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お礼②
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あっ、と悉乃は声を出した。声に気づいた先客は悉乃の方を見ると「やばい」という顔をした。
茂上武雄であった。
「茂上さん、あの! 話を聞いてください!」
また逃げられる前に、悉乃はそう頼みこんだ。武雄は観念したようにこくこくと頷くと、悉乃が隣に腰掛けるのを黙って見つめた。
「話って、何ですか……?」
「あの、何か誤解していませんか? 私、あなたに謝られることなんか何も……」
「ばってん……」
「ばってん?」
「あ、つい訛りが出てしまいました。えーと、その、僕がお礼をしますと言っておきながら、何もしていないのに怒ったのでは……?」
「なっ、私そんなに図々しくありませんわ! お礼の催促だなんて。たった一週間前の出来事ですし、最初からお礼なんか」
「そんなら、なして悉乃さんが僕のところに?僕の方から出向くならまだしも……」
ばってん、がきっかけになったのか、武雄の言葉には方言が混じるようになった。よく聞いてみれば、抑揚も東京の人間と少し違う。そもそも、前に会った時はろくな会話もしていなかったことに悉乃は気づいた。
「どこのお国言葉なんですの?」
「え?」
「ばってん、とか、なして、とか」
ああ、と武雄は少し恥ずかしそうな表情を浮かべて俯いた。
「熊本です。こっちに来てだいぶ訛らなくなってきたと思ってたんですけど、ふとした時に出てしまうんですよね」
「熊本から、わざわざ東京高師へ?」
「ええ。高師は、熊本で出張入試をしてくれるんです。それで、金栗先生に憧れて受験したっていうわけで。先生は、高師の出身ですから」
「かなくり先生?」
武雄は、ぽかんと口を開けたきり言葉を失ってしまった様子であった。その顔には、「金栗先生を知らない?」とはっきり書いてあった。
「ごめんなさい、私、存じ上げなくて……」
悉乃が言うと、武雄は「いや、まあそうですよね」と頷いた。
「七年前、スウェーデンのストックホルムであったオリンピックに金栗先生は日本人として初めて出場したとです。結果こそ残せませんでしたが、外国人相手に立派に戦われました。金栗先生ば、熊本の誇りです。僕も、いつかああいうマラソン選手になりたかーと思って、日々トレーニングしてます。しかも、金栗先生が時々徒歩部に指導にきてくださるんです!」
武雄はぺらぺらと話してのけたが、悉乃にとっては知らないカタカナ語満載で話の半分もわからなかった。なんだか申し訳ない気持ちになりながらも、悉乃は黙りこんでしまった。
「ああ、もうすみません。つい早口で……」
「いえ、そうではなくて……その、私疎くて……オリンなんとかとか、トレーニングとか」
武雄は、どこから説明しようかと言わんばかりに眉間に皺を寄せたが、ひとつひとつ丁寧に説明してくれた。
オリンピックとは、世界中――とは言っても欧米列強の国々に限られるが――から若者が集まり、技を競う平和の祭典であるらしい。四年に一度開催されるはずだが、三年前のベルリン大会は戦争で中止になってしまったそうだ。
武雄は、七年前に初めて参加した金栗四三《かなくりしそう》という先生に指導を仰ぎ、日々トレーニングすなわちマラソンの練習に励んでいるという。
「来年か、そのまた四年後か。僕は、オリンピックに出たかと思っています。大好きなマラソンで、世界中の選手と走って。そして、日本人だって、ここまでやれるんだって、証明してみたかです」
壮大な話だった。世界中の選手と――。
日本の外に出るというのを想像すらしたことない悉乃にとって、まさしく別世界のことのように思えた。
「すごい。大きな夢ですわね……」
嘆息混じりに、そう言うしかなかった。
「はい。だから今は、走って走って走りまくるんです。あれ、でも悉乃さん、マラソンは知ってるみたいですね」
「え?」
「だって、そこは説明しなくても理解しているみたいでしたから……」
悉乃は、「ああ」と一人手を打った。
「ええ。前に、偶然見かけましたわ」
それで、あなたを見た。しかも似顔絵まで書いてしまった、とは悉乃はなんとなく言い出せなかった。
言い淀む悉乃の様子を見て、武雄は不思議そうな顔をした。
「ただ走るだけの何が楽しいのかって、思いますか?」
黙り込む悉乃を見て、武雄はそんな風に思ったらしい。
「いえ、そういうわけでは……」
悉乃は否定するも、なおその後の言葉が見つからない。それを見て、武雄は「いいんです」と切り出した。
「まだまだ、そんな風に思うとる人も大勢おりますから、悉乃さんもそうならそれで構いません。けど、マラソンは、スポーツは、鍛錬、とか、修行とか、そういうちょっと苦しい印象のものではなくて、楽しいものなんです」
茂上武雄であった。
「茂上さん、あの! 話を聞いてください!」
また逃げられる前に、悉乃はそう頼みこんだ。武雄は観念したようにこくこくと頷くと、悉乃が隣に腰掛けるのを黙って見つめた。
「話って、何ですか……?」
「あの、何か誤解していませんか? 私、あなたに謝られることなんか何も……」
「ばってん……」
「ばってん?」
「あ、つい訛りが出てしまいました。えーと、その、僕がお礼をしますと言っておきながら、何もしていないのに怒ったのでは……?」
「なっ、私そんなに図々しくありませんわ! お礼の催促だなんて。たった一週間前の出来事ですし、最初からお礼なんか」
「そんなら、なして悉乃さんが僕のところに?僕の方から出向くならまだしも……」
ばってん、がきっかけになったのか、武雄の言葉には方言が混じるようになった。よく聞いてみれば、抑揚も東京の人間と少し違う。そもそも、前に会った時はろくな会話もしていなかったことに悉乃は気づいた。
「どこのお国言葉なんですの?」
「え?」
「ばってん、とか、なして、とか」
ああ、と武雄は少し恥ずかしそうな表情を浮かべて俯いた。
「熊本です。こっちに来てだいぶ訛らなくなってきたと思ってたんですけど、ふとした時に出てしまうんですよね」
「熊本から、わざわざ東京高師へ?」
「ええ。高師は、熊本で出張入試をしてくれるんです。それで、金栗先生に憧れて受験したっていうわけで。先生は、高師の出身ですから」
「かなくり先生?」
武雄は、ぽかんと口を開けたきり言葉を失ってしまった様子であった。その顔には、「金栗先生を知らない?」とはっきり書いてあった。
「ごめんなさい、私、存じ上げなくて……」
悉乃が言うと、武雄は「いや、まあそうですよね」と頷いた。
「七年前、スウェーデンのストックホルムであったオリンピックに金栗先生は日本人として初めて出場したとです。結果こそ残せませんでしたが、外国人相手に立派に戦われました。金栗先生ば、熊本の誇りです。僕も、いつかああいうマラソン選手になりたかーと思って、日々トレーニングしてます。しかも、金栗先生が時々徒歩部に指導にきてくださるんです!」
武雄はぺらぺらと話してのけたが、悉乃にとっては知らないカタカナ語満載で話の半分もわからなかった。なんだか申し訳ない気持ちになりながらも、悉乃は黙りこんでしまった。
「ああ、もうすみません。つい早口で……」
「いえ、そうではなくて……その、私疎くて……オリンなんとかとか、トレーニングとか」
武雄は、どこから説明しようかと言わんばかりに眉間に皺を寄せたが、ひとつひとつ丁寧に説明してくれた。
オリンピックとは、世界中――とは言っても欧米列強の国々に限られるが――から若者が集まり、技を競う平和の祭典であるらしい。四年に一度開催されるはずだが、三年前のベルリン大会は戦争で中止になってしまったそうだ。
武雄は、七年前に初めて参加した金栗四三《かなくりしそう》という先生に指導を仰ぎ、日々トレーニングすなわちマラソンの練習に励んでいるという。
「来年か、そのまた四年後か。僕は、オリンピックに出たかと思っています。大好きなマラソンで、世界中の選手と走って。そして、日本人だって、ここまでやれるんだって、証明してみたかです」
壮大な話だった。世界中の選手と――。
日本の外に出るというのを想像すらしたことない悉乃にとって、まさしく別世界のことのように思えた。
「すごい。大きな夢ですわね……」
嘆息混じりに、そう言うしかなかった。
「はい。だから今は、走って走って走りまくるんです。あれ、でも悉乃さん、マラソンは知ってるみたいですね」
「え?」
「だって、そこは説明しなくても理解しているみたいでしたから……」
悉乃は、「ああ」と一人手を打った。
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それで、あなたを見た。しかも似顔絵まで書いてしまった、とは悉乃はなんとなく言い出せなかった。
言い淀む悉乃の様子を見て、武雄は不思議そうな顔をした。
「ただ走るだけの何が楽しいのかって、思いますか?」
黙り込む悉乃を見て、武雄はそんな風に思ったらしい。
「いえ、そういうわけでは……」
悉乃は否定するも、なおその後の言葉が見つからない。それを見て、武雄は「いいんです」と切り出した。
「まだまだ、そんな風に思うとる人も大勢おりますから、悉乃さんもそうならそれで構いません。けど、マラソンは、スポーツは、鍛錬、とか、修行とか、そういうちょっと苦しい印象のものではなくて、楽しいものなんです」
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