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途絶えた連絡①
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夏休みが明けると、本当にクラスの三分の一が学校をやめていた。
寿退社ならぬ寿退学。それが、女学生の目標であり、名誉であり、ステータスであった。
あの倉橋とその取り巻きも良縁に恵まれ学校を去っていたのは、悉乃にとっては朗報中の朗報であった。先に嫁げて羨ましいという気持ちは微塵もなく、とにかく彼女たちがいなくなってくれたことに対する安心感でいっぱいだった。
こうして悉乃の学校生活には平穏が取り戻されたわけだが、一つだけ、心が晴れない出来事があった。
ぱったりと、武雄に会えなくなってしまったのである。
確かに悉乃は文信から武雄に会うことを禁止されていたが、そんな言いつけは破る気満々であった。バレなければいいだけのことである。
それなのに、肝心の武雄からの連絡が途絶えてしまったのである。
一度だけ、手紙のやり取りをした。悉乃が、夏休み前の父の非礼を詫びる内容の手紙を先に送った。返ってきたものにはこう書いてあった。
――僕が悉乃さんの友人としてふさわしい人間になるまでは、会わない方がいいと思います。
おそらく武雄は悉乃が思っているよりも文信の言葉を重く受け止めてしまっているのだろう。気にしなくてもいいのに。ということを最初に送った手紙の中でも伝えてあったが、返事が来ることはなかった。
だが次第に、悉乃はこう思うようになった。「会わない方がいい」は方便で、本当はもう、武雄は自分に会いたくないのではないかと。あの一件でやはり関わり合いになりたくない女だと思われたのかもしれない。
考えれば考えるほど、悉乃はきっとそうなのだと確信を強めていった。それでも、半ば怖いもの見たさのような気持ちで武雄が走っていそうな場所に行ってみたが、会えなかった。会えないことに少しほっとしている自分もいた。会って、困ったような顔をされたら。迷惑そうな顔をされたら。東京高師まで行く勇気は、悉乃にはなかった。
***
「悉乃さん、どなたがお好み?」
その日は雨が降っていた。日曜日だというのにどこにも出かけることもできず、悉乃とキヨは部屋で本を読んで過ごしていたのだが、キヨが悉乃の目の前に数冊の雑誌をずらりと並べた。
キヨは最近よく、『映画スタア』『歌舞伎旬報』などといった雑誌を購入していた。その名の通り、映画や歌舞伎の俳優を取り上げており、写真もふんだんに使われている。巷の女学生は、どの俳優が素敵か、見目麗しいか、そんなことで盛り上がっているらしい。
「キヨさん、最近急にこういうの読んでるわよね……」
悉乃はキヨの変化に戸惑いつつも、目の前にあった『映画スタア 十一月号』を手に取りパラパラとめくった。眉目秀麗な男優や女優の写真が目に飛び込んでくる。
「ふふ、お姉さまがね、こういうものは嫁入り前に読み切ってしまいなさいって」
「なるほど……でもキヨさん、山口様、だったかしら? お相手のこと、結構お好きだと言っていたじゃない」
キヨは、夏休みの間に結婚の話がまとまっていた。実際に結婚するのはキヨの卒業まで待ってくれるのだという。相手は財閥系の御曹司で、一目見てキヨの方が気に入ってしまったそうだ。だから、俳優の写真を見て楽しんでいるキヨの気持ちが悉乃には今一つわからなかった。
「それはそれ、これはこれですわ。確かに、山口様との結婚は私も前向きに考えていますけど、今しかできないことは今やっておきませんと」
ほらほら、こちらはどう? と言って、キヨは『男優・女優名鑑 大正八年秋・冬号』を手に取った。
――そうか。キヨさんは。……こうして、私の気を紛らわせようとしてくれているのかもしれないわ。
それは悉乃の勘違いかもしれない。でもそう考えると、少しだけ元気が出る気がした。ありがとう、と言って悉乃は雑誌を受け取った。だがその時、ふと傍に置いてあった今日の朝刊に目が留まった。そういえば、新聞はまだ読んでいなかった。
悉乃の目を引き付けたのは、「東京高師」の文字だった。武雄とは何の関係もないかもしれない。でも、あるかもしれない。
小さな記事だったが、見出しには「東京―日光間往復駅伝本日出発。金栗四三氏、東京高師・独逸学中学学生と併走」と書いてあった。
金栗といえば、確か武雄の話に出てきた、七年前のオリンピック選手であり、武雄の先生である人物であったはずだ。悉乃は、『男優・女優名鑑』を無造作に置くと、新聞を取り上げてじっくりと読んだ。
駅伝というのは、マラソン選手が交代で走って、チームでの勝敗を争う長距離走のことらしい。金栗四三が発案したもので、マラソン選手が走り継いで力を合わせればどんな長距離も走れるという理念に基づいている。今回、武雄の属する東京高師と金栗が教鞭をとっている独協中学の学生がそれぞれチームを作って勝負をしているのだと、記事には書いてあった。ちなみに、金栗はその二チームと並走して一人ですべての区間を走ろうとしているらしい。一人で日光まで走るなんて、悉乃にはちょっと想像がつかなかった。
この「東京高師チーム」の中に武雄がいるかどうかまでは、新聞記事からはわからなかった。でも、走っているにせよ応援するにせよ、きっと武雄は今日光にいるのだろう。心配はいらないと思うが、悉乃は武雄の無事を祈った。
寿退社ならぬ寿退学。それが、女学生の目標であり、名誉であり、ステータスであった。
あの倉橋とその取り巻きも良縁に恵まれ学校を去っていたのは、悉乃にとっては朗報中の朗報であった。先に嫁げて羨ましいという気持ちは微塵もなく、とにかく彼女たちがいなくなってくれたことに対する安心感でいっぱいだった。
こうして悉乃の学校生活には平穏が取り戻されたわけだが、一つだけ、心が晴れない出来事があった。
ぱったりと、武雄に会えなくなってしまったのである。
確かに悉乃は文信から武雄に会うことを禁止されていたが、そんな言いつけは破る気満々であった。バレなければいいだけのことである。
それなのに、肝心の武雄からの連絡が途絶えてしまったのである。
一度だけ、手紙のやり取りをした。悉乃が、夏休み前の父の非礼を詫びる内容の手紙を先に送った。返ってきたものにはこう書いてあった。
――僕が悉乃さんの友人としてふさわしい人間になるまでは、会わない方がいいと思います。
おそらく武雄は悉乃が思っているよりも文信の言葉を重く受け止めてしまっているのだろう。気にしなくてもいいのに。ということを最初に送った手紙の中でも伝えてあったが、返事が来ることはなかった。
だが次第に、悉乃はこう思うようになった。「会わない方がいい」は方便で、本当はもう、武雄は自分に会いたくないのではないかと。あの一件でやはり関わり合いになりたくない女だと思われたのかもしれない。
考えれば考えるほど、悉乃はきっとそうなのだと確信を強めていった。それでも、半ば怖いもの見たさのような気持ちで武雄が走っていそうな場所に行ってみたが、会えなかった。会えないことに少しほっとしている自分もいた。会って、困ったような顔をされたら。迷惑そうな顔をされたら。東京高師まで行く勇気は、悉乃にはなかった。
***
「悉乃さん、どなたがお好み?」
その日は雨が降っていた。日曜日だというのにどこにも出かけることもできず、悉乃とキヨは部屋で本を読んで過ごしていたのだが、キヨが悉乃の目の前に数冊の雑誌をずらりと並べた。
キヨは最近よく、『映画スタア』『歌舞伎旬報』などといった雑誌を購入していた。その名の通り、映画や歌舞伎の俳優を取り上げており、写真もふんだんに使われている。巷の女学生は、どの俳優が素敵か、見目麗しいか、そんなことで盛り上がっているらしい。
「キヨさん、最近急にこういうの読んでるわよね……」
悉乃はキヨの変化に戸惑いつつも、目の前にあった『映画スタア 十一月号』を手に取りパラパラとめくった。眉目秀麗な男優や女優の写真が目に飛び込んでくる。
「ふふ、お姉さまがね、こういうものは嫁入り前に読み切ってしまいなさいって」
「なるほど……でもキヨさん、山口様、だったかしら? お相手のこと、結構お好きだと言っていたじゃない」
キヨは、夏休みの間に結婚の話がまとまっていた。実際に結婚するのはキヨの卒業まで待ってくれるのだという。相手は財閥系の御曹司で、一目見てキヨの方が気に入ってしまったそうだ。だから、俳優の写真を見て楽しんでいるキヨの気持ちが悉乃には今一つわからなかった。
「それはそれ、これはこれですわ。確かに、山口様との結婚は私も前向きに考えていますけど、今しかできないことは今やっておきませんと」
ほらほら、こちらはどう? と言って、キヨは『男優・女優名鑑 大正八年秋・冬号』を手に取った。
――そうか。キヨさんは。……こうして、私の気を紛らわせようとしてくれているのかもしれないわ。
それは悉乃の勘違いかもしれない。でもそう考えると、少しだけ元気が出る気がした。ありがとう、と言って悉乃は雑誌を受け取った。だがその時、ふと傍に置いてあった今日の朝刊に目が留まった。そういえば、新聞はまだ読んでいなかった。
悉乃の目を引き付けたのは、「東京高師」の文字だった。武雄とは何の関係もないかもしれない。でも、あるかもしれない。
小さな記事だったが、見出しには「東京―日光間往復駅伝本日出発。金栗四三氏、東京高師・独逸学中学学生と併走」と書いてあった。
金栗といえば、確か武雄の話に出てきた、七年前のオリンピック選手であり、武雄の先生である人物であったはずだ。悉乃は、『男優・女優名鑑』を無造作に置くと、新聞を取り上げてじっくりと読んだ。
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この「東京高師チーム」の中に武雄がいるかどうかまでは、新聞記事からはわからなかった。でも、走っているにせよ応援するにせよ、きっと武雄は今日光にいるのだろう。心配はいらないと思うが、悉乃は武雄の無事を祈った。
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