疾風の往く道

初音

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ビフテキとバゲット④

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 悉乃に災難がふりかかったのは、数日後のことだった。

 父から、呼び出しがかかった。どうせ週末まで数日だというのに、わざわざ木曜日の放課後、すぐに屋敷に戻ってこいという連絡だった。

 いったいどんな急用なのか予想もつかなかったが、金曜日も授業はあるのだし、さっさと話を聞いて寄宿舎に戻ればいいわと思い悉乃は出向いた。


 着いてみると、出迎えたのは憤怒の形相の文信だった。
 テーブルを挟んで対面に座っていることがせめてもの救いだった。暴力に訴えられることはないだろう。逆にいえば、遮るものさえなければ殴りかからん勢いだった。

「お前、また、あの男と会っていたな」
 
 悉乃は面食らった。なぜわかったんですの、なんて聞いたら墓穴を掘るだろうか。どう答えるのが一番傷が浅く済むかと考えている間に、沈黙はどんどん長くなった。

「嫁入り前の娘が、男と逢引きしていたと、噂になっているんだぞ」

 聞けば、どうやら武雄のフロックコートは街中でも相当目立ったらしく、悉乃と武雄が洋食屋で食事を共にしたのを、浅岡家の使用人のひとりが偶然目撃したという。

「やはりお前を野放しにしてはおけん。今日からはこの屋敷の外に出ることまかりならん」
「待ってくださいお父様! まだ明日も授業がありますわ! 学校に行かなかったら卒業できませんわよ!」
「ふん、もともと去年の段階で縁談が進んでおれば退学していたんだ。もはや授業など、蛇足に過ぎん」
「私は、女学校を卒業しますわ。学校に戻ります」

 ガタっと椅子から立ち上がった悉乃を見て、文信は「行かせるな」と声をかけた。左右から男性の使用人が近づいてきて、悉乃の手首を掴んだ。

「離しなさい……っ! 離せ!」

 だが、使用人たちは悉乃の命には従わない。悔しそうに、悉乃は文信を見た。腕は力強く掴まれ、振りほどけない。自分の非力が情けなかった。武雄のように、軽やかに走って、ここから遠くに行けたら、どれだけよかっただろう。

「お父様。私、卒業したら結婚せず、職業夫人になってうんとお金を稼ぎます。女学校の学費も、全部返済してみせますわ。私のような貰い手のない卒業顔など、浅岡家のお荷物でしょう。卒業したら、この家を出ます。親子の縁も切れて、せいせいするでしょう」
「馬鹿者が。お前みたいな小娘がいくら働いたところで大した金にはならん。……女郎にでもなれば話は別かもしれんがな。まあ、お前の母親のように惨めに死んでいく可能性も高いが」

 この一言で、悉乃の中で張り詰めていたものが、ぷつんと切れた。

「……おっかさんを! そんな風に言うな!」
「先ほどから聞いていれば、その乱暴な言葉使い。やはり生まれの卑しさはどうにもならなかったか……」
「おっかさんは、おっかさんは……」

 ぶわっと、涙が出てきた。ぼんやりと、母親の顔が悉乃の脳裏に浮かんでくる。

 ――悉乃、あんたのお父ちゃんはねえ、それはそれは立派なお方でありんしたよ。きっといつか、あちきらを迎えに来てくれんす。

 抜けきらない廓言葉混じりで、いつもそんなことを言っていた。 

「おっかさん……お母様は、言ってましたわ。お父様は必ず私たちを迎えに来てくれるって。ずっと……信じてたのに! それなのに、あなたが私のところへ来たのは、お母様が死んでから何年も経ってからでしたわ。惨めですって? 誰のせいで……!」
「迎えに行くなどと約束した覚えはない。いくら馴染みだったとはいえ、女郎をいちいち身請けしていたのではキリがない」
「お父様にとっては、その程度ですのね。馴染みの女郎たちの一人に過ぎない。こんな立派なお屋敷に住んでらっしゃるのに、心はなんてケチくさいんですこと!」

 なっ、と文信は拳をわなわなと震わせた。悉乃の剣幕に驚いたのか、使用人の手も一瞬緩んだ。

 悉乃は、その隙を逃さず、広いダイニングルームの端まで駆けた。

「悉乃! 待ちなさい!」

 背中に聞こえる文信の声を振り払うように、悉乃は走った。この家を出て、町へ逃げよう。

 ――武雄さん。私だって、走れる。あなたのように。

 だが、文信の次の一言が、悉乃の足をぴたりと止めた。

「あの男がどうなってもいいのか」
「……どういうことですの」

 振り返った悉乃のもとに、文信はツカツカと、ゆっくりした足取りで近づいてきた。もう、悉乃がその場から動かないのを知っているようだった。

「言葉の通りだ。言うことを聞かないのであれば、あの男がどうなってもいいのだな、と問うた。茂上といったか。洋行に出るのであったな。私は逓信省にも顔が利くんだ。船に乗れなくなったら、困るだろうなあ」

 逓信省。鉄道に海運、この国の交通全般を管轄している。確かに、武雄を日本から出さないようにすることだって、できるかもしれない。

 ――けれど、そこまでするっていうの?

 いくらなんでも、できっこない。こんなのはただの父の我儘だ。そんなこと、できるはずがない。ハッタリだ。

 ――でも……

 何かしらの方法で、武雄の邪魔をする可能性は、捨てきれなかった。

 ようやく大人しくなったな、と嘆息した文信は、淡々と告げた。

「お前に、縁談が来ている。相手方はお前の過去を知ってなお、是非にと言ってくださっている。すぐに女学校は退学し、花嫁修業にいそしむのだ。東京から遠く離れるとはいえ、浅岡の名に泥を塗ってもらうわけにはいかんからな」

 悉乃は驚いて聞き返した。

「東京から、遠く離れる……?」
「嫁ぎ先は、福岡だ。九州で力を持つ三田物産とパイプを作り商売の手を広げる」

 維新前から、長崎に薩摩、栄えた地域を擁する九州。最近は、博多のあたりも急速に発展しているという。突然のことに、悉乃は思考が追いつかなかった。
 何も言えないでいる悉乃の前に、この方が相手だと文信は一枚の写真を差し出した。

「この方は……!?」

 写っていたのは、武雄のはとこ・三田秀成だった。


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