疾風の往く道

初音

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 四月に入り、新学期が始まってしまった。けれど悉乃にはもはや関係のないことだった。学校に戻ることは、もうないのだから。
 
 なげやりでくさくさした気持ちになりながらも、悉乃はここ数日、たった一通だけ届いたキヨからの手紙を自室で繰り返し読んでいた。

 ――東京高師の三田様と縁談が決まったとのこと、おめでとうございます。お会いするのはこれからかしら。良い方だといいですわね。お式にはぜひ呼んでください。
 悉乃さんがもう学校に来ないとのこと、とても寂しいです。私だけでなく、他の皆も。けれど、必ずまた、会いましょうね。
 学校では、四月から洋裁の授業が難しくなるみたい。これからの女性は、洋服もいろいろなものを着こなさないと――

 キヨからの手紙は、至極当たり障りのない内容だった。だが、それでいい。悉乃が手紙に込めたものを、おそらくキヨはわかってくれた。聡明で、機転が利く。

 ――結婚しても、キヨさんはただの奥様では収まらないわね。

 悉乃は笑みを漏らし、ふと窓の外を見た。庭に植えられた桜が満開になっている。

 ――武雄さんを初めて見たのも、こんな日だったわ。

 上野の桜並木もきれいだったけれど、どっしりと一本だけ生えている桜の木もまた、風情があった。

「……待てっ! 待ちなさい」
 
 正面の門のところで誰かが言い争っているのが聞こえた。窓から身を乗り出すと、声の主が見えた。

「武雄さん……?」

 確かに、武雄だった。袴姿で、使用人に左右から取り押さえられながらも、なんとか抵抗している。

「悉乃さんっ!」

 窓から見える悉乃に、武雄も気づいたようだ。武雄はめいっぱいの大声で叫んだ。

「オリンピックが! マラソンが! 開かれることになりました! 明日、土曜日に、選考会があります! 見に来てくださいっ!」
「嘘、本当……? 本当なんですのっ!?」

 悉乃も叫んだ。興奮が、全身を駆け巡った。一度は諦めた夢舞台だ。こんなに突然に、チャンスが巡ってくるなんて。悉乃はいても立ってもいられず部屋を走り出た。

 やしきの外に出て、門前の前庭まで到着したが、悉乃よりも早くその場に現れていたのは文信だった。

「またお前か! 性懲りもなくのこのこと! うちの娘は、縁談が決まっているんだ。これからはこの家で花嫁修業に勤しむのだから、遊んでいる暇はない。今すぐ帰りたまえ」
「そのことですが!」

 武雄はひるんだ様子も見せず、真っ直ぐに文信を見ていた。文信の背後で立ち止まった悉乃は、武雄の言葉を待った。ちらりとこちらを見た武雄と目が合う。武雄はなぜか、笑みを浮かべていた。

「悉乃さんを、退学させないでください」

 そう言って、武雄が差し出したのは一通の手紙だった。

「これは三田秀成の養父になる宗助からの手紙です」
「なぜお前が三田さんの名を……。ええい、ハッタリだろう!」

 文信は乱暴に手紙を奪い取ったが、「確かに三田さんの手紙だ……」と手を震わせ、中を開けた。

「つ、『悉乃さんを退学させてはなりません。三田家の嫁として、高等女学校卒業の経歴は必要不可欠なものになります』だと……。三田さんが、なぜ悉乃の退学のことを? それに、最後のこれはなんだ。『此度の縁談について申し上げたき儀がございます。詳しくは、茂上武雄より直接お聞きいただきますよう』とは……!?」

 武雄は、何かを決意したように大きく頷いた。

「オリンピックに出られたら、僕が、悉乃さんと結婚します!」

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