疾風の往く道

初音

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オリンピック代表選考会①

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 翌日。アントワープオリンピックマラソン日本代表を選ぶ選考会が行われた。
 
 ゴールとなるのは上野公園中央の広場。悉乃とキヨは秀成と合流し、早くからゴール近くを陣取った。選手たちが到着するにはまだ時間がかかるので、逸る気持ちを抑えるのが大変だ。奇しくも、桜が満開。一年前の出来事が思い起こされる。

「勝手に絵を見せたのは悪いと思いましたのよ。けれど、ああでもしないとせっかくの機会を棒に振ってしまうと思ったんですもの。それにしても本当によかったですわ。悉乃さんと茂上さんが結婚できるなんて、まるで物語みたい。なんて素敵な話」

 こんな調子で、キヨは昨夜からほぼ同じ内容の話を少なくとも五回はしている。

「本当に、キヨさんには足を向けて寝られませんわ。それに、三田さんにも」

 悉乃が見やると、秀成は得意げな顔をして頷いた。

「いやあ、本当、タケちゃんには大きな貸しを作ったなあ。九州に帰ったらたっぷり返してもらわなきゃ。もちろん、浅岡さんにも」
「えっ、っと、私、何をすれば……?」
「はは、冗談ですよ。正直な話をすれば、今回のことはお互い様ですから」
「お互い様?」

 秀成は照れくさそうに視線を逸らした。

「地元に残してきた幼馴染がいたんです。まあ、たぶんそっちと結婚することになるかと。向こうは三田物産のお得意様だし、それはそれで都合の悪い話じゃないですから」

 まあ、と悉乃もキヨも互いに目配せして顔を綻ばせた。

「だから浅岡さんが気に病むことはありません。すべては丸く収まるというわけです。あとは、武雄の順位次第ですが……」

 そう、それが肝心要である。
 オリンピックに行けるのは、五人と決まっていた。以前の駅伝出場者を中心に、三十人ほどの脚力自慢がこの上野公園を目指して走ってくる。
 武雄が上位五番以内に入らなければ、この結婚話はおじゃんになってしまう。

 悉乃ほど人生がかかっているわけではないだろうが、詰めかけた他の観客もソワソワした様子でまだ誰も来ないコースを見回している。悉乃は、以前の駅伝とのに気づいた。

「なんだか、女学生が増えていませんこと……?」
「あらやだ、私ったらまだ悉乃さんにお見せしてませんでしたわね。茂上さん、今じゃ結構有名人ですのよ」

 キヨは暇つぶし用に持ってきたのだと言って鞄から一冊の雑誌を取り出した。『スポーツの友 大正九年四月号』と書いてあった。そんな雑誌もあったのかと目を丸くしている悉乃に、キヨはとあるページを開いて差し出してきた。「激闘! 東京箱根間駅伝競走を追う」という見出しの横には、二月の駅伝で武雄がゴールする瞬間の写真が掲載されていた。

 そういえば、耳をすませてみると女学生たちがキャッキャッと話に花を咲かせている中に、武雄の名前が聞こえる。

「この茂上さんって方が優勝候補なの?」
「そうみたいですけど、私はこの明治の樋口さんを応援したいですわ。見て、凛々しいいでたち!」
「ええ? 高師の茂上さんの方が絶対いいですわ。この涼しげな目もとが素敵」

 ざわっと、何やら不快な感情が突如として悉乃の胸にこみ上げてきた。

 ――オリンピックに行くことになったら、武雄さんは、皆の武雄さんになるんだわ。日本中から、応援されて、期待されて、あこがれや賞賛のまなざしを向けられて。

 そして同時に、ハタとあることに思い至る。

「わ、私、大丈夫かしら」
「何が?」

 キヨと秀成が同時に聞いてきた。悉乃は青ざめた顔で二人を交互に見た。

「私なんかが、世界にでていく武雄さんの妻なんて、務まるのかしら」

 二人とも、キョトンとした顔で悉乃を見るばかりで、何も言ってくれない。悉乃はますます不安になってくる。

「今更だなあ……」
「そんなこと心配したって仕方ありませんわ」
「そ、そんな言い方……」

 俯いた悉乃にキヨが優しく呼びかけた。柔らかい笑顔で、悉乃の両手を握る。

「茂上さんがあなたを選んだんですもの。堂々としていればいいんですわ。そうすれば、自ずと『妻として務まる』ようになりますわ」
「キヨさん……」
「そうそう。それに、そういう心配はタケちゃんが無事に上位でゴールしたらすればいいんですよ。あなたのお隣に立つこの三田秀成が結婚相手になる可能性もゼロではないんですからね」

 ニヤリ、と秀成は得意げな笑顔で胸を張った。

「それもそうでしたわ。……二人とも、ありがとう」

 悉乃は雑誌をぱたんと閉じてキヨに返した。周囲からの雑音に惑わされた自分を恥じた。この目で、武雄を見て、今は精一杯応援しなければ。




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