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朝帰りした日のエスニョーラ邸 - ラドルフのひとりごと
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※ 本編「62.嵐の一夜と虹」と同日の話
やっと皇太子が帰還するってことで、皇城はどこもてんてこ舞いだ。
俺の所も、皇女がやっていた仕事の記録文書を皇太子に差し替えしなきゃならんから、膨大な数の資料を寄せ集めて、順繰りに始末していくってのをここ最近はひたすらやっている。
(ラドルフの勤め先は、帝国図書館の資料課)
昨日は屋敷に戻ってるんじゃ到底間に合わないってんで、皇城に泊まりこんだ。
そして次の日の午前、ちょっとばかし時間が取れそうになったから、体を休めるために一度自宅へ戻ることにした。
「……ふぎゃあ、ふぎゃあ……」
玄関前に到着すると、中からリカルドの泣き声が聞こえてきた。
まあ、イリスがそばに付いてるはずだから、抱いてやったり、おしめ変えるか、ミルクやったりすればすぐ泣き止むだろ。
そう思いながら、だいたい2人がいる屋敷の居間スペースへ向かったが、一向にリカルドの声が止むことはなく、近づくにつれその声は大きくなる一方だった。
「ほら、ほら、リカルドちゃん! どうして、そんなに泣いてるんでちゅか?」
居間に入ると、何かいつもとおかしな空気が流れていた。
ゆりかごに入って手を伸ばして泣き喚いているリカルドを抱き上げたのは、母上だ。
母上がいくら揺らしたり、あやしても全く泣き止まない。
そして、リカルドが入っていたゆりかごのすぐ前にはテーブルがあるんだが、そこに顔を横向きにぐったりと乗せて、イスに腰掛けている人間がいる。
……イリスだ。
昔、エミリアの婚約披露会で俺と腕を組まされて歩いてた時みたいに、顔が青ざめて死んだみたいになっている。
生きてはいるようだが、母上が何もしないでいる所を見ると、放って置いても大丈夫だから、こうしているんだろう。
可愛い嫁ではあるが、この時ばかりは何とも不気味な空気を感じ取って、俺は動けずにいた。
「あら、ラドルフ帰ってたの?」
まだ泣き止む気配のないリカルドを抱きながら、母上がこちらに気づいた。
「まったく、エミリアが帰ってきてから、こんな状態なのよ? 旦那様も部屋にこもったきり、姿を現さないし…… リカルドちゃんは何とかしておくから、様子を見てきてくれるかしら?」
よく事情が飲み込めないまま、父上の書斎へ行ってノックすると、返事があったので中へ入る。
なんだ、この匂いは?
見ると、部屋の奥の窓を開けて、外を見ている父上の手からは白い煙が出ている。
あれは……シガーか?
あの健康志向の高い父上が、あんなものを吸っているのは初めて見たぞ。
ちなみに少量のアルコールは体にいいということで、食前酒ではよく飲んではいるが。
「……ラドルフ、ついにこの時が来たんだよ」
父上は、灰皿にモクモクと煙を上げているシガーを静かに置いて、こっちを振り向いた。
何というか、悟ったような表情にも見えるが、どこか物悲しそうにも見える。
「イリスの様子もおかしかったですが……エミリアに何かありましたか?」
「あの子が、朝帰りしたんだよ」
……どういうことだ?
「あいつは昨日、ヘイゼル邸のメイドと泊まりがけでどこかへ行きましたよね。もう戻ってきたのですか?」
エミリアは昨日そう言って、俺が皇城へ行くよリも早い時間に、屋敷を出掛けて行った。
「……ああ、お前はいなかったのか。朝、あの子が家を出て、また戻ってきてね。公爵子息と共に昨日のうちに戻ると言って、馬を連れて出掛けて行ったんだよ」
……は? つまり、メイドとじゃなく、ヘイゼルの子息と出掛けて行った。
そして、本当なら昨日のうちに戻るはずだったのに、今朝戻ってきた……
やっと、やっと何が起こったのか理解した。
俺は自然とうつむいて、眉間を左の親指と人差し指でつまんでいた。
……ああ、ついにこの時が来てしまったって訳か。
やっぱり、やっぱり、俺が懸念してた通り、16になる前にやられちまったって訳だな。
……あの男に。
とは思ったものの、俺の方が婚約相手に手をつけるのは早かった訳だ。
女に惚れたら、抑制がきかなくなるのは……仕方ない。仕方ないことだ。
それが分かるから、お前のことは責めないでやるよ。
俺は、何とも寂しげな時が流れている父上の書斎を後にした。
そして、ほぼ徹夜して作業していた体を休めるって口実で、自分の部屋へ向かった。
父上と同じように、春風が入る窓を開いて、ぼーっと庭を眺めた。
『おにいちゃ……おにいちゃま!』
初めて、あそこの庭で俺のことをそう呼んだ時の事を思い出していた。
本当に、めちゃくそに可愛いかったエミリア。
あの頃は、絶対に他の男から守ってやるって思ってたんだけどな……
また、こんな気持ちを味わうんだったら、俺は娘はいらないな。そう思った。
やっと皇太子が帰還するってことで、皇城はどこもてんてこ舞いだ。
俺の所も、皇女がやっていた仕事の記録文書を皇太子に差し替えしなきゃならんから、膨大な数の資料を寄せ集めて、順繰りに始末していくってのをここ最近はひたすらやっている。
(ラドルフの勤め先は、帝国図書館の資料課)
昨日は屋敷に戻ってるんじゃ到底間に合わないってんで、皇城に泊まりこんだ。
そして次の日の午前、ちょっとばかし時間が取れそうになったから、体を休めるために一度自宅へ戻ることにした。
「……ふぎゃあ、ふぎゃあ……」
玄関前に到着すると、中からリカルドの泣き声が聞こえてきた。
まあ、イリスがそばに付いてるはずだから、抱いてやったり、おしめ変えるか、ミルクやったりすればすぐ泣き止むだろ。
そう思いながら、だいたい2人がいる屋敷の居間スペースへ向かったが、一向にリカルドの声が止むことはなく、近づくにつれその声は大きくなる一方だった。
「ほら、ほら、リカルドちゃん! どうして、そんなに泣いてるんでちゅか?」
居間に入ると、何かいつもとおかしな空気が流れていた。
ゆりかごに入って手を伸ばして泣き喚いているリカルドを抱き上げたのは、母上だ。
母上がいくら揺らしたり、あやしても全く泣き止まない。
そして、リカルドが入っていたゆりかごのすぐ前にはテーブルがあるんだが、そこに顔を横向きにぐったりと乗せて、イスに腰掛けている人間がいる。
……イリスだ。
昔、エミリアの婚約披露会で俺と腕を組まされて歩いてた時みたいに、顔が青ざめて死んだみたいになっている。
生きてはいるようだが、母上が何もしないでいる所を見ると、放って置いても大丈夫だから、こうしているんだろう。
可愛い嫁ではあるが、この時ばかりは何とも不気味な空気を感じ取って、俺は動けずにいた。
「あら、ラドルフ帰ってたの?」
まだ泣き止む気配のないリカルドを抱きながら、母上がこちらに気づいた。
「まったく、エミリアが帰ってきてから、こんな状態なのよ? 旦那様も部屋にこもったきり、姿を現さないし…… リカルドちゃんは何とかしておくから、様子を見てきてくれるかしら?」
よく事情が飲み込めないまま、父上の書斎へ行ってノックすると、返事があったので中へ入る。
なんだ、この匂いは?
見ると、部屋の奥の窓を開けて、外を見ている父上の手からは白い煙が出ている。
あれは……シガーか?
あの健康志向の高い父上が、あんなものを吸っているのは初めて見たぞ。
ちなみに少量のアルコールは体にいいということで、食前酒ではよく飲んではいるが。
「……ラドルフ、ついにこの時が来たんだよ」
父上は、灰皿にモクモクと煙を上げているシガーを静かに置いて、こっちを振り向いた。
何というか、悟ったような表情にも見えるが、どこか物悲しそうにも見える。
「イリスの様子もおかしかったですが……エミリアに何かありましたか?」
「あの子が、朝帰りしたんだよ」
……どういうことだ?
「あいつは昨日、ヘイゼル邸のメイドと泊まりがけでどこかへ行きましたよね。もう戻ってきたのですか?」
エミリアは昨日そう言って、俺が皇城へ行くよリも早い時間に、屋敷を出掛けて行った。
「……ああ、お前はいなかったのか。朝、あの子が家を出て、また戻ってきてね。公爵子息と共に昨日のうちに戻ると言って、馬を連れて出掛けて行ったんだよ」
……は? つまり、メイドとじゃなく、ヘイゼルの子息と出掛けて行った。
そして、本当なら昨日のうちに戻るはずだったのに、今朝戻ってきた……
やっと、やっと何が起こったのか理解した。
俺は自然とうつむいて、眉間を左の親指と人差し指でつまんでいた。
……ああ、ついにこの時が来てしまったって訳か。
やっぱり、やっぱり、俺が懸念してた通り、16になる前にやられちまったって訳だな。
……あの男に。
とは思ったものの、俺の方が婚約相手に手をつけるのは早かった訳だ。
女に惚れたら、抑制がきかなくなるのは……仕方ない。仕方ないことだ。
それが分かるから、お前のことは責めないでやるよ。
俺は、何とも寂しげな時が流れている父上の書斎を後にした。
そして、ほぼ徹夜して作業していた体を休めるって口実で、自分の部屋へ向かった。
父上と同じように、春風が入る窓を開いて、ぼーっと庭を眺めた。
『おにいちゃ……おにいちゃま!』
初めて、あそこの庭で俺のことをそう呼んだ時の事を思い出していた。
本当に、めちゃくそに可愛いかったエミリア。
あの頃は、絶対に他の男から守ってやるって思ってたんだけどな……
また、こんな気持ちを味わうんだったら、俺は娘はいらないな。そう思った。
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