疾風の往く道

初音

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オリンピック代表選考会②

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 武雄は、規則正しく呼吸をしながら、順調に走っていた。コースの半分を過ぎ、残り十キロを切った。
 
 なんとしても、上位の五人に入らねば。それは、もはや執念だった。
 最初は、世界の大舞台で走ってみたいという、純粋なあこがれからだった。
 けれど、今はもうオリンピックの夢は、武雄だけのものではないのだ。

 ふと、キヨに見せてもらったあの絵のことを思い出した。

 自分としては意識していなかったものの、最初に見られた姿が、財布を掏られそうになっている間抜けな姿ではなく、走っている姿だったのは、それはそれでよかったのかもしれないと思う。

 武雄はスピードを上げた。まだまだ走れる。今ふたたび、自分の走りを見せよう。

 上野公園までは、もうすぐだ。


***

 一位の選手が上野公園の敷地に入ってきたという報が入ったのは、悉乃たちが二時間程待った頃だった。まだゴールとなる広場に到着するまで少しかかるが、待ちくたびれた観衆にとっては十分な吉報だ。伝令係によれば、武雄はこの時三位だった。

「そのままキープできれば、代表入りは確実ですわね」

 キヨが声を弾ませた。悉乃は、それでもどきどきと高鳴る心臓を押さえながら、選手たちが走ってくる方向に目を凝らした。

 やがて、一位の選手が視界に入ってきた。わあっと歓声があがる。続いて二位、三位の選手も見えるところまでやってきた。まだ顔はよく見えない距離だったが、三位の選手は胸に十七番のゼッケンをつけている。武雄の番号だ。

 歓声に混じり、悉乃は恥を捨て叫んだ。

「武雄さーん! がんばって!」
 
 一瞬、十七番のゼッケンをつけた男が、頷いたような気がした。その時だった。彼は、何かに躓いたのか、バランスを崩して転倒してしまった。

 歓声は、心配そうなざわつきに変わった。武雄はすぐに立ち上がったが、その一瞬の隙に二人に抜かされていた。まだ代表入り圏内だが、すぐ後ろから二十二番のゼッケンをつけた六位の選手が近づいてきている。

「どうしよう浅岡さん、本当にで結婚しないといけないかもしれない」

 秀成が、自分と悉乃を交互に指さした。悉乃はふるふると首を横に振った。さすがに失礼かと思い、小さく「ごめんなさい」と謝った。

「あはは、大丈夫。あっ、見て」

 秀成が指した方向に悉乃は視線を向けた。武雄は、膝をかばうような走り方だったが、それでも懸命に歩を進めていた。しかし、後ろから来ていた六位の選手が、武雄に並び、抜かしてしまった。

 その時周囲の歓声は、武雄を応援するものが大半を占めるようになっていた。

「がんばって、茂上さん!」

 という女学生の黄色い声から、

「いけ十七番! 有楽町での追い越しを思い出せ!」

 二月の駅伝を見たのであろう、力強い男性の声まで。

 武雄は前を見据え、ぐっとスピードを上げた。五位の選手に追いついた。歓声がひときわ大きくなる。残り五十メートルは切った。驚いた二十二番の選手は自分の順位を死守しようと懸命に腕を振っていた。だが、武雄のスピードはそれ以上だった。

 武雄は四位、三位と順位を上げ、そのまま三位でゴールした。ほどなくして四位・五位の選手もゴールし、アントワープオリンピック代表選手が決定した。

 ゴールテープ付近は割れんばかりの大歓声。上位五人の選手たちは観客にもみくちゃにされ、悉乃たちは武雄に近づくこともできなかった。それでも、人波の隙間から、武雄が満面の笑みを見せながらこちらに近づいてきた。

「タケちゃん、おめでとう!」
「茂上さん、すごいですわ。最後のあの追い上げ!」

 秀成とキヨが口々に賛辞の言葉を贈るなか、悉乃はただ立ち尽くしていた。

「二人とも、ありがとう! ……悉乃さん?」
「……し、心臓が止まるかと思いましたわっ。本当に……もう駄目かと……」
「僕は絶対にオリンピックに行くと決めたんです。だから、走って走って、走りました」

 武雄は真剣な面持ちで悉乃を見た。

「悉乃さん」
「は、はい」
「改めて、僕がオリンピックから戻ってきたら、結婚してくださいね」

 悉乃はようやくじわじわと実感が湧いてくる心地がした。

「はい」

 と、力強く頷いた。



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