高位貴族の屋敷に勤めに出る子たちだってよくいるのだ。

「ロゼッタ……」
「料理人、家庭教師、侍女……。何か私にできる仕事があるはずよ! 決めたわ! 私、自立する。一人でも生きていける力を身につけるわ!」

 突然思いついた自分の名案に私の胸は弾んだけれど、母はこの上なく心配そうな目で私を見ている。

「……まぁ、そうして働いて自分を磨いているうちにまた別の良縁が巡ってくるかもしれんしな。……ふむ。仕事については、私が心当たりのあるところを当たってみよう。性急に決めずに、少し待っていなさい、ロゼッタ」
「ええ! ありがとうお父様!」
「あなた……」

 父は前向きに私の進路を見つけようとしてくれているようだが、母はまだ不安そうに父を見ていた。やはり娘には誰かいい人と結婚して安心して暮らせる環境にいてほしいと思っているのだろうか。
 心配ばかりかけて申し訳ないけれど、もうこうなった以上奇跡の良縁が飛び込んでくるのを信じて待っているなんて非現実的だ。一生一人で生きていくこともちゃんと考えなくちゃ。


 それから数週間後、父が紹介してくれた仕事はかなり条件のよいものだった。

「ロゼッタ、アクストン公爵家のことは分かるだろう」
「ええ、もちろん」

 アクストン公爵家といえば、我が国随一の公爵家だもの。広大な領土に成功を収めた数々の事業、由緒正しい歴史あるお家柄。知らない貴族はいない。しかもアクストン公爵領はうちのハーグローヴ子爵領とわりと距離が近い。王都にほど近い広大な公爵領の南側がハーグローヴ子爵領となっている。
 アクストン公爵家は、先代公爵の奥方がこの国の現国王陛下の妹君だったという素晴らしいお家柄だ。奥方に続き先代公爵が亡くなり、ご子息が最近後を継いだという話も知っていた。なんでも社交嫌いの変わり者らしく、滅多めったなことではパーティーや晩餐会ばんさんかいなどの場に姿を現さないとか。学園でもその若き公爵様が話題になることはたびたびあった。すごく美青年らしいとか、なぜ独身なのだろうかとか……。若い女の子はそういう話に目がないのだ。

「そのアクストン公爵家の新当主が、病気がちな妹君の侍女を探しているそうなのだ。成績優秀で品行方正な者がいいと、候補者を吟味ぎんみしているらしい。先方には私が話を通してあるから、アクストン公爵家に面接に行っておいで」
「っ! あ、ありがとうございますお父様!」
「まぁ……っ! 公爵家の侍女になれるのだったら、いいんじゃありませんこと? あなたの素晴らしい経歴になるわよ、ロゼッタ。数年でも働いたら、いいお家柄の子息とのご縁もできるかも」

 母はまだ私の結婚を諦めていないらしい。
 だけど私はそれどころではなかった。だってもしかしたらすぐにいい仕事が決まるかもしれないんだもの! ついこの前まで二度の婚約破棄でめちゃくちゃに落ち込んでいたはずなのに、今は目の前に開けてきそうな新しい自分の人生にすごくワクワクしていた。

(アクストン公爵家の侍女の仕事……決まりますように!)


   ◇ ◇ ◇


(す……、すごい……)

 なんてご立派なお屋敷なんだろう。
 この国随一の公爵家のお屋敷は、それはそれは大きく豪奢ごうしゃな建物だった。門の前に立つだけでその迫力に圧倒されてしまう。
 馬車を降りた私はぽかーんと口を開けたまま、しばらくその素晴らしいお屋敷を見つめていた。
 うちだって別に粗末なお屋敷ってわけではないけど、比べたら雲泥の差だわぁ……

「何用であるか?」
「っ! あっ、し、失礼いたしました。私ハーグローヴ子爵家のロゼッタと申します。父よりご当主のライリー・アクストン公爵に話を通してございます。面接に……」
「ああ。お入りください」

 門番の人はすでに話を聞いていたのか、あっさりと私を通してくれた。緊張しながら中に進み、玄関に辿り着く。
 案内されるままに屋敷の二階に上がり、フカフカの絨毯じゅうたんが敷きつめられた廊下を歩いていく。頭の中では練習を重ねてきた自己紹介の言葉を繰り返していた。

「こちらに旦那様がいらっしゃいます。どうぞ」
「は、はい」

 使用人の方について、おそるおそる奥の部屋の中に入る。

「旦那様、お連れいたしました」
「ああ」
「し、失礼いたします」

 挨拶をしようと公爵の顔を見た私は、思わず息を呑んだ。

(う、わぁ……)

 なんて素敵な方なんだろう。
 お若い方だと話には聞いていたけれど、私の想像以上に目の前の公爵様は若かった。……私より五つか六つぐらいは年上かしら。キメの整ったなめらかな肌に、切れ長の金色の目。長めの栗色の髪はつややかで、とても美しい顔立ちだった。背がスラリと高くて、まるで絵画から飛び出してきたようなで立ち。つい見とれてしまう。


 公爵は窓際に立ち、その金色の目でじっと私を見据えていた。なかなかお目にかかれないレベルの美男子を前にした私の胸は、緊張のあまりドキドキと高鳴った。軽く咳払いをして改めて自己紹介をしようとする。

「は、はじめまして。私はハーグローヴ子爵家の……」
「知っている。短期間に二度も婚約を破棄された子爵令嬢だろう。何か大きな欠点があるのなら今のうちに言ってくれないか。ごまかされていては時間の無駄だ。どうせうちの侍女にふさわしくないと思えば即クビにするのだから」

 あ、この人、嫌い。
 初対面で突然デリカシーの欠片かけらもない言葉を投げつけられ、さっきまでのときめきは一瞬にして空の彼方かなたへと飛んでいった。
 お腹の底にじわりと湧いてきた嫌悪感を押し殺して、私は静かに深く息を吸った。我慢我慢。とにかく今はできるだけいい仕事を見つけることが大事なんだから……

「……たしかに、私は二度婚約を破棄された身ではありますが、そのどちらも私に問題があったからではありません。たまたま相手の男性が二人とも、別の女性に心を移してしまい、このような結果になりました」

 それもどちらも同じ女性にね。

「たまたま、か。そんなことがあり得るか? 貴族の婚姻は家同士の結びつきのために行われるのが一般的だ。普通なら自分の一時の気の迷いなど押し殺し、大人しく決まった相手と結婚するものだろう。つまり、相手の男たちにとって君はそうするだけの価値がなかったということだ。とすれば、何か重大な欠点が君にあると考えるのが妥当だろう」
「……二度の婚約のどちらも、私は相手の方から大切にされてきました。一度目の婚約は十年来のもので、お互いに信頼関係を築けていたと思います。二度目は、幼なじみの男性から私のことをずっと想っていたと愛の告白をされ、婚約することになりました。二度の婚約共に、私は自分がないがしろにされていると感じたことはありませんでした。二人が他の女性に懸想けそうするまでは……」
「つまり君に気持ちを寄せていたはずの相手が君と付き合いはじめてその気持ちを変えたということだ。ますます悪い。やはりよほどの理由があるのだろう」

 握りしめた拳が震える。もう結構です、帰ります、という言葉が喉元まで出かかった。けれど、父が口を利いてくれて今日のこの面接の日を迎えているのだからと自分に言い聞かせ、どうにか思いとどまっていた。
 私が押し黙ると、感じの悪い美麗公爵は淡々と言葉を続けた。

「……まぁいい。父上から送られてきた学園の成績表は確認した。探しているのは私の妹のそばで仕えてくれる侍女だ。だいぶよくはなってきているが、妹は昔から病弱でな、幼い頃から多くの時間をベッドの上で寝たきりで過ごしてきた。その妹が心を許していた親しい侍女が、結婚のために退職したのだ。とつぎ先が遠方のため、もうなかなか会うこともかなわない。妹は随分落ち込んでいる。彼女の代わりになれる人物はそう簡単に見つからないとは分かっているが、それでも心のなぐさめになるような優しく賢い者を見つけてやりたいと思っているのだ」

 妹さんには随分お優しいんだな。

「君は十八歳と聞いた」
「ええ……」
「退職した侍女と同じ年齢だ。妹の二つ上か。……会ってみてくれるか」

 どうやら今すぐ不合格にする気はないらしい。二度も婚約破棄されたいわくつきの女でも、妹さんが気に入ればよしということか。

「承知いたしました」
「申し遅れたが、当主のライリー・アクストンだ。妹の部屋には屋敷の者が案内する」

 腹の立つ男ではあるけれど、妹思いなのは間違いないみたい。それならばこちらも妹さん次第で決めるか、という気持ちになった。
 公爵の執務室を辞すると、私は使用人に連れられて妹さんの部屋に向かった。屋敷が広いので移動距離が長い……
 渡り廊下を通って別棟に入ると、右へ左へと何度も曲がってようやくお部屋の前まで辿り着いた。

(どんな人なのかしら、あのいけ好かない公爵の妹君って。たぶん似たような感じなんだろうなぁ……)
「失礼いたします、オリビアお嬢様。侍女候補の方をお連れいたしました」

 年配の使用人がそう声をかける。お名前はオリビアさんなのね。

「……どうぞ。入っていただいて」
「失礼いたします」

 あら、か細くて可愛らしい声。そう思いながら、私は丁寧に挨拶して部屋の中に進む。
 白いドレスを着てソファーに座っていたのは、透き通るほど真っ白な肌の美少女だった。綺麗な青い瞳。髪の色が公爵と同じ栗色だ。

「はじめまして。私はハーグローヴ子爵家の娘、ロゼッタと申します。よろしくお願いいたします」
(なんて可愛らしい方なのかしら……!)

 さすがにあの公爵の妹君、息を呑むほどに美しい人だった。

「今日はわざわざ足を運んでくださってありがとうございます。私がオリビア・アクストン、この屋敷の当主の妹ですわ。こちらこそよろしくお願いいたします」

 そして、あの公爵とは比べ物にもならないほどに感じのいい人だった。か細くて華奢きゃしゃで、……と言っても、あのエーベル・クルエット伯爵令嬢とは違う透明感がある。澄んだ空気。なんと形容すればいいのか、かもし出すピュアな雰囲気があの人とは全然違うのだ。
 私に向かって静かに微笑ほほえむその姿はあまりにはかなくて、触れれば倒れてしまいそうなほど頼りなげな雰囲気だった。ややもすれば陰鬱いんうつな印象を与えかねないほどに、彼女は静かで大人しかった。だけどこの人の持つその独特な透明感と柔らかさが、その暗さを打ち消していた。
 もっとそばにいらして、とオリビア嬢に声をかけていただいて、私は勧められるままに向かい合って腰を下ろした。
 不思議なほどに、私とオリビア嬢は気が合った。まるで幼い頃からずっと仲良しの友人同士のように。
 私の日々の生活やこれまでの経験を聞いた彼女は、婚約破棄のことを心から同情してくれた。
 そして彼女自身の語ったこれまでの人生も、私の心を締め付けた。

「母は、私を産んですぐに亡くなったそうですの。元々母もあまり体が丈夫ではなくて……。でも、そんなに寂しくはなかったんです。父は忙しい人だったけれど、愛情深くて優しかった。それに、何より兄が時間の許す限り私のそばにいてくれたんです。子どもの頃は……」
「そうでしたのね」

 やっぱりあの公爵は妹にはとても優しいらしい。

「でも、兄はアクストン公爵家の跡取り。勉強しなきゃいけないことは山のようにありました。今だから分かるけれど、こんな病弱な妹を抱えているからこそ、余計にしっかりしなくてはと必死だったのだと思います。ロゼッタさんより、私の方こそ一生貰い手がないかもしれませんわね。ふふ……」

 そう自嘲じちょう気味に言うオリビア嬢の姿は、なんだかとても寂しげだった。

「そんなこと……。オリビア嬢は素敵です。体が弱くても、そんなあなたのことを心から大事にして守ってくださる殿方に出会えるはずですわ」
「……ありがとう、ロゼッタさん」

 オリビア嬢は頬を染めて恥ずかしそうに笑った。とても可憐で、思わず頭を撫でてあげたくなってしまう。

「……父が急逝きゅうせいしたのは、たった三ヶ月前のことです。持病があるなんて兄も私も全く知らなくて……。密かに心臓の薬を飲んでいたらしいのですけど、医者にはライリーに伝えないようにと言ってあったそうで……父が亡くなったちょうどその頃、ヘレナ……私が頼りにしていた侍女なのですが、彼女が結婚して退職することが決まってしまって。とても辛い数ヶ月間でしたわ」
「そうでしたの……」
「兄は幼少の頃から真面目に経営学に取り組んでいたそうで、仕事の引き継ぎは問題なくいっているようなのですが、きっと兄だって辛かったはずですわ」
「ええ、そうでしょうね、きっと……」

 冷徹れいてつな仮面の下には、複雑で繊細な感情があるのだろう。もしかしたら、妹君のために必死で虚勢きょせいを張っていたりするのかもしれない。

(よく知りもしないで、第一印象だけで嫌な人だと決めつけてはいけないわね……)

 亡くなったご両親や去ってしまった侍女のことを思い出したからだろうか、ふいに押し黙ってうつむいてしまったオリビア嬢は、ますますか弱く寂しげに見える。

(……髪、もったいないな。こんなに綺麗なのに下ろしっぱなしで)

 長い睫毛まつげ見惚みとれていると、ふとオリビア嬢の美しい栗色の髪が無造作に頬の横を流れ、腰まで下りているのが気になった。せっかくこんなに美しくてつややかなのに。高級なお手入れ用品を惜しみなく使っているのであろうその長い髪は、結われることなくただ下ろされていた。

「……オリビア嬢は、オシャレはお好きですか?」
「……えっ?」


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