35 / 37
オリンピック代表選考会②
しおりを挟む武雄は、規則正しく呼吸をしながら、順調に走っていた。コースの半分を過ぎ、残り十キロを切った。
なんとしても、上位の五人に入らねば。それは、もはや執念だった。
最初は、世界の大舞台で走ってみたいという、純粋なあこがれからだった。
けれど、今はもうオリンピックの夢は、武雄だけのものではないのだ。
ふと、キヨに見せてもらったあの絵のことを思い出した。
自分としては意識していなかったものの、最初に見られた姿が、財布を掏られそうになっている間抜けな姿ではなく、走っている姿だったのは、それはそれでよかったのかもしれないと思う。
武雄はスピードを上げた。まだまだ走れる。今ふたたび、自分の走りを見せよう。
上野公園までは、もうすぐだ。
***
一位の選手が上野公園の敷地に入ってきたという報が入ったのは、悉乃たちが二時間程待った頃だった。まだゴールとなる広場に到着するまで少しかかるが、待ちくたびれた観衆にとっては十分な吉報だ。伝令係によれば、武雄はこの時三位だった。
「そのままキープできれば、代表入りは確実ですわね」
キヨが声を弾ませた。悉乃は、それでもどきどきと高鳴る心臓を押さえながら、選手たちが走ってくる方向に目を凝らした。
やがて、一位の選手が視界に入ってきた。わあっと歓声があがる。続いて二位、三位の選手も見えるところまでやってきた。まだ顔はよく見えない距離だったが、三位の選手は胸に十七番のゼッケンをつけている。武雄の番号だ。
歓声に混じり、悉乃は恥を捨て叫んだ。
「武雄さーん! がんばって!」
一瞬、十七番のゼッケンをつけた男が、頷いたような気がした。その時だった。彼は、何かに躓いたのか、バランスを崩して転倒してしまった。
歓声は、心配そうなざわつきに変わった。武雄はすぐに立ち上がったが、その一瞬の隙に二人に抜かされていた。まだ代表入り圏内だが、すぐ後ろから二十二番のゼッケンをつけた六位の選手が近づいてきている。
「どうしよう浅岡さん、本当にこっちで結婚しないといけないかもしれない」
秀成が、自分と悉乃を交互に指さした。悉乃はふるふると首を横に振った。さすがに失礼かと思い、小さく「ごめんなさい」と謝った。
「あはは、大丈夫。あっ、見て」
秀成が指した方向に悉乃は視線を向けた。武雄は、膝をかばうような走り方だったが、それでも懸命に歩を進めていた。しかし、後ろから来ていた六位の選手が、武雄に並び、抜かしてしまった。
その時周囲の歓声は、武雄を応援するものが大半を占めるようになっていた。
「がんばって、茂上さん!」
という女学生の黄色い声から、
「いけ十七番! 有楽町での追い越しを思い出せ!」
二月の駅伝を見たのであろう、力強い男性の声まで。
武雄は前を見据え、ぐっとスピードを上げた。五位の選手に追いついた。歓声がひときわ大きくなる。残り五十メートルは切った。驚いた二十二番の選手は自分の順位を死守しようと懸命に腕を振っていた。だが、武雄のスピードはそれ以上だった。
武雄は四位、三位と順位を上げ、そのまま三位でゴールした。ほどなくして四位・五位の選手もゴールし、アントワープオリンピック代表選手が決定した。
ゴールテープ付近は割れんばかりの大歓声。上位五人の選手たちは観客にもみくちゃにされ、悉乃たちは武雄に近づくこともできなかった。それでも、人波の隙間から、武雄が満面の笑みを見せながらこちらに近づいてきた。
「タケちゃん、おめでとう!」
「茂上さん、すごいですわ。最後のあの追い上げ!」
秀成とキヨが口々に賛辞の言葉を贈るなか、悉乃はただ立ち尽くしていた。
「二人とも、ありがとう! ……悉乃さん?」
「……し、心臓が止まるかと思いましたわっ。本当に……もう駄目かと……」
「僕は絶対にオリンピックに行くと決めたんです。だから、走って走って、走りました」
武雄は真剣な面持ちで悉乃を見た。
「悉乃さん」
「は、はい」
「改めて、僕がオリンピックから戻ってきたら、結婚してくださいね」
悉乃はようやくじわじわと実感が湧いてくる心地がした。
「はい」
と、力強く頷いた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
夢の雫~保元・平治異聞~
橘 ゆず
歴史・時代
平安時代末期。
源氏の御曹司、源義朝の乳母子、鎌田正清のもとに13才で嫁ぐことになった佳穂(かほ)。
一回りも年上の夫の、結婚後次々とあらわになった女性関係にヤキモチをやいたり、源氏の家の絶えることのない親子、兄弟の争いに巻き込まれたり……。
悩みは尽きないものの大好きな夫の側で暮らす幸せな日々。
しかし、時代は動乱の時代。
「保元」「平治」──時代を大きく動かす二つの乱に佳穂の日常も否応なく巻き込まれていく。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル
初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。
義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……!
『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527
の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。
※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。
※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる