疾風の往く道

初音

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お礼③

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 まだ今ひとつピンと来てはいなかったが、よく見ると、マラソンのことを熱く語る武雄の目は子供のようにキラキラとしていて、嬉しそうで。悉乃はなんだか可笑しくなって笑みを零した。

「えっ? なんですか?」

 今の、笑うところ? とでも言わんばかりに武雄が驚くので、悉乃は「すみません」と謝った。

「茂上さん、マラソンが本当にお好きなんだなって思って。なんだか微笑ましくなっちゃって。そういう楽しめるものがあるのって、羨ましいです」
「悉乃さんは、ないんですか? 何か、楽しいもの」
「私は――」

 多くの女学生と同じく、学校で教養を身に着けて、親の決めた”いいところ”へお嫁に行く。
 悉乃の前に用意されているのは、それだけだ。

「ありません。毎日学校で勉強して。お休みの日に活動写真を見に行くこともありますけど、そんなに頻繁に行くわけでもありませんし……あ、でも」
「何ですか?」
「自転車に乗るのは好きです。学校に貸し出し用の自転車があって。それで近所を走ったりしています」

 自転車なんて、ただの交通手段だと思っていた。けれど、思い起こせば、自転車で風を切るのも、びゅんと過ぎていく景色を見るのも、好きだった。

 ――ああ、なんだか、わかる気がする。

「それなら、同じですね! 僕は足で、悉乃さんは自転車で。走るのが好きな者同士だ!」

 嬉しそうに話す武雄に、悉乃も思わず笑顔になった。笑うのは久しぶりだということに、気づいた。


 
 それから二人は二つ三つ世間話をして、別れを告げた。

「ありがとうございました。いい気分転換になりました」
「いやあ、お礼を言うのはこっちの方――ああっ」

 武雄は再び今日最初に見せたような「しまった」という顔をした。

「すみません。僕、その、いろいろ考えたんですけど、悉乃さんみたいなお嬢様学校の人に喜んでもらえるお礼って何したらよかってわからなくて……」
「先ほども言いましたけど、お礼なら構わないでください。今こうしてお話できて、楽しかったですから。それで十分です」

 悉乃は踵を返し、帰ろうとした。が、振り返って武雄を見た。

「茂上さん」
「何ですか?」
「また、会ってもらえませんか?」
「それは別に構いませんけど」

 武雄はなぜ? という表情を浮かべていたが、悉乃は気づかないふりをした。

「ここにはよく来るんですの?」
「えっ? ああ、そうですね。トレーニングの合間に休みがてら……」
「そう。では、来週の日曜日、またここに来ますわ」
「うん。そしたら同じ時間に、また」

 二人はこうして、待ち合わせの約束をして分かれた。

 寄宿舎へは、市電で二駅。
 悉乃は窓から見える夕焼けをぼんやり眺めていたが、ハッと我に返った。
 
 ――私、とんでもない申し出を……

 これは、いわゆる逢引きの申し出ではないのか。
 悉乃は俄かに顔を赤らめた。少し冷たい自分の手を頬に当て、落ち着かせる。
 否、別に、特段なんとも思っていないのだから、これは逢引きではない。
 悉乃は自分に言い聞かせた。
 やがて市電は駅に着き、悉乃は重い足取りで寄宿舎へと戻っていった。


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