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悉乃の過去③
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悉乃が寄宿舎に戻ると、相変わらず自室の扉にはベタベタと貼り紙がしてあった。それをすべて乱暴にはがすと丸めて手に持ち、部屋に入った。
中では、キヨが机に向かっていた。
自分も明日までの宿題が終わっていなかったことを思い出しげんなりしたが、今はそれよりも大事なことがある。
「キヨさん。今、いいかしら」
声をかけられたことに、キヨはひどく驚いたようだった。
「構いませんけれど……」
キヨの前に、悉乃は正座した。
「ごめんなさい」
悉乃は、昼間武雄に話したことと同じ話をした。
自分は妾腹の子で、浅岡の家に引き取られるまでの数年間、絵描きとスリで生計を立てていたのだと。
すべてを聞き終わったキヨは、ぽろぽろと涙を流して、がばっと悉乃に抱き着いた。
「辛かったのね。独りぼっちで。どうして話してくれなかったの」
「キヨさん……だって、嫌われると思って……生きるためとはいえ、スリを働いていたなんて。あなたとは違って、みすぼらしく生きていた。私は皆と違って『本物のお嬢様』じゃないのよ」
「何を言ってるんですの。悉乃さんが、強くて、優しくて、素敵な女性だってこと、私知ってますわ。それでいいじゃない」
悉乃は、胸の奥がじんわりと温かくなるような心地を覚えた。
どうして、この友をもっと信じなかったのだろう。自分を恥じた。
キヨは悉乃から体を話すと、涙で濡れた頬を緩めた。
「それに、こう言うのも何ですけど、スリをしたおかげであなたは浅岡のお家に引き取られて、こうして私と出会ったんですわ。それはそれで、よかった。災い転じて福となすって言うでしょう?」
悉乃は、ぽかんと口を開けてキヨを見た。
「茂上さんと、同じようなことを言うのね」
「茂上さん?」
「あ、いや、なんでも……」
「この前、悉乃さんが助けた人でしたわね?」
「え、ええ、まあ」
「ほうら、スリの経験が人の役に立ったんじゃありませんの。悪い事ばかりじゃないですわ。それにしても、どうして茂上さんの名前が出てくるんですの?」
実は、かくかくしかじか……と悉乃は経緯を説明した。キヨは涙を引っ込め、今度は頬を膨らませた。
「まあ、なんだか心外ですわ。私よりも、会ったばかりの茂上さんにそんな立ち入った話をするなんて」
「だから、ごめんなさい。ほら、その、キヨさんには嫌われたくないって気持ちが先に出てしまったのだけれど、茂上さんなら、元から付き合いの浅い人だから、嫌われても元々……ね?」
「本当にそれだけ?」
「それだけよ」
キヨは、ふっと笑みを浮かべた。この短時間で喜怒哀楽をめまぐるしく駆け巡り、大変だったに違いない。
「悉乃さん、負けないでがんばりましょう。私はいつだって悉乃さんの味方よ」
***
東京高師の寄宿舎で、武雄は夕飯を頬張っていた。
「それで」
秀成が机越しに身を乗り出してきた。
「何が?」
「何が? じゃないよ。例の小石川高女の、浅岡さん? 逢引きしたんだろう?」
「な、別に、逢引きなんかじゃなか! 悉乃さんが、その、ちょっとお友達とぎくしゃくしてしまったって言うから、気分転換の話し相手になっただけとね」
「ふうん。でも、悉乃さん、って下の名前で呼んでるじゃないか」
「別にどっちだってよかとね。『あさおか』より『つくの』の方が文字数が少なくて呼びやすいだけのことだよ」
「へえ。それで。もう会わないのかい?」
「うーん」
武雄は急に歯切れが悪くなって、ちびちびと米の塊を口に運んでいった。
「一応、また会おうとは言ったけれど、もう来ないかもしれない」
「どうして」
「僕の役目は、終わったんだ」
武雄は味噌汁をずずっと飲み干すと、立ち上がって食器を重ねた。
「それじゃあヒデちゃん、明日も朝練で早いから、先に戻るね」
「えっ、おい話の途中じゃないか!」
秀成が止めるのも聞かず、武雄はさっさと食器を片付けて食堂を出ていってしまった。
自室に戻りながら、武雄は先ほど自分で言ったことについてぼんやり考えていた。
恐らく、悉乃は次の日曜日には川原に来ないだろう。キヨと仲直りして、洋食屋や活動写真館に出かけるかもしれない。
それならそれがいい。それでよかった。
その思いとは裏腹に、少しだけ寂しさが去来した。
中では、キヨが机に向かっていた。
自分も明日までの宿題が終わっていなかったことを思い出しげんなりしたが、今はそれよりも大事なことがある。
「キヨさん。今、いいかしら」
声をかけられたことに、キヨはひどく驚いたようだった。
「構いませんけれど……」
キヨの前に、悉乃は正座した。
「ごめんなさい」
悉乃は、昼間武雄に話したことと同じ話をした。
自分は妾腹の子で、浅岡の家に引き取られるまでの数年間、絵描きとスリで生計を立てていたのだと。
すべてを聞き終わったキヨは、ぽろぽろと涙を流して、がばっと悉乃に抱き着いた。
「辛かったのね。独りぼっちで。どうして話してくれなかったの」
「キヨさん……だって、嫌われると思って……生きるためとはいえ、スリを働いていたなんて。あなたとは違って、みすぼらしく生きていた。私は皆と違って『本物のお嬢様』じゃないのよ」
「何を言ってるんですの。悉乃さんが、強くて、優しくて、素敵な女性だってこと、私知ってますわ。それでいいじゃない」
悉乃は、胸の奥がじんわりと温かくなるような心地を覚えた。
どうして、この友をもっと信じなかったのだろう。自分を恥じた。
キヨは悉乃から体を話すと、涙で濡れた頬を緩めた。
「それに、こう言うのも何ですけど、スリをしたおかげであなたは浅岡のお家に引き取られて、こうして私と出会ったんですわ。それはそれで、よかった。災い転じて福となすって言うでしょう?」
悉乃は、ぽかんと口を開けてキヨを見た。
「茂上さんと、同じようなことを言うのね」
「茂上さん?」
「あ、いや、なんでも……」
「この前、悉乃さんが助けた人でしたわね?」
「え、ええ、まあ」
「ほうら、スリの経験が人の役に立ったんじゃありませんの。悪い事ばかりじゃないですわ。それにしても、どうして茂上さんの名前が出てくるんですの?」
実は、かくかくしかじか……と悉乃は経緯を説明した。キヨは涙を引っ込め、今度は頬を膨らませた。
「まあ、なんだか心外ですわ。私よりも、会ったばかりの茂上さんにそんな立ち入った話をするなんて」
「だから、ごめんなさい。ほら、その、キヨさんには嫌われたくないって気持ちが先に出てしまったのだけれど、茂上さんなら、元から付き合いの浅い人だから、嫌われても元々……ね?」
「本当にそれだけ?」
「それだけよ」
キヨは、ふっと笑みを浮かべた。この短時間で喜怒哀楽をめまぐるしく駆け巡り、大変だったに違いない。
「悉乃さん、負けないでがんばりましょう。私はいつだって悉乃さんの味方よ」
***
東京高師の寄宿舎で、武雄は夕飯を頬張っていた。
「それで」
秀成が机越しに身を乗り出してきた。
「何が?」
「何が? じゃないよ。例の小石川高女の、浅岡さん? 逢引きしたんだろう?」
「な、別に、逢引きなんかじゃなか! 悉乃さんが、その、ちょっとお友達とぎくしゃくしてしまったって言うから、気分転換の話し相手になっただけとね」
「ふうん。でも、悉乃さん、って下の名前で呼んでるじゃないか」
「別にどっちだってよかとね。『あさおか』より『つくの』の方が文字数が少なくて呼びやすいだけのことだよ」
「へえ。それで。もう会わないのかい?」
「うーん」
武雄は急に歯切れが悪くなって、ちびちびと米の塊を口に運んでいった。
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「どうして」
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「えっ、おい話の途中じゃないか!」
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自室に戻りながら、武雄は先ほど自分で言ったことについてぼんやり考えていた。
恐らく、悉乃は次の日曜日には川原に来ないだろう。キヨと仲直りして、洋食屋や活動写真館に出かけるかもしれない。
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