無有病

あん

文字の大きさ
上 下
1 / 1

無有病

しおりを挟む
無有病 
             あん

   僕には身体が無い。ましてや存在が無い。となると、名前が無いのは当然か。
   ずっと有る、と信じたかった。そう信じて生きてきた。でも今さらながら認めざるを得ないと気づいてしまった。気づかないまま過ごす日々が幸せだったか、いや、いずれ気づいただろう。事実は心に突き刺さり、でも、本当の事実なんて誰にも一生理解されないと僕は知っている。知っていたはずだった。 

   時は、十八年前に先上る。僕が宿ることになる身体が生まれた。いつからその身体に僕が入ったのかはわからない。僕の記憶の有る中ではその身体の持ち主が物心つく前には、既にそこに僕はいた。
   本当は、僕がその身体の主ではないか、と思うこともあった。でもその身体を生みだした両親は、僕のことは見えていないようだった。でも僕はいつからかいるこの世界を見て
持ち主を助ける、と名を打ち、表世界に足を踏み入れた。きっと楽しい、世界を見たい、今思えば、持ち主のことは正直、考えていなかったかもしれない。
   持ち主の身体が成長していくにつれ、持ち主も成長していった。その頃は僕も、まだ幼いというか、あまり事を考えはせずにただ表世界で息をしていた。昔の僕の考えたことなどはどこまでが真の記憶かなんて今となってはわからないのだが、その頃見た風景は、写真のように頭に残っている。
 
   何かがおかしい、と気づいたのは持ち主が幼少期のころだ。僕が表世界にいる時は、持ち主は「中」にいる訳で、眠っているに違いなかった。一応、持ち主は僕ではないと頭の片隅に置いていたが、もう身体は僕のものでもおかしくない程に思っていた。だが持ち主は僕の中で暴れた。表世界に出たいのか、僕に怒りを感じているのか、僕は考えながらも、その問題を先延ばしにすることにした。
持ち主を抑えながらも、この世界で適応することに、僕は苦戦していた。またそうして理由をつけたのかもしれない。
   後から考えれば、結局は、僕も身体が欲しかった、なぜ身体を持ち生まれなかったのか、そんなことは誰に聞いてもわからない。僕は持ち主の身体を借り、生きてゆく内にさらなる壁にぶつかる。この身体は喋っているのに、僕の喋りたいこと、伝えたいこと、何ひとつ口から出やしない。持ち主の仕業か、そう考えたが、持ち主はただ、身体の中で走り回っている。身体は幼いながら、僕は嫌気がさしてきた。苛立ち、虚しさ、気持ちに言葉をつけるなら負の感情であった。
 
   気づいた時にはもう遅かった。気づいていたが後回しにしたのは僕だ、そう僕だ。でもそれ以外に方法が有ったか、選択肢が有ったか、それは今でもわからない。持ち主を助ける、後付けの理由は本当になってしまった。幼き頃は抑えが効いたものの、さらに成長していく持ち主は、僕という壁を突き破り外に出ようとした。持ち主の危険な状態など、抑えている僕が一番知っている。この持ち主と一生付き合うのを覚悟しながら幼稚園に通うのは、なかなかのハードな日々だった。 
   持ち主の他に、いつからか身体の中には何人か、仲間がいた。一番仲が良かったのは持ち主の次に出会った子だった。僕はどちらかというと寡黙で、声を荒げることもない孤独な性格かと思っているのだが、その子は情緒的で優しく、みんなをまとめてくれるような子だった。持ち主の世話…もう世話だ。疲れている時も、その子は僕の心を癒してくれた。とても勘のいい子で、他の仲間のことも助けてくれていた。 
   幼稚園の頃、色々事件はあったが、一番記憶に有るのは持ち主が外にひょっこり出てきて、自分がした便を食べたことだ。ブームか何なのか知らないが、そういう危険はいつも隣り合わせで、気が抜けない日々の始まりだった。それでも何とか僕は持ち主を助け続けた。もっと感情的に困ったり、守りたいと思うべきなのかもしれなかったが、もう自分の蒔いた種のように仕方なく、冷静に日々を過ごした。 

   僕の頑張りが報われ、周りからは何とも言われず小学校に上がると、知らないひとばかりだった。幼稚園の学区と違う学区に引っ越したからだ。そんなことを持ち主は知らず、いや、考えられる力もなく、幼稚園のように暖かく見守ってくれる先生や友達のところから環境が変わり、僕の頑張りでどうにか出来るものではなくなった。持ち主の意思が出てくる、力も強くなる、僕もちょっと変わったところがあり、環境に適応出来ない日々。身体の中にいる、僕と仲の良かったその子が表世界に出てくれて、まあまあ休みながら生活をやり繰りした。
   その子も適応するには苦しんだ、と聞いた。先生の膝に乗せてもらったり、先生についてまわりずっと一緒にいたり、友達はいなかったようだ。今でも言うのだが、友達はいない、お友達はいる。ちっぽけな拘りにその子は悲しみを込めていた。お友達には頑張って合わせたようだ。困ったことに、なぜか僕もその子も、ましてや時々顔を出す身体の持ち主も、表世界では喋っているのに、考え、感情、思ったこと、それが喋っていることとは無関係だった。原因は不明、気づかれもしない。だからこそ理解されないまま、僕らの中の誰でもない「ひと」が作り上げられていった。
   持ち主の父らしきひとからも、怒られることが増えていった。その怒りは常識的で、真っ当なものだったのだろうが、僕らには何のことかさえわからなかった。わからないふりするな都合の良いことだ、と言われ、そこだけが聞いている中でなんとなく理解できた都合の悪い話であった。
   小学校時代を過ごしている中で、持ち主に名前というものがあると僕は知る。ゆかちゃんというらしい。僕には名前が無い。それがわかった時、僕の存在がこの世に無いことを突き付けられた。でも考えた。ゆかちゃん、は僕の名前で、僕こそがこの身体の持ち主だから乗っ取ってもいいんじゃないかと。でも、乗っ取るといっている自分が持ち主で無いことなど、とうの昔にわかっていた。諦めの気持ちが、また僕を殴った。 

   持ち主の身体、つまりその頃の僕は、エレクトーンを習っていた。三歳から習っていたからか、小学校の頃にはかなり難しいグループに入っていた。その頃も今もだが、身体の中の僕らはみんな字も楽譜もまともに読むことが出来ない。なぜそれで気づかれなかったかが不思議なくらいだが、字は特殊な感覚、まではいかないのだが、カメラアイというものに近く教科書をカメラで撮ったように忘れられずに頭にずっと有り、書くことで処理していた。楽譜はそれが出来ないから、先生が弾いて、と言っても弾けず、怒られ、練習した?と言われ、した。と口が返せばさらに怒られた。どなりエレクトーンを叩きながら先生が弾き真似をしてなんとか弾ける。それだから周りのひとたちからは、怒られるまで弾かない子、で有ったらしい。怒られ、どなられ、を繰り返し発表会に間に合ったなら、お尻に火がつくのが遅いねー、と僕は笑われ、さらに周りに合わせるのが難しくなる日々を送った。
   辛いことは、正直、多かった。だけど大切に育てられていることもわかっていた。大切だから怒る、僕らも両親の思いを理解できていなかった。楽しいことも、経験も、たくさん与えてもらった。僕はいい子、としてゆかの身体で、頑張って努力してきた。けれど僕が正しい「いい子」でなかったから、わからなかった。僕は悪い子で、僕のせいで上手くいかない。ゆかの身体を使い、どうにか生きてゆこうともがいた。その結果は、ことごとく散っていった。
   ゆかの澄んだ心が儚く思えた。何も苦労していないようで、僕よりまともな人間に思えた。僕がいることで全てが崩れていく。世界を恨んでいた。世の中が悪いと思いもした。でもその歪みは僕がいることにより、成り立っているだけなのかもしれない。生きることに真っ向から向き合えば消えたくなり、逃げれば自分が何かわからなくなった。
   僕はこの世界に絶望を感じた。もうどうにでもなっていいし、持ち主が表に出て暴れてもいいとさえ思った。そして僕に混ざる形で少しずつ外に出たゆかは過ぎ去った今だから笑えるようなちょっと問題な事件を起こしてゆく。硬いボールを気分が上がって投げたら怖いお兄さんの顔面にぶつかって眼鏡が漫画みたいに吹っ飛んだり、お母さんが点滴しているベッドで飛び跳ねて引っかかって点滴が抜けて怒られたり、色々あった。
   僕らとゆかの両親は良い関係で、悪い関係だった。分けられるべき反対の行動が、愛を挟んで繋がっていた。愛があるからこその、厳しさや理解できない思いがぶつかっていたからだろう。周りからはあくまで他人事であり、助けてくれていたようでその場をしのいでいただけであるように感じた。
   現実に苦しむ中で、実際の現実と夢との境目がわからなくなったり、今生きているのが本当かを疑うようになった。でも普通はこうだろうな、という常識を持ってまともな人間を演じるような感覚で過ごした。目に見えるものは、ビデオを再生しているようで現実のわりにはぎこちない様子に見えた。 
   僕らのどこかに住み着いていた思いや、どこからかやって来る知っている悲しみたち。自分は自分が嫌いでもあった。でも何より自分がこの世に「存在」している事実が辛かった。存在のカタチにさまよいながら、わかっていることも、わからないことも、全てを僕の心は自ら敵に回した。
   ずっと、目に見えるものを信じ、見え無いものは無いものと同然の感覚だった僕らは、自分たちの存在をさらに悩ませた。自分で自分がわからないのに、自分は自分が一番知っている。幼きながら、生きていく内にたくさんの矛盾を、心の中にも外の世界にも成長と共に着実に、抱いていった。

   エレクトーンのグループの大会で優勝したり、友達と上手く遊んでいたりする姿と裏腹に身体の中では戦いのような毎日だった。表の世界に僕らの不調がやっと見えたのは小学校四年生のこと。学校行事で、山に泊まる学習が有った。でも僕もゆかも中の仲間も、泊まる、の意味がわかっていなかったから、学校はそもそも帰るものであり、誰かが向かえに来ると思っていた。夜に玄関に出ると鍵がかかっている。出られない、帰れない、僕らは恐怖に駆られた。僕や仲間はなんとか落ち着きを取り戻したが、ゆかはかなりのトラウマになったようだった。それからゆかの歯止めがきかなくなり、僕らは心の調子が、ガタ落ちしていった。
   トイレへの拘りがさらに酷くなり、他人の前ではトイレに行くのを我慢した。お漏らしをしてトイレで服を洗ったりした。僕らなりによく思考を巡らして、垂れ流すとおかしいと思った。スカートは見える、ズボンは後が残ると考えて、いつもキュロットをはいていた。出かけた先でしたくなったら走って我慢した。そして走って行ったまま、あー、と漏らして気がついたらそこがどこかわからず迷子になっていた馬鹿な話もあった。
   耐えられなくなっていく僕らの身体、心の中で、何が正しいのか、何を信じていいのか、精神的に病んでいった。持ち主は幼い考えだったが、僕らは一応、小学校四年生ながらに合わせなければと頑張った。僕が疲れていると中の仲が良い子が代わってくれたり、持ち前の勘の良さで助けてくれた。その子は僕らみんなを助けないといけない、と頑張りすぎた。頑張りすぎる子だと僕もわかっていたし、その子が表に出ることで、身体の持ち主のゆかが「頑張りすぎる子」だと思われる程に頑張ってくれていた。 
   その内、その子はおかしな行動を始めた。特に同じことを意味なくひたすら繰り返した。外のひとから白い目で見られながらも、僕は何だかわからずに行動を指示してくるその子の言うことを聞いた。 僕がするのはおかしいとも思ったが、その子がいつも助けてくれて勘の良い子だったから、それがゆかを、僕らを、「普通の子」にする方法なんじゃないかと思い込むくらいに僕も疲れ果てていた。 
   僕が表に出て指示された行動をしたり、その子が僕と代わったり、限界に近い中でやっと周りは僕らがおかしいことに気づき始めた。周りから見れば、急に変な行動が始まった、どうしたのか、と思っていたらしい。両親は色々なひとに相談した。大丈夫でしょう、と周りは言ったらしい。それまで僕が頑張って過ごした日々が、逆に仇となった瞬間だった。
   もちろん口が正しいことを喋ってくれるはずもないことはわかっているし、伝えられる精神状態では無かった。頭が自分でもおかしいと感じていた。そして、こんな話が通用しないともよくわかっていた。僕は身体の中に閉じ込められ、助けを求めることも出来ないまま、ゆかを抑えることだけに必死に生きた。辛くて消えたくなる気持ちを中にいる仲間とわかちあうことで僕は生き延びていた。 
   仲間が助けてくれ、僕は楽をしていた。そのせいか、辛くなった仲間は徐々に僕を責めるようになった。僕が存在しなければ、出来たことや理解されたことがたくさんある。僕さえいなければ全て上手くいった、と。自分でもそう思う。僕がいなければみんな幸せなんだ、ずっと幸せだった。僕は存在していてはいけない。存在価値のないやつだった。
   周りの理解も無く、適応出来ない僕らの心はズタズタに引き裂かれていた。もう周りからみても明らかに精神的異常がわかる程だった。食べて、眠って、排泄をすること。それさえまともに出来ずにいた。ただ生きることに絶望していた。 

   そんな日々を過ごしながらもエレクトーンのグループ発表会では優勝し、次の一番大きな大会に出ることになった。もれなく付いてくる周りの怒りに耐えながら、僕は決心した。その大会が終わったらこの世から消えよう、と。あまり使いたくない言葉だが正しく言うと死ぬ決意だ。それが僕の仲間たちを楽にする方法で、僕の背負った使命であると疑わなかった。
   その時まで、僕は表世界から手を引くことにした。変な僕らの正義感で、発表会をとんずらしては迷惑だという考えで生きていた。代わって出てくれた仲の良い子に任せると言い、僕はただ休みたかった。もちろん中から見てはいた。そしてその子は表に立ちながら崩れていった。僕は冷たいやつだ。そうなっても、もう表世界が怖くて出ていこうとしなかった。

   結果、最後になるだろう発表会を控え、生きていた僕らの身体は、飲食が出来ず、排泄は垂れ流し、勝手に喋っていた口さえ少しも動きはしなくなった。その光景を見ていた、当時幼稚園だったゆかの妹が、ゆかが最後に食べたご飯がカレーだったね、と今でも言ったりする。持ち主、ゆかの両親は相談した先を恨み、入院先を探した。断られたり、話も通じない病院の中で電話をかけ続け、カウンセリングをしているひとからの紹介で、大きな病院に入院が決まった。 
   担がれて入った精神科の入院先では、全身拘束され、鼻からチューブを入れ、点滴されていたが、それでも発表会に出るつもりだった。というより、心が苦しかったから発表会に出て早く消えたかった。布団の中で拘束から抜け出す練習をした。部屋には鍵がかかっているため、少ししか開かない窓から、どうすり抜けるか、ということばかり考えていた。食べられていないから痩せていた。だからギリギリ出られて、あのフェンスを越えて、と計画を立てて過ごした。 
   だが、計画は失敗した。カレンダーが部屋には無く、発表会の日がいつかわからなかった。明日か、明後日か、その日のために今日はおとなしく過ごそう。間違えて実行したら失敗に終わる、と自分の時間の感覚でその日を待っていたが、もう既に無事に終わったと聞かされ、タイミングを完全に逃し、消えそびれた全く情け無い話だった。 
   それからも消えたい気持ちは消えなかったが、入院生活では優しく接してもらえたからか、少し希望を持ち、楽に過ごせた。任せ切りで表世界に出ている仲の良い子は動きもせず、笑いもせず、今思うと僕はその子に酷いことをしていた。疲れきって固まり続けるその子に主治医の先生は使えるだけのたくさんの薬を投与し、改善する余地のない難治性の精神病、と言った。僕は違うと思ったが僕らのこれまであったことを話せる状態でもないし、話してもわからないだろうと思った。エビデンスをとても頼りにしていた主治医の先生には、先生のせいではないが通用しない、と思ったから、言わなかった。 
   点滴を出来る血管があまり無く、三時間交代しながら針を刺し続けられたり、鼻から栄養を摂取するために入っていたチューブが刺さってお腹の中に穴が開き手術になったり、色々ありながらも表世界のその子は回復を見せた。鼻のチューブから栄養を入れるやり方に拘り、水を飲めばもうしない、と言われ、水を飲んだことをきっかけに、食べる?と言われ食べ始め、食べられるようになったりして、徐々に笑顔も出てきた。僕との話も少し通じるようになってきて嬉しかった。
   僕は外の状況を把握するために、時々表世界へ顔を出した。主治医の先生は大きな声で苦手意識を感じた。指示してくるひとがいるでしょう?と聞かれることがあり、仲の良い子が苦しむのを助けたい思いで頷いた。「その子をマミーと呼びなさい」という主治医の提案で、僕はその子を、マミー、と呼び続けた。今考えれば、幻聴を疑った主治医の質問に頷き、僕はその子を幻聴呼ばわりした。自分に名前が無いことを悲しみながら、その子に適当な名前をつけて呼んでいた。名前の大切さなんて、尊さなんて、恨めしさなんて、自分は嫌ほどわかっているくせに。 

   それから一年経った。退院して家に戻ると僕らは小学校六年生だった。中学校の話が出はじめ、普通に通えるはずもなかった。支援学級だろう、となったが、その頃は精神的におかしかったため精神の支援学級が必要だった。中学校にはそれが無かった。小学校にも通っていない来るかわからない子のために新しく作ることなど出来なかった。だが周りのひとの暖かい支えの中で、僕らは小学校の個別の部屋に通った。頑張りが認められ、その何倍以上に周りのひとたちにサポートをしてもらい、中学校に精神の支援学級が作ってもらえた。 

   僕らは中学校に、ゆかの母と通った。だが中学校は辛いこともあった。先生たちはとても優しく、個別に授業をしてもらって、ひとりのクラスなのに担任の先生までいる。どこが辛いのかわからないような恵まれた環境で、僕らはただ、生きるのが、社会で息をするのが辛かった。僕らの事実がこの世の中で受け入れられることも無く、精神の病だと優しくされたり、理解されていることが、逆に僕らの事実を理解してもらえない証だった。ゆかはその頃は何も考える力はなかっただろうし、何を感じていたか知らない。でも僕らは息を殺しながら穏やかに過ごすことに必死だった。 

   僕らに転機が訪れたのは中学校二年生のこと。その頃原因はよくわからないのだが、喋って伝えることが難しくなり、精神的なものだと周りは困っていた。だが、僕らの意思は逆に伝えやすくなった。今までは喋ることにより意思と違う結果が起こり、僕らの中の、誰でも無い「ひと」が作り上げられてきた。精神的では無いと自分では思った。僕らの頭が生きやすいように進化したのではないか。人間が進化してきたのと同じ。僕らは少しばかり自由を手に入れた。そんな考えさえおかしいと思われるだろうと、無理をしても伝えようとはしないままに。
   ゆかの母はずっと僕らの身体につきっきりだったため、ゆかは放課後等デイサービスへ夏休みに行く、となった。なんとか僕らの意思で行く場所を決めた。通うことになり、そこで出会った職員さんを、表世界の仲の良い子は信頼した。そのひとは変わり者だったが手話が使えるひとで、手話を使えばコミュニケーションが取れる、と思ったようで仲の良い子に教えてくれた。その職員さんと関わっていく内に、仲の良い子は、この場所だったらゆかを出していい、と感じたようだった。もう、ゆかを表世界に出すタイミングもゆかを周りに理解してもらうチャンスも無いのではないか。一生僕らはゆかを抑えつけ、誰にも良いことが無いまま消えるのか、もしくは自分たちで身体を消すのかと思い詰めていたころだった。
   ゆかを僕らと混ざる形で、少しずつ表世界に出すことになった。そうするとその職員さんはゆかを理解してくれているようだった。ゆかはまだ僕らと混ざっている状態だったが、たくさん手話を覚え、僕ら以上に話が出来るようになった。周りからはその職員さんがゆかを喋れなくした、と悪者にされていた。でも僕らは、言葉を教えて、消えたい気持ちまで和ませてくれた恩人だと感謝して、夏休みが終わっても通い、ゆかも楽しく過ごしていた。 
   だが、表世界に出たゆかのする行動はその時点で周りから受け入れられるようなものではなかった。走り、回り、飛び、暴れ、ゆかが前面に出る程、拘りも強くなり、周りと上手くいかなくなった。そんなゆかを受け入れ、優しかったのはその職員さんだけだった。ゆかも僕らもそのひとに依存し、職場を変わるそのひとについていった。転々とする場所では、ゆかと似たような子がたくさんいた。その職員さんは依存しすぎて別れることになったが、ゆかはたくさんの友達ができた。中学校にもあまり通えていなかったが、特別支援学校に行く話が出始めた。急にまたおかしくなった子、と言われながらも僕らはもうこれでゆかは大丈夫だ、と少し安心した。だが、周りがどれだけ頑張っても、ゆかだけではとても生きてゆけない。僕らは一生裏で支え続けなければいけない。ゆかが消えたならゆかの周りのひとが悲しむこと。僕らはゆかと違い存在が無いことを激しく突き付けられながら。    
   特別支援学校高等部へ入学する頃には、もう前面にゆかは出ていた。いつも僕らは普通を求め、普通から逃げていた。中学校で、ひとりのために先生たち全員と友達何人かが集まってくれて個別で卒業式をしてくれた。僕らはみんな嬉しかったし、涙も出た。胸が苦しくて申し訳ない気持ちもたくさんあった。だからこそ特別支援学校に行ったら、そこでは僕らは普通、になれるんじゃないかと。普通じゃないのが普通。ありのままでいい。素敵なところだと、願いを込めて通うことにした。 
   そこはゆかが受け入れられる環境だった。相当な問題児ながらも生活が出来るように僕らはサポートした。ゆかも楽しい、僕らも前よりは楽。そう信じていた。僕は周りに存在を認められず、ゆかの影武者かと悩んだりもした。表世界に出たいと願う気持ちは無い訳ではなかったが、表世界の刺激にもう耐えられなかった。だから願いや希望なんて、引き出しの奥底にしまった。 
   ゆかは高等部一年生を支えてもらい、なんとか乗り切った。田んぼに突っ込んだり、バスの座席を揺れ過ぎて壊したり、バスを追いかけて遠い学校に自転車を飛ばしたり。車とぶつかったのに起き上がって走り去ったり。
他も多々あったのに、仕事だからとはいえ、リアル新喜劇だね!と笑ってもらえる有り難い環境であった。高等部二年生になるとみんなの教室の一角に部屋を作ってもらえた。さすがに一年生の頃、みんなに迷惑をかけていたし、ゆかにあった環境を作ってもらった。先生がずっとひとりついていてくれて、一年生の頃よりは穏やかに過ごしていた。
   だが、ゆかはだんだんパニックが酷くなった。母に他害をしたり、物を壊し続けたり、自傷行動も酷くなった。要するに刺激に適応するのに限界だったようだ。迷惑もたくさんかけ、警察のお世話になることも幾度となくあった。家に警察が来ては、ゆかの妹がパトカーが家の前に止まっていることを学校で言われる、と泣かせていた。 
   高等部二年生の夏休み、ついに家でゆかをみれなくなり、夏休みの間だけ、と当初の予定で入院することになった。だが、状態が悪かったため、鍵のかかった二重扉がある隔離室に入ることになった。ゆかは便を壁に塗ったりしながらも、落ち着きを少しずつ取り戻した。
   家族が面会に来てくれたりして穏やかにみえたゆかだったが、家で家族と、僕らもゆかも上手くいっていなかったことが時間が経つにつれて鮮明に思い出された。それは正気に戻っていくと共に、記憶がはっきりと色付いていった。とても愛してくれているのだとはわかっていた。でもそれと「理解」とは全く別であった。ゆかの調子が良くなるにつれ、ゆかも僕らも家族と会いたくない気持ち、今まで辛かったことへの憎しみも蘇ってきた。そして家族が見えると泣き暴れ、落ち着く注射を打たれて、家族とは会わなくなった。 
   しばらくして、家に帰る話が出たこともある。でもまた同じことの繰り返しであるとわかっていた。ゆかの両親はゆかを愛してくれている。僕のせいでもあり、ゆかにもいくつか問題はあると思う。今、両親と手紙を書いて交換したり、会いはしないが遠くから見たりして、ゆかと両親は、良い関係ができている。両親はゆかに、家に戻らないか、と言うこともある。僕がいることで、入り組んでゆかが理解されない背景を作ってしまったが、ゆかが家に戻ったら家族は自由を奪われる。それは僕がどうであれ、事実でもある。それに、会ったなら離れているからこそ、冷静にお互いに上手くいっている気持ちが崩れていくだろう。また悲しませたくない、もう苦しませたくない。大好きで大切なひとだからこそ。それは僕らの持つ、共通の思いである。
   この入院している病院では今までで一番理解されているように感じた。前に入院した病院の次にも、その頃の主治医が移動したのを追いかけて違う病院に通院していた。でも話が通じないように感じて僕は違う病院に行きたい、主治医の先生を代わりたい、と言っていた。ゆかの父は、命の恩人を裏切るのか、と反対したが、僕はゆかのためになると信じてゆかが昔、入院を断られたゆかの父が恨む病院に通院した。そこでゆかがきちんと理解された上で今の病院に入院した。だから優しいだけでなく、ゆかのそのままが受け入れてもらえたのかもしれない。
   そもそも僕がゆかの元にいなかったら、ゆかももっと楽に、早くに理解をされていて、僕が少しも存在しなかったら、みんな幸せで過ごせたんじゃないか。外の世界からの攻撃でなく、仲の良い子までも僕を責めるようになった。辛かった。でも、僕だってどこかで気づいていた。だからこそ消えたかった。消えようと何度ももがいて消えられずにいた。
でもゆかが生きていて良かった、とも今は思う。
   精神的異常は、少しは残れど、周りに僕らのありのままが理解されていくうちに、だんだんと消えていった。その精神が異常だった時期を越えると、逆に昔より常識的に物事を考えられるようになった。それは僕らが得た、大切なものでもある。
   看護師さんも、今の主治医の先生も、ゆかの良き理解者だ。僕は自分の中の羨ましい気持ちも、悲しみの気持ちも、全て見ないようにしてただゆかをサポートした。 
   ゆかはだいぶ伝えることがまともに出来るようになって、僕らのこと、僕らの存在も、言葉足らずながらもゆかが信頼する看護師さんに伝えていた。僕も、中の仲間もそのひとが好きだった。
「ゆかはゆかだよ。なかに、いろんなひと、みんないて、ゆか。」
「いるべきだからいるんだよ。あなたに必要だった。ただそれだけ。」
「困らないんだったらいいんじゃない、全然変じゃないよ。」 
その看護師さんは、ゆかにたくさん暖かい言葉をかけてくれた。
   他の看護師さんたちも理解してくれるひとばかりだった。でもやはりたどり着く。その優しさの対象は僕ではなく、ゆかなんだ。僕は存在していない、身体も自分のものではない。優しい言葉だってゆか中心に向けられた言葉でしかない。存在を認められることは今までもこの先も無いだろう。ひとりで生きてゆけない身体の中でひとりで生きてゆく覚悟をした。自尊心、自己肯定感、そんなのは、周りから与えてもらえるものじゃない。弱者からもあぶり出されたどうしようもなき者たち。生き殺しの中で、僕は孤独を受け入れ前向きに生きるふりを自分に見せて呪文のように言い聞かせた。 
   
   僕らは違う人間、ゆかも、僕も、身体の中にいるひとみんな違う人間。そう分けておきたいし、僕がゆかと同じ呼ばわりされるのがいやだった。ゆかを馬鹿にしているのではない。でも同じであると認めたくなかった。それは僕が存在しているせめてもの自分の中だけの証、と。
   僕の思いと違うゆかは、僕らみんないてひとつだ、と思い、信頼する看護師さんに「みんなをまとめた名前をつけて欲しい」と頼んだ。その看護師さんはペンネームとして僕らに「朱星」とつけてくれた。 
   最初ゆかはペンネームとして使っていた。だが、身体の中にいる他の子は名前をいつからか持っていた。生活する中で自然に、自分の名前を手に入れていた。自分でつけたのかどこかから拾ってきたのか、不器用な僕にはわからなかった。だからゆかは僕のことを、名前として「朱星」と呼ぶようになった。
「朱星、また泣いてんの。」 
「朱星、ありがと。」 
僕はゆかでもないし、朱星でもない。僕は僕だ。僕、と強調したことにより、僕は「僕」が嫌いになった。 

   僕は受け入れられない。誰からも、僕からも。他の誰も悪くないし、僕が悪いと思っている。変わりたい、でも変われない。そして変わろうとすることにさえ臆病になっていった。自分が幸せになることも望みながら許せない。だからどこかでいつも消えたいと願っていた。そしてゆかの身体を使って、ゆかの意思だと思って、家の二階から飛び降りたこともある。一回目は足から飛び降りそのまま足を打ち、痛んで歩けない上、失敗に終わった。二回目は頭から落ち意識は飛んだが帰ってきたゆかの母に起こされ、寝違えただけで終わった。下はコンクリートで、消えられるはずだった。でもゆかは酷い頭突きを壁にして家に穴を開けるような石頭だったからか、身体は無事、生き続けてしまった。

   ずっと、愛が欲しかった。ゆかに対する周りからの愛や、思いは、ただ悲しいだけだった。僕を見て欲しい、僕を愛して欲しい。叶わない願いを持ち続けていた。愛されたことのない僕は、愛することの幸せもわからなかったし感じなかった。愛が何か、正解など誰も教えてくれない。愛を知らないから、理想の愛を夢に描いていた。僕らは愛すより、愛されたいと思っていた。与えても、同じように返ってくる訳じゃない。わかっていたけれど、僕らの思いと周りの愛の温度は違う。愛して欲しかった。暖かく心地よい愛。でも、それはゆかでさえ求めていた。正しい愛が欲しかった。間違った道にいるだろう僕らは、世の中の正しさなんて知らないけれど。

   周りと上手くいかない。孤独を抱えて生きてきた。けれど、それは愛が有る相手故に起こるもので、僕らは正論に打ちのめされた。普通じゃないこと、普通のこと。話し合えばもっと上手くいかなくなること。愛も感情も敵になった。わかり合えない悲しみ。そうして周りの厳しさに苦しみながら、周りの優しさで何度も救われてきた。けれど、苦しみの後の優しさ、理解して慰めてくれるひと。それはいつも、愛の無いはずの、仕事の時間として関わってもらえる相手からだった。
   わかっていたこと、でもわかりたくなくて逃げていたことなんてたくさんある。ゆかが暖かく見守ってもらっていることだって、仕事が増えると面倒だから当たり障りの無いように接してもらっているんだ。それが優しさでしょうか、愛でしょうか、本当の心からの笑顔なのでしょうか。そして、僕がそれ以下なのはわかっている。ゆかと比べるつもりもない。比べたら負けるのなんてわかっているから、比べたいとも思わない。無理矢理、僕は自分を肯定してみせながら、ただゆかの影ですぅっと息をした。

   そんな生活が変わった。ゆかはもともと尿が出にくい時期がたまにある。そういう時は二日に一回しか出ないときもある。精神的なものか、いつも感覚がわかりにくいことが関係するのかはわからないが、いつも出にくい時よりも少し痛み、その日の担当の看護師さんが話しやすいひとであった。言ってみるとお腹が張っていて、一日出ていないから導尿しないといけない、と言われた。今までもそんなことはあった。でもゆかは点滴とか注射とか導尿とか、暴れてしまう程苦手である。だから緊急事態でも、ギリギリまで先延ばしにする方法をとっていた。前の入院先では「ゆか」でない上に、その頃は今と違い固まって動けないこと等が問題であったからなんとか出来ていた。
   そこで拘束して導尿、となった。ひとがたくさん来て、拘束しているのに八人がかりでやっと終わった。次の日も尿が出ないため、同じことをまたした。主治医の先生は薬の副作用かと考え、小学校の頃からかかさず飲んでいる精神薬を止めることにした。ゆかのためを思った決断にゆかは、ありがとう、と思っていた。僕は、尿が二日出ない日もあるのに、大ごとになってしまった、と少し焦っていた。 
   最初はたぶん精神薬を抜いた影響では無いと思う。睡眠薬も抜いたので、ゆかは寝られなくなった。夜中に壁に頭をぶつけて頭突きしたり、歩き回った。その日の夜勤のひとは優しい方だったが、ゆかは寝られないことでいつもと違う生活リズムになった。ゆかが暴れてしまいそうになるのを僕は抑えた。僕は自分が表世界に出る方が楽なのでは、とずっと封印していた思いがいとも簡単に砕けちってしまった。いくつか思い当たる節はあれど気分は悪くない。明け方になる前には僕は表世界に立っていた。 
   明け方、僕が廊下を歩いていると、ゆかを叱った看護師さんとは別の、もうひとりの看護師さんがいた。ゆかがお父さんみたい、と話していた看護師さんだ。
   ゆかは入院する前も、ここに入院してきてからも、信じるひとをひとり見つけ、そのひとにドキドキする愛を感じ、依存してきた。ゆかは女の子だが対象は女のひとで、入り巡るような変な感情ではなく、単純に、ただ何かを信じたくて、愛を求めていた。みんな好き、なんて、好きじゃなくて普通、だよね。だってみんな同じだったら普通、じゃない?と言うようなことをいつか言っていた。信じることや愛が何かわからないゆかは依存することで幼き心を満たしていたようだ。
   ゆかは「ドキドキ」の感情ではなく、そのひとをお父さん、と言っていたが、その「お父さん」は実際の自分の父と似ている訳ではなく、母性的ならぬ父性的、なものを感じたらしいと解釈している。僕はゆかとは違う人間であるからその先入観は持たずにそのひとを見つめた。 
   最初は僕が夜中に歩いていることを不思議に思い話しかけてくれた。中から見ていたことはあったが、特にゆかに接している様子で僕は何か感情的になることは無かったため、普通に答えた。故に話しやすかった。
   明け方に何度か廊下をすれ違って、ゆかの使っているお話ホワイトボードを僕も使い、他愛の無い話をした。その内にそのひとは僕がゆかでないことに気づき始めた。意外とわかるものなのか、と思ったが、それにしても僕がゆかでない、と存在している人間だと、理解してもらえたようで、身体の中で暴れるゆかを宥めながら、少し嬉しい気持ちになった。 
   今のこの、ゆかがメインな状況で代わりとして僕が外に出ること、久しぶりに出てきた表世界の刺激に耐えながら、僕もかなりの危機を感じていた。もう過去の乗り越えてきたことが小さく見えるくらいに、僕もおかしくなりそうだった。このひとを信頼して話してみるか。自分の中の考えや、特に僕の性格の場合は信頼するのが早すぎると思いもした。だけどこのひとはもうすぐ帰ってしまい、次いつ来るかなんてわからない。もし、信頼するひとがこれからできたとして、その中で、僕らを助けてくれるひとがいるかもわからない。そして、僕は緊急性を感じていた。
   みんな優しいのは知っていた。だが、ゆかでなく今いる僕を受け入れて、短時間で僕らの常識的でない話を理解してくれるひとは、なかなかいないことだと判断した。僕はその僕に気づいたひとに望みをかけて、夜明け頃今、ゆかが苦しんでいることと、僕のこと少しばかりを、そのひとに伝えた。

   そのひとは僕の話を聞いて、どうするかとは言わなかったが、僕からみてとても理解してくれているようにみえた。精神科に長く勤めているからか、それでもこんなに早く変な話を理解してくれたのには驚いた。だから僕はさらに深く話した。今の僕の気持ち、ゆかがかわいそうだから助けてあげて欲しい。僕は乗っ取りたいとかは思わない。薬を戻してあげたい。たくさん聞いてくれた。 
「明日、ここ担当だ。ゆっくり話そう。」 
僕の話を聞いた後、そのひとは真面目に言った。
   実を言うと、もっととんちんかんな答えが返ってくるかと思っていた。少し前、ゆかが話したこと理解していても、 
「俺も長いこといるけど~ユーみたいなタイプは初めてだよ~。」
と言ったかと思えば、嫁さんから携帯電話に連絡が入って、またしょうもないことだぞ♪と嬉しそうに言いながら、
「漫画?我慢するセヨー!買うって、揃ってないんだろ~?もう切るナリ~!」 
と、ゆかの部屋でそんなことを言ってたからだ。でもそれは面白い皮を被っているだけで本来はとても常識的、冷静で真面目なひとだと思っていた。それがこんな形で直に見られるとは思わなかった。そのひとは僕の頭をくしゃくしゃと撫でて、じゃあな、といった。頭を、くしゃくしゃ撫でてもらって嬉しい、と言うと、そうか、と言って笑って抱きしめてくれた。 

   次の日、言った通りにそのひとは担当で来てくれた。僕は色々思うところがあり、手を掻きまくって血まみれにしていた。要するに自傷である。元からあった傷だとはいえ来て早々に怒られた。最近ゆかは怒られるから、と我慢していたようで、僕が急にしたことでそのひとも、ひとが違う、とわかりながらもとても怒った。 
「わからないふりするな、ゆかはたくさんたくさん乗り越えて成長してきたじゃないか。ゆか、したらダメなことはしたらダメなんだよ。」 
僕は正直、悲しかった。このひとは僕を理解してくれる。怒っていても、冷静に僕を思ってくれているだろう。だから、僕を見てくれるひとだと思ってたのに。僕がゆか、と呼ばれることが苦しい。おかしいかな、でも、そこが一番、僕は悲しかった。僕はゆかじゃない。ゆかと呼ばれるのがいやだ、と伝えた。
「名前があるならそう呼ぶよ、性別はちなみに男?女?「僕」だから男か、でも最近は女でも僕っていうひといるしなぁ。年齢はどれくらいなんだ?」
僕は困った。僕には名前が無いんだ。性別も考えたことが無かったし、自分の年齢さえも知らない。
   でも僕は、僕の名前を呼んで欲しかった。名前はつけてもらうものなのか、自分の中にあるのかさえわからない。性別はゆかの身体が女だ、としか知らない。自分の年齢もわからない。僕の存在がさらに危うくなっていった。 
「俺が見てきた中で、別のひとに変わることがあるひとたちは名前を自分で持っていることも結構あるぞ。」 
僕にはなぜ名前が無いのか。そもそも僕は存在しているのか。僕の存在って何なのか。昔ゆかが、僕のことを喋った何人かの相手からは心が耐えられなくなって別人格を作る解離性障害、小さい時に寂しくて心に存在しない友達を作るイマジナリーフレンド、色々言われたが僕らの経過からいうと、どれにも当てはまらなかった。レアケース、だと言われても、それは僕の存在が有るという証でも、周りに認められた故でも無かった。
「でもお前が、「ゆか」とか「ゆか」じゃないとか関係なしに、生まれた時にこの身体に両親がつけた名前が「ゆか」なんだ。まあ、身体の名前、ってことか。」 
そのひとはこう続けた。身体の名前、という表現に、僕は名前が無いことの苦しみは消えずとも「ゆか」と呼ばれることに、名前という縛りに、抵抗が薄れていった。心が少し、楽になった。 
   その後も僕はそのひとにたくさん話を聞いてもらった。抑えていた思いが溢れて、泣きながら話した。いや、正確にはそのひとの返答に泣かされながら話した。僕らのこと、僕のことを全て理解してくれた。こんなの初めてだった。僕は嬉しくなって、ポーカーフェイスながらに、生まれて初めてドキドキした。ゆかの言うドキドキと違うか、同じかはわからないけれどこの世界にずっといたいと思った。すなわち、それは思っていなくとも乗っ取りたいという感情に、代わりは無かった。ずっと、ゆかのために僕は生きてきた。僕が僕のためにした間違いの報いとして。幸せになるためにみんな生まれてきた。そう言いながらゆかの世話をして僕を捧げてきた。僕という存在を幸せにする。僕は、消えたい気持ちから、生きる希望を掴んだ。
   僕はなんでこんなところに生まれてきたんだろう。存在が無いまま真剣に考える日々。答えは出ない、誰も教えてくれない、絶望、悲しみ、苦しみ。だけど必ず、ここに生まれてきた意味が有るんだろう。身体の無い僕もきっと、お空で約束して生まれてきたんだ。生まれてきた意味も、自分の存在だってわからないけれど、これから僕が生きる意味を探そう。そして、生きる意味が見つかった時、生まれてきてよかったと思えたらそれでいいんだ。きっとそれが生まれてきた意味。僕の生きる意味は幸せになること。自分が許してくれなかったものはこれから許してあげる。そうして僕は僕を生きてゆこう。理解されて嬉しかったこと。それが僕に有る幸せな希望のように。そして僕は、無理矢理、自分を肯定してみせた。

   けれど実際は、僕がゆかのために頑張っているから、ゆかを助けようとしているから、そのひとは僕を理解してくれているのかと思った。ゆかが大切に思われたり、愛を与えてもらったり、それは仕事だからとしても、ゆかは僕よりかは遥かに思われていた。だからそのひとに、一緒にいるのが楽しいから乗っ取ってこの世で生きていきたい、なんて本音を言うのが怖かった。でも本当のことを言わないで付き合うのは僕の中には選択肢として無かった。だから言うことにした。
   そのひとに、僕がずっと僕が表世界にいるつもりだ。楽しいんだ。と伝えた。
「乗っ取ってやった、へへへ。って、その無表情の裏でホラー映画みたいな顔してんのか~?…………お前がまた、一から成長していけばいい。お前はお前だ。新しいスタートだな。」
   僕はまた考え込んでしまった。ゆかと長い時間を過ごしたそのひとは、僕がゆかを表から消しても何とも思わないのか。もし僕が表世界から消えてもそれ以下なんだろう。その言葉をどういう意味で言ったのか、それ程考えずに言い凌いだのかはわからない。でも僕はそのひとが好きだった。色々な感情から、自分でもなぜかわからない涙が流れていった。受け入れられた喜びが、僕をどこかで苦しめた。そんな僕の頭をそのひとはくしゃくしゃ撫でてくれた。
「また明後日、ここ担当だ。また話そう。」 
軽く僕を抱きしめ、去っていった。 
そんなに頻繁に担当になることは滅多に無いものだった。神様の救いか、運の運びか知らないが、僕は涙を拭い、ただ嬉しかった。 

   とはいえ、薬を抜いてからというもの、ほぼ寝れていなかった。そのひとが帰り、ドキドキする気持ちで紛らわしていただけの、疲れが溜まった身体が、心に忍び寄ってくる。夜は寝れずに歩き続け、次の日には食べることさえ出来無くなった。
   ゆかが薬が抜けたからか、身体の中で暴れるのも酷くなり、久しぶりに話した仲の良い子にも責められ、僕は瞬く間に乗っ取りたいなんて気持ちは無くなってしまった。早く刺激から解放されたくて、ここが病院だとわかりながら、食べなかったら消えられる作戦など立ててみた。看護師さんが優しかったのが救いだった。僕が代わりに出ていることはみんな知っている。報告義務が有るとわかっているから昨日そのひとに、みんなに言っていい、と伝えていた。言わないで、と言っても仕事上、秘密にしてもらえることは無いし、知っているのに知らないふりをされるのが、ゆかの前例を見ていていやだった。
「早く戻ってきてよ~。」
「ゆかになったらまた遊ぼう。」 
「元気になったら話そうね、待ってるよ。」 
看護師さんたちはゆかに話すように、僕に言った。仕方ないことだし、ゆかに対する思いを感じた。僕の方が愛されたいとか、悲しみ、羨みとかは、もう感じすぎて、感じなくなった。諦めて僕は中に戻るべきで、それが僕も含めてみんなの幸せである。ゆかが正気に戻れば僕も戻ろう。僕は責任を感じ、無い者として生きて、ゆかを支えていくことを決断した。

   僕はゆかを愛することが出来ない。ゆかを愛してくれているひとだって仕事上のもの。僕を愛してくれるひとはいない。今まで何のために生きてきたのか。僕らは何のために生まれてきたのか。僕らは、頑張って頑張ってきたつもりだった。でも何のためにもならなかった。それ以上に悪い結果がついてきただけ。この世界に希望は見えなかった。出会うべきものの出会いとか、仕事じゃない関係とか、求めれば求める程に離れていく気がしていた。
   それから、あの日言った明後日になり、またそのひとは来てくれた。その日から奥の歯が痛み伝えると、疲れが溜まると親知らずが痛むことがそのひともある、僕もその症状なようだった。睡眠不足だろう、と言われた。表から消える、と伝える間が無い程、歯が痛むのは治らなかった。痛みも原因ではあったが、経験のないことに襲われ、困っていた。僕は棒のようなもので歯を抜こうとした。次第に黄色い不味い汁が出てきた。しんどそうにしている僕を見て、そのひとは主治医に精神薬を少し戻してみる相談をしてくれ、やっとのことで少し楽になっていく。だが次の日には歯をいじったことで、熱が出た。

   熱で寝込む日々が続いた。けれどそのおかげで夜はしんどくて泣き寝入りでき、結果は寝ることが出来た。その時、考える時間なんてたくさんあった。だからずっと心のどこかにあり顔を出しては苦しむ自分の中の問題について考えていた。
   ゆかや僕らを好きと言ってくれるひと、大切に思ってくれるひと、その殆どは仕事、で接してくれている。殆ど、では無くほぼ全てだ。お金を貰うために僕らと笑って過ごし、時間外や義務以外はどうでもいいんだ。何があったとしても、放っておいていい。大切に思ってもらっているのはわかる。でも僕のいう好きと向こうからの好きは意味が違う。
   僕らは好きになったひとと今まで「友達」「仲間」になりたいと願っていた。でも実際、僕らは世話をされる立場。「対等」なんてなれなかった。お金を貰うため、義務があるから、笑顔で一緒にいてもらえるんだ。終わったらもうそれまで。悲しいけれど、仕事、ってそんなもんなんだ。
   僕やゆかが愛したりしても、問題を起こして仕事が増えると面倒だから、その愛を受け取ってくれている。優しくしてもらえる。僕らの想いが報われることはこれから先、一生無いだろう。僕は向こうのひととは割り切って生きる、と思ったこともある。でもゆかが楽しそうに話しているのを見て、やっぱり僕も好きでいたい、現実を見る、の繰り返しであった。現実を見て悲しくなっても、それでも一緒に笑っていたい。白黒は、はっきりつけなければいけない、混ざった考えが僕らを楽にしながら追い詰める。僕の心の、どこにいっても辿りついた場所には楽には苦が共存していた。だからどうしても自分を自分で苦しめる道を生きていた。

   それから数日、またそのひとが担当として来てくれた。それを見て、やっぱり仕事なんだ、と感情が溢れかけた。感情を抑えるように僕はその日動かず、固まってすごした。夕方頃、さすがに心配させたのか、そのひとは話しに来てくれた。
   僕はそんなこと望んでいないつもりだった。でもそのひとを信頼して好きだという気持ちは消えてはいなかったし、ゆかが信頼し愛すひとがいるように、僕もそのひとのことを愛していた。
   聴きたくない本当の答え。それとは裏腹に現実に有る逃げることのできない事実。イライラした何かに向いて湧き上がる感情とは違い、自分の心の中に有る、わからないものを知りたかった。
   だからこそ思い切って言ったんだ。根本にあった自分の思い。大切にしてくれるのは仕事だからでしょう、仕事じゃなかったらどうでもいいんでしょう、好き、とか嘘でしょうと。
   そのひとは言葉に詰まって、目を逸らした。しばらく考えている様子でその後、違うよ。と言った。
   知ってますよ、そのひとが嘘をつくときは目線を合わせられないとか。ちょっと携帯をいじってみるとか。それに僕だって答えはわかってたことだし。わかっていたのに困らせただけだった。困らしたかった訳でも、嘘でも違うと言って欲しかった訳でも無い。ただそのひとの優しさに、悲しい異物が溢れてしまった。そしてそのひとは、また来る、と部屋から去っていった。 

   しばらくしてそのひとが戻ってきた。
「俺が小学校の時、六年間担任してくれた先生は、まあ小学校にいる内は、よいしょよいしょしてくれたけど中学校に入ったらもう知らんぺ、だし、それから出会ったひとたちも終わったらそれまでだった。でもその出会ったひとたちは今の俺を創ってくれた。」 
どこか遠くを見つめ話すそのひとを見て、僕は、ああ、考えてくれてたんだ、と少し嬉しくなった。そのひとは真面目な話をする時は目を見ろと言う。僕は視線を合わせるのがあまり得意ではないが、目を見て話していた。けれどそのひとは、自分が本音を言う時にはどこか遠くを見ている。それは目を見て話すことさえ出来ないような本当の思いであるかのように。実際、僕がそうだから思った。だから僕と向き合ってくれているように感じた。考えすぎだろうが、そんな気がした。でも、それも仕事か、このひとが「心のプロ」であることなんてことわかっていた。
「仕事、って部分もある。でも上手く言えないんだが、仕事だけ、ではないんだよ。成長を喜んだり、一緒に笑ったり、疲れていたらお前たちに癒されたりもする。まあな、一言で言うと、お前、考えすぎだ。」 
   その、「考えすぎ」という言葉が僕の心で腑に落ちてしまった。根本的にあった問題が砕けちったように感じた。考えなくてもいいだろう問題を、どうしても考えてしまっていた。考えたい訳でも、考えなければいけないと言われた訳でもないのに、ただ自分は苦しんでいないとダメな気がしていた。だけどそれは本当に考えるべき大切な問題では無かった。考えなくてもいい。考えすぎて時々底なし沼にはまることがある。解決しない問題、逃げることの出来ない苦しみ。答えを見つけることだけが大切なものの全てではない。考えすぎ、という言葉で乗り越えることを教えてもらった。
   解決するのも、明らかにするのも、そのためには必ず、正解が必要だと思っていた。無い、有る、さまよいながら、僕は僕を探していた。幸せになるためには答えを求めてしまう。だけど自分が幸せだと思えば、答えなんて必要ないんだ。ひとりひとり、ひとり残らずあるそれぞれの幸せの形。幸せになるために答えを求めていただけだから。幸せになった今、答えはいらなくなった。
   明日も来る、と聞いて僕は明日、無い者として生きてゆくことを伝え、お別れを言うと決めた。

   ゆかには、たくさん助けてくれるひとがいる。支えてもらっている。僕は素直に嬉しいと思ったり、少し僻んだりした。どうしようもない問題は諦められることもある。けれどそれが自分次第で変えられる可能性があると知った時、諦めることさえ中途半端になる。過去に拘り、過去を正そうと努力した。でもそれはただの自己満足を作り上げているだけでしかなかった。自分の中の世界を一生懸命に変えたところで、外からの幸せなんて訪れるはずはなかったんだ。僕は孤独を受け入れて、前を向いて生きているつもりだった。自分に嘘をつき、正しさを演じ、正当化できているふりをしてきた。自分に素直に生きることさえできないのに、そんな自分を受け入れてもらいたいと思っていた。わかっている自分と、わからない悲しさがどんどん積もっていくだけだった。どこかで僕は思っていた。愛が欲しくて、わかって欲しくて、そのままの存在で生きていていいと言われたかった。誰も信じられないのに、誰かに求めていた。

   今までの一生で、僕は理解されたことも、存在を認められたことも、僕は僕でいいと思えたことも無いまま、ゆかに思いを捧げてきた。それが正しい道と信じていたし、生きる全ててあったかもしれない。誰も僕が困ったところで感じもしない。無いものとして息をして、ひとりで解決するしか無かった。自分を信じることさえできずに毎日を送り、悲しかったことも自分の責任として向き合ってきた。ひとつ、ひとつと乗り越えて見る景色も分かち合うか貶し合うか、自分の中で完結した。褒めるのも怒るのも気持ちを処理するのは自分ひとりだった。この二週間あまりで、これから生きてゆく心の力や宝物を貰った。この場所に生まれてきた訳も、生きてきた意味も、存在する理由もわからない。これからまた辛くなる時もあるだろう。でももし、そのひとの中から僕が消えても、僕の中からそのひとは消えない。だからもう僕は、ひとりじゃないんだ。

   名前も、仕事も、病気も、世の中に有るものたちも。世界には、見えない引かれた線が有るようにみえる。でもそれは、時代を生き抜く中で、存在しないものに人間が手を加えただけ。それで生きやすくなるひとも、生き苦しくなっていくひともいる。だけど、みんなわかりあって生きていくんだ。それは「理解」だって同じ。理解なんてひとの作り上げたものなんだ。育ってきた中で自分にこべりついた、自分でも気づかない価値感。でも、理解出来ないからといって理解しようとするのを止めてはならない。理解しようとする姿勢に、それだけでも救われる心がたくさんあるのだから。
   でも迷った時は自分を信じて進めばいい。そして「自分」と「自分」が出会い、他人同士が思い合った時、自分でも気づかなかった幸せが生まれるのだろう。

   心のどこかには、悲しみや葛藤もあったかもしれない。でも僕はもう前の僕とは違うようだった。僕の生きる意味はまだわからないし、悩むことも絶えずある。でも、生まれてきて良かった、とやっと思えた。そのひとには顔を合わすたびたくさん泣かされていた。嬉し泣きだった。お前は泣きむしだなとからかわれたのがいい思い出になっていく。今はそのひとへの感謝と、ただ嬉しい気持ちに溢れていた。 

「朱星、泣かない、泣かないの。」 
「ゆか、愛されるより愛すのが幸せ。僕は、わかったよ。」

   次の日、僕はそのひとに、ゆかも調子がだいぶ戻りました、僕はもう表から消えるつもりです、と言った。それなりに、ありがとうとか、ゆかをよろしくな、とか言われるつもりで。
「そうか、俺はお前が消えても、お前の存在を感じると思うよ。」  
   僕自身も僕の心はわからない。本当の気持ちさえもわからない。でも、嘘でも方便でもいい程に、僕が一番欲している言葉をそのひとは使う。色々返すための言葉を探したが、やっぱり、ありがとう、に辿り着いた。お前になってからありがとうが増えたなと言われた。溢れる感謝を伝えるために言っていた言葉。ちょっとしつこいくらい伝えたかもしれない。僕のこの思いが伝わっていたかはわからないけれど、その言葉は確かにそのひとに届いていたようだった。いいんだ、泣くな、泣きむし、とそのひとは頭をくしゃくしゃ撫でてくれた。そして、最後のハグをした。 

   それからしばらくして、僕は表世界から消えた。今日もゆかは看護師さんたちと楽しく話している。少し、前より調子悪めで部屋のドアを閉めて過ごしている。僕が中からゆかを引っ張る力も強くなった気もする。だけどゆかはしっかり落ち着いて生きている。ゆかを愛おしく思いながら、僕は僕を過ごしている。当たり前の日々が、とてもかけがえのないものに見えるようになった。

   そのひとはゆかを見て、すぐに僕では無いことに気づいた。ゆかはそのひとに抱きつき愛情表現として、いつもの頭突きをした。
「ゆか、戻ってきたのか。お前は暴力的だなあ。お前は周りから、外からも支えられているが、中からもとても支えられている。お前を守っている子は、とても寡黙でおとなしいいい子だったぞ、まあお前と比べる訳ではないが。」 

ゆかが戻り本当は喜んでいただろう。そう考えることもあったが、僕がそのひとの中に、まだ存在していたことが嬉しかった。涙がポロポロ溢れた。僕は、身体として存在していない。だけどこのひとのなかに、僕は有るんだ。いつ消えて無くなるかなんてわからないけれど、確かに僕はここに生きたんだ。
「きっと、『僕のことを忘れていなかったんだ』ってまた泣いとるんじゃないかな。」 
そう言って、そのひとは笑って遠くを見つめた。 

   そのひとが発する言葉や行動に僕は何度も崩れ、思い出しては何回も泣いた。昔、ゆかは思い出し笑いをいやらしいと言われ、僕は控えさせていた。けれど、思い出し笑いに浸る時が幸せだとゆかは言っていた。
   僕はその気持ちがわからなかった。思い出し笑いをするような経験も無かったから、理解も出来なかった。僕は、思い出し泣きをして今とても幸せな気持ちになった。
   「理解されないひとに理解されなくても悲しくはないが、理解してくれると思ったひとに理解されないと悲しいな、期待は辛い、わかるぞ。ごめんな。」 
「ゆかに戻れとは俺は言わない。お前が生きたいように生きたらいい。」 
「俺はお前が大好きだ、嘘じゃない。」 
「中途半端に泣くな、思い切り泣いていいんだ。」 

   僕は思う。この言葉たちも、涙の跡も、僕の存在も、形は無いが僕の中から消えることは無いだろうと。

   僕の存在って何だろう。残る、形有るものにこだわってきた。なのに、ずっと求めても得られなかった。でもそのひとと出会って、僕は気づいた。有るものが全てじゃない。無いものが、「無い」訳じゃない。僕は夢遊のように宙に浮いている。身体が無く、自分の意思で消えることも出来なければ、縛られた苦しみから解き放たれることも無い。
   僕がいなかったら出来たことばかりをみては、自分を苦しめ、自分自身が嫌いになっていった。僕がいたから出来たことがあった。そう言い聞かせて、自分を大切にしてみた。現実を見るたびに自分の存在が許せなくなった。世の中が悪い、世間のせい、周りは敵。そう言って理不尽なことをどこかに向け、投げ出したくなった。自分を認めて受け入れたくて、存在が有る無しじゃなく、ただ世界や世界に有るもの全てを恨んでいた。

  僕は、僕に名前はつけない。ゆかを影から見守っていくため、そんな使命なら格好いいだろう。本当は、僕が僕のことを、幸せにしてあげるため。無いとか有るとか事実とか、そんなの幸せとは関係ないんだ。だって周りが何と言ったって、どう評価されたって、自分が幸せと思えたなら、自分は幸せだって気づいたから。幸せか幸せじゃないか、決めるのは他の誰でも無い。最後は自分の「心」なんだ。
  僕は一生、誰にも理解されないと知っていた。知っていたはずだった。でもそのひとと出会い、僕の世界は変わった。今でもゆかとそのひとが話しているのを見ると、表に出ていきたくなることがある。けれど、それは誰のためにもならないと思った。そのひとの中に僕は、ゆかでさえ、どれだけ残るかはわからない。ここを退院したなら、もう会うことだって無いだろう。最後、ありがとうの手紙を書くことを目標にして今日も生きている。

   間違った道なんて無い。全ての道、未だ無い道だって、これから僕らは進んでゆける。求めても無いと思ったり、限りが有るように見えても、道はひとつじゃない。そして自分の進んだその道がたとえ結果が悪く見えたって後悔しなくていい。結果も大切かもしれない。でもそれまでの経過は、何より宝のようなもの。何ひとつ無駄なことなんて無い。辛いことも、しんどかったことも、自分として生きている。通らないはずの道で、大切なものに出会うことだってある。
   そして僕は、全ての経過を辿ってそのひとに出会えた。未来はやって来るものでも無ければ、意図して創るものでも無い。今を生きることが未来となる。この出会いも、未来の僕の経過となってゆくだろう。 自分が生きること、周りにどう言われても最後決めるのは自分。他を使い言い訳も出来なければ、他に自分を決めさせる権利は無い。自分を認めるのも最後は他でもなく自分なんだ。自分を好きでいるのも、嫌いでいるのも、それは自分の自由で有る。自分を生かす権利を持つのは、他の誰でもなく、自分しかいないのだから。僕はゆかのことを愛せるようになった。そして、僕は僕自身のことを認められるようになった。

   周りのひとや、自分の過去、この世界が憎かった。自分のせいであることはわかっていた。だから自分のことも許せなかった。乗り越えられるとも思わなかったし、明るい未来など自分には存在しないと思っていた。今もたくさんの課題は有る。だけど今を大切に、幸せを感じて生きること。頑張って生きてきたね、って言いながら。僕は自分を褒めてあげられるようになった。僕は僕でいいのだから。君は君でいいのだから。そして、周りのひとたちにも、感謝することができるようになった。少し、世界に心を開いて、僕自身も楽になれた。

   現在、ゆかはゆかの両親に、僕のことを伝えている。ゆかと共に生きてきた両親は、もうゆかの全てを受け入れようとしてくれている。それが、離れているからかはわからないけれど僕も嬉しく思っている。ゆかの母は、僕の存在も知っている。戸惑うことも無いようで、懐が深くなったなぁ、と思う程だ。本当は有って欲しくなかったこと。出来れば経験したくなかったようなしんどいこと。良いことも悪いことも、それら全て有って、今の自分がいる。わざと苦しい道に進む必要は無い。でも、自分の信じた道には、きっと自分が信じられるものが有る。

   他人は他人、自分は自分。分けたくて分けたくなくて、どうしようもなく消えることばかりを考えていた。悲しいからって、苦しいからって、生きるのをやめたくなる。でも、生きたらダメなひとなんていない。生きものは生きるために生まれてきた。命は、生きていいからみんな生まれてきたんだ。だから、思いっきり生きることが、「存在価値」なんじゃないかな。

   ゆかに、僕はそのひとを愛してるんだ、と伝えると、「ゆかも愛してるけど、『結婚してる』『男のひと』に愛してるなんて言ったら困っちゃうよ、だからゆかは、好き、なんだ」と言われた。確かにそうかもしれない。僕はゆかの成長を感じながら、僕は言わなければ、「愛している」でもいいかと思ってみた。

   そのひとと出会い感じた、幸せな気持ち。たくさん考えて、成長して、わかった自分。僕はこのことを胸に抱いて生きてゆく。色褪せない言葉たち、抱きしめられたあの感覚。無いはずの僕の中にだって、これからも有り続けるだろう。

   無有病、僕に名前の代わりにつけた僕の存在の証。無でも有でもない大切な目に見えないお守りの名前。その中に入っているのは、悲惨にみえる二週間、そのひとから貰った僕の大切な、入りきっていない、たくさんの宝物なんだ。 



エンディングテーマ、
NEW WORLD MUSIC (いきものがかり)
(是非お聴きください)
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

その男、人の人生を狂わせるので注意が必要

いちごみるく
現代文学
「あいつに関わると、人生が狂わされる」 「密室で二人きりになるのが禁止になった」 「関わった人みんな好きになる…」 こんな伝説を残した男が、ある中学にいた。 見知らぬ小グレ集団、警察官、幼馴染の年上、担任教師、部活の後輩に顧問まで…… 関わる人すべてを夢中にさせ、頭の中を自分のことで支配させてしまう。 無意識に人を惹き込むその少年を、人は魔性の男と呼ぶ。 そんな彼に関わった人たちがどのように人生を壊していくのか…… 地位や年齢、性別は関係ない。 抱える悩みや劣等感を少し刺激されるだけで、人の人生は呆気なく崩れていく。 色んな人物が、ある一人の男によって人生をジワジワと壊していく様子をリアルに描いた物語。 嫉妬、自己顕示欲、愛情不足、孤立、虚言…… 現代に溢れる人間の醜い部分を自覚する者と自覚せずに目を背ける者…。 彼らの運命は、主人公・醍醐隼に翻弄される中で確実に分かれていく。 ※なお、筆者の拙作『あんなに堅物だった俺を、解してくれたお前の腕が』に出てくる人物たちがこの作品でもメインになります。ご興味があれば、そちらも是非! ※長い作品ですが、1話が300〜1500字程度です。少しずつ読んで頂くことも可能です!

世界の端に舞う雪

秋初夏生(あきは なつき)
現代文学
雪が降る夜、駅のホームで僕は彼女に出会った まるで雪の精のように、ふわりと現れ、消えていった少女── 静かな夜の駅で、心をふっと温める、少し不思議で儚い物語

君は妾の子だから、次男がちょうどいい

月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。

『「愛した」、「尽くした」、でも「報われなかった」孤独な「ヤングケアラー」と不思議な「交換留学生」の1週間の物語』

M‐赤井翼
現代文学
赤井です! 今回は「クリスマス小説」です! 先に謝っておきますが、前半とことん「暗い」です。 最後は「ハッピーエンド」をお約束しますので我慢してくださいね(。-人-。) ゴメンネ。 主人公は高校3年生の家庭内介護で四苦八苦する「ヤングケアラー」です。 世の中には、「介護保険」が使えず、やむを得ず「家族介護」している人がいることを知ってもらえたらと思います。 その中で「ヤングケアラー」と言われる「学生」が「家庭生活」と「学校生活」に「介護」が加わる大変さも伝えたかったので、あえて「しんどい部分」も書いてます。 後半はサブ主人公の南ドイツからの「交換留学生」が登場します。 ベタですが名前は「クリス・トキント」とさせていただきました。 そう、南ドイツのクリスマスの聖霊「クリストキント」からとってます。 簡単に言うと「南ドイツ版サンタクロース」みたいなものです。 前半重いんで、後半はエンディングに向けて「幸せの種」を撒いていきたいと思い、頑張って書きました。 赤井の話は「フラグ」が多すぎるとよくお叱りを受けますが、「お叱り承知」で今回も「旗立てまくってます(笑)。」 最初から最後手前までいっぱいフラグ立ててますので、楽しんでいただけたらいいなと思ってます。 「くどい」けど、最後にちょっと「ほっ」としてもらえるよう、物語中の「クリストキント」があなたに「ほっこり」を届けに行きますので、拒否しないで受け入れてあげてくださいね! 「物質化されたもの」だけが「プレゼント」じゃないってね! それではゆるーくお読みください! よろひこー! (⋈◍>◡<◍)。✧♡

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

【完結】王太子殿下が幼馴染を溺愛するので、あえて応援することにしました。

かとるり
恋愛
王太子のオースティンが愛するのは婚約者のティファニーではなく、幼馴染のリアンだった。 ティファニーは何度も傷つき、一つの結論に達する。 二人が結ばれるよう、あえて応援する、と。

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

処理中です...