18 / 37
途絶えた連絡①
しおりを挟む
夏休みが明けると、本当にクラスの三分の一が学校をやめていた。
寿退社ならぬ寿退学。それが、女学生の目標であり、名誉であり、ステータスであった。
あの倉橋とその取り巻きも良縁に恵まれ学校を去っていたのは、悉乃にとっては朗報中の朗報であった。先に嫁げて羨ましいという気持ちは微塵もなく、とにかく彼女たちがいなくなってくれたことに対する安心感でいっぱいだった。
こうして悉乃の学校生活には平穏が取り戻されたわけだが、一つだけ、心が晴れない出来事があった。
ぱったりと、武雄に会えなくなってしまったのである。
確かに悉乃は文信から武雄に会うことを禁止されていたが、そんな言いつけは破る気満々であった。バレなければいいだけのことである。
それなのに、肝心の武雄からの連絡が途絶えてしまったのである。
一度だけ、手紙のやり取りをした。悉乃が、夏休み前の父の非礼を詫びる内容の手紙を先に送った。返ってきたものにはこう書いてあった。
――僕が悉乃さんの友人としてふさわしい人間になるまでは、会わない方がいいと思います。
おそらく武雄は悉乃が思っているよりも文信の言葉を重く受け止めてしまっているのだろう。気にしなくてもいいのに。ということを最初に送った手紙の中でも伝えてあったが、返事が来ることはなかった。
だが次第に、悉乃はこう思うようになった。「会わない方がいい」は方便で、本当はもう、武雄は自分に会いたくないのではないかと。あの一件でやはり関わり合いになりたくない女だと思われたのかもしれない。
考えれば考えるほど、悉乃はきっとそうなのだと確信を強めていった。それでも、半ば怖いもの見たさのような気持ちで武雄が走っていそうな場所に行ってみたが、会えなかった。会えないことに少しほっとしている自分もいた。会って、困ったような顔をされたら。迷惑そうな顔をされたら。東京高師まで行く勇気は、悉乃にはなかった。
***
「悉乃さん、どなたがお好み?」
その日は雨が降っていた。日曜日だというのにどこにも出かけることもできず、悉乃とキヨは部屋で本を読んで過ごしていたのだが、キヨが悉乃の目の前に数冊の雑誌をずらりと並べた。
キヨは最近よく、『映画スタア』『歌舞伎旬報』などといった雑誌を購入していた。その名の通り、映画や歌舞伎の俳優を取り上げており、写真もふんだんに使われている。巷の女学生は、どの俳優が素敵か、見目麗しいか、そんなことで盛り上がっているらしい。
「キヨさん、最近急にこういうの読んでるわよね……」
悉乃はキヨの変化に戸惑いつつも、目の前にあった『映画スタア 十一月号』を手に取りパラパラとめくった。眉目秀麗な男優や女優の写真が目に飛び込んでくる。
「ふふ、お姉さまがね、こういうものは嫁入り前に読み切ってしまいなさいって」
「なるほど……でもキヨさん、山口様、だったかしら? お相手のこと、結構お好きだと言っていたじゃない」
キヨは、夏休みの間に結婚の話がまとまっていた。実際に結婚するのはキヨの卒業まで待ってくれるのだという。相手は財閥系の御曹司で、一目見てキヨの方が気に入ってしまったそうだ。だから、俳優の写真を見て楽しんでいるキヨの気持ちが悉乃には今一つわからなかった。
「それはそれ、これはこれですわ。確かに、山口様との結婚は私も前向きに考えていますけど、今しかできないことは今やっておきませんと」
ほらほら、こちらはどう? と言って、キヨは『男優・女優名鑑 大正八年秋・冬号』を手に取った。
――そうか。キヨさんは。……こうして、私の気を紛らわせようとしてくれているのかもしれないわ。
それは悉乃の勘違いかもしれない。でもそう考えると、少しだけ元気が出る気がした。ありがとう、と言って悉乃は雑誌を受け取った。だがその時、ふと傍に置いてあった今日の朝刊に目が留まった。そういえば、新聞はまだ読んでいなかった。
悉乃の目を引き付けたのは、「東京高師」の文字だった。武雄とは何の関係もないかもしれない。でも、あるかもしれない。
小さな記事だったが、見出しには「東京―日光間往復駅伝本日出発。金栗四三氏、東京高師・独逸学中学学生と併走」と書いてあった。
金栗といえば、確か武雄の話に出てきた、七年前のオリンピック選手であり、武雄の先生である人物であったはずだ。悉乃は、『男優・女優名鑑』を無造作に置くと、新聞を取り上げてじっくりと読んだ。
駅伝というのは、マラソン選手が交代で走って、チームでの勝敗を争う長距離走のことらしい。金栗四三が発案したもので、マラソン選手が走り継いで力を合わせればどんな長距離も走れるという理念に基づいている。今回、武雄の属する東京高師と金栗が教鞭をとっている独協中学の学生がそれぞれチームを作って勝負をしているのだと、記事には書いてあった。ちなみに、金栗はその二チームと並走して一人ですべての区間を走ろうとしているらしい。一人で日光まで走るなんて、悉乃にはちょっと想像がつかなかった。
この「東京高師チーム」の中に武雄がいるかどうかまでは、新聞記事からはわからなかった。でも、走っているにせよ応援するにせよ、きっと武雄は今日光にいるのだろう。心配はいらないと思うが、悉乃は武雄の無事を祈った。
寿退社ならぬ寿退学。それが、女学生の目標であり、名誉であり、ステータスであった。
あの倉橋とその取り巻きも良縁に恵まれ学校を去っていたのは、悉乃にとっては朗報中の朗報であった。先に嫁げて羨ましいという気持ちは微塵もなく、とにかく彼女たちがいなくなってくれたことに対する安心感でいっぱいだった。
こうして悉乃の学校生活には平穏が取り戻されたわけだが、一つだけ、心が晴れない出来事があった。
ぱったりと、武雄に会えなくなってしまったのである。
確かに悉乃は文信から武雄に会うことを禁止されていたが、そんな言いつけは破る気満々であった。バレなければいいだけのことである。
それなのに、肝心の武雄からの連絡が途絶えてしまったのである。
一度だけ、手紙のやり取りをした。悉乃が、夏休み前の父の非礼を詫びる内容の手紙を先に送った。返ってきたものにはこう書いてあった。
――僕が悉乃さんの友人としてふさわしい人間になるまでは、会わない方がいいと思います。
おそらく武雄は悉乃が思っているよりも文信の言葉を重く受け止めてしまっているのだろう。気にしなくてもいいのに。ということを最初に送った手紙の中でも伝えてあったが、返事が来ることはなかった。
だが次第に、悉乃はこう思うようになった。「会わない方がいい」は方便で、本当はもう、武雄は自分に会いたくないのではないかと。あの一件でやはり関わり合いになりたくない女だと思われたのかもしれない。
考えれば考えるほど、悉乃はきっとそうなのだと確信を強めていった。それでも、半ば怖いもの見たさのような気持ちで武雄が走っていそうな場所に行ってみたが、会えなかった。会えないことに少しほっとしている自分もいた。会って、困ったような顔をされたら。迷惑そうな顔をされたら。東京高師まで行く勇気は、悉乃にはなかった。
***
「悉乃さん、どなたがお好み?」
その日は雨が降っていた。日曜日だというのにどこにも出かけることもできず、悉乃とキヨは部屋で本を読んで過ごしていたのだが、キヨが悉乃の目の前に数冊の雑誌をずらりと並べた。
キヨは最近よく、『映画スタア』『歌舞伎旬報』などといった雑誌を購入していた。その名の通り、映画や歌舞伎の俳優を取り上げており、写真もふんだんに使われている。巷の女学生は、どの俳優が素敵か、見目麗しいか、そんなことで盛り上がっているらしい。
「キヨさん、最近急にこういうの読んでるわよね……」
悉乃はキヨの変化に戸惑いつつも、目の前にあった『映画スタア 十一月号』を手に取りパラパラとめくった。眉目秀麗な男優や女優の写真が目に飛び込んでくる。
「ふふ、お姉さまがね、こういうものは嫁入り前に読み切ってしまいなさいって」
「なるほど……でもキヨさん、山口様、だったかしら? お相手のこと、結構お好きだと言っていたじゃない」
キヨは、夏休みの間に結婚の話がまとまっていた。実際に結婚するのはキヨの卒業まで待ってくれるのだという。相手は財閥系の御曹司で、一目見てキヨの方が気に入ってしまったそうだ。だから、俳優の写真を見て楽しんでいるキヨの気持ちが悉乃には今一つわからなかった。
「それはそれ、これはこれですわ。確かに、山口様との結婚は私も前向きに考えていますけど、今しかできないことは今やっておきませんと」
ほらほら、こちらはどう? と言って、キヨは『男優・女優名鑑 大正八年秋・冬号』を手に取った。
――そうか。キヨさんは。……こうして、私の気を紛らわせようとしてくれているのかもしれないわ。
それは悉乃の勘違いかもしれない。でもそう考えると、少しだけ元気が出る気がした。ありがとう、と言って悉乃は雑誌を受け取った。だがその時、ふと傍に置いてあった今日の朝刊に目が留まった。そういえば、新聞はまだ読んでいなかった。
悉乃の目を引き付けたのは、「東京高師」の文字だった。武雄とは何の関係もないかもしれない。でも、あるかもしれない。
小さな記事だったが、見出しには「東京―日光間往復駅伝本日出発。金栗四三氏、東京高師・独逸学中学学生と併走」と書いてあった。
金栗といえば、確か武雄の話に出てきた、七年前のオリンピック選手であり、武雄の先生である人物であったはずだ。悉乃は、『男優・女優名鑑』を無造作に置くと、新聞を取り上げてじっくりと読んだ。
駅伝というのは、マラソン選手が交代で走って、チームでの勝敗を争う長距離走のことらしい。金栗四三が発案したもので、マラソン選手が走り継いで力を合わせればどんな長距離も走れるという理念に基づいている。今回、武雄の属する東京高師と金栗が教鞭をとっている独協中学の学生がそれぞれチームを作って勝負をしているのだと、記事には書いてあった。ちなみに、金栗はその二チームと並走して一人ですべての区間を走ろうとしているらしい。一人で日光まで走るなんて、悉乃にはちょっと想像がつかなかった。
この「東京高師チーム」の中に武雄がいるかどうかまでは、新聞記事からはわからなかった。でも、走っているにせよ応援するにせよ、きっと武雄は今日光にいるのだろう。心配はいらないと思うが、悉乃は武雄の無事を祈った。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル
初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。
義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……!
『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527
の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。
※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。
※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

【架空戦記】蒲生の忠
糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。
明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。
その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。
両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。
一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。
だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。
かくなる上は、戦うより他に道はなし。
信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。
浅葱色の桜
初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。
近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。
「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。
時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。
小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
出雲屋の客
笹目いく子
歴史・時代
短篇です。江戸堀留町の口入屋『出雲屋』は、乳母奉公と養子縁組ばかりを扱う風変わりな口入屋だった。子を失い、横暴な夫に命じられるまま乳母奉公の口を求めて店を訪れた佐和は、女店主の染から呉服商泉屋を紹介される。
店主の市衛門は妻を失い、乳飲み子の香奈を抱えて途方に暮れていた。泉屋で奉公をはじめた佐和は、市衛門を密かに慕うようになっていたが、粗暴な夫の太介は香奈の拐かしを企んでいた。
夫と離縁し、行き場をなくした佐和を、染は出雲屋に雇う。養子縁組の仕事を手伝いながら、佐和は自分の生きる道を少しずつ見つけて行くのだった。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる