疾風の往く道

初音

文字の大きさ
上 下
6 / 37

お礼②

しおりを挟む
 あっ、と悉乃は声を出した。声に気づいた先客は悉乃の方を見ると「やばい」という顔をした。
 茂上武雄であった。

「茂上さん、あの! 話を聞いてください!」

 また逃げられる前に、悉乃はそう頼みこんだ。武雄は観念したようにこくこくと頷くと、悉乃が隣に腰掛けるのを黙って見つめた。

「話って、何ですか……?」
「あの、何か誤解していませんか? 私、あなたに謝られることなんか何も……」
「ばってん……」
「ばってん?」
「あ、つい訛りが出てしまいました。えーと、その、僕がお礼をしますと言っておきながら、何もしていないのに怒ったのでは……?」
「なっ、私そんなに図々しくありませんわ! お礼の催促だなんて。たった一週間前の出来事ですし、最初からお礼なんか」
「そんなら、なして悉乃さんが僕のところに?僕の方から出向くならまだしも……」

 ばってん、がきっかけになったのか、武雄の言葉には方言が混じるようになった。よく聞いてみれば、抑揚も東京の人間と少し違う。そもそも、前に会った時はろくな会話もしていなかったことに悉乃は気づいた。 

「どこのお国言葉なんですの?」
「え?」
「ばってん、とか、なして、とか」

 ああ、と武雄は少し恥ずかしそうな表情を浮かべて俯いた。 

「熊本です。こっちに来てだいぶ訛らなくなってきたと思ってたんですけど、ふとした時に出てしまうんですよね」
「熊本から、わざわざ東京高師へ?」
「ええ。高師は、熊本で出張入試をしてくれるんです。それで、金栗先生に憧れて受験したっていうわけで。先生は、高師の出身ですから」
「かなくり先生?」

 武雄は、ぽかんと口を開けたきり言葉を失ってしまった様子であった。その顔には、「金栗先生を知らない?」とはっきり書いてあった。

「ごめんなさい、私、存じ上げなくて……」

 悉乃が言うと、武雄は「いや、まあそうですよね」と頷いた。

「七年前、スウェーデンのストックホルムであったオリンピックに金栗先生は日本人として初めて出場したとです。結果こそ残せませんでしたが、外国人相手に立派に戦われました。金栗先生ば、熊本の誇りです。僕も、いつかああいうマラソン選手になりたかーと思って、日々トレーニングしてます。しかも、金栗先生が時々徒歩部に指導にきてくださるんです!」

 武雄はぺらぺらと話してのけたが、悉乃にとっては知らないカタカナ語満載で話の半分もわからなかった。なんだか申し訳ない気持ちになりながらも、悉乃は黙りこんでしまった。

「ああ、もうすみません。つい早口で……」
「いえ、そうではなくて……その、私疎くて……オリンなんとかとか、トレーニングとか」

 武雄は、どこから説明しようかと言わんばかりに眉間に皺を寄せたが、ひとつひとつ丁寧に説明してくれた。

 オリンピックとは、世界中――とは言っても欧米列強の国々に限られるが――から若者が集まり、技を競う平和の祭典であるらしい。四年に一度開催されるはずだが、三年前のベルリン大会は戦争で中止になってしまったそうだ。

 武雄は、七年前に初めて参加した金栗四三《かなくりしそう》という先生に指導を仰ぎ、日々トレーニングすなわちマラソンの練習に励んでいるという。

「来年か、そのまた四年後か。僕は、オリンピックに出たかと思っています。大好きなマラソンで、世界中の選手と走って。そして、日本人だって、ここまでやれるんだって、証明してみたかです」

 壮大な話だった。世界中の選手と――。
 日本の外に出るというのを想像すらしたことない悉乃にとって、まさしく別世界のことのように思えた。

「すごい。大きな夢ですわね……」

 嘆息混じりに、そう言うしかなかった。

「はい。だから今は、走って走って走りまくるんです。あれ、でも悉乃さん、マラソンは知ってるみたいですね」
「え?」
「だって、そこは説明しなくても理解しているみたいでしたから……」

 悉乃は、「ああ」と一人手を打った。

「ええ。前に、偶然見かけましたわ」

 それで、あなたを見た。しかも似顔絵まで書いてしまった、とは悉乃はなんとなく言い出せなかった。
 言い淀む悉乃の様子を見て、武雄は不思議そうな顔をした。

「ただ走るだけの何が楽しいのかって、思いますか?」

 黙り込む悉乃を見て、武雄はそんな風に思ったらしい。

「いえ、そういうわけでは……」

 悉乃は否定するも、なおその後の言葉が見つからない。それを見て、武雄は「いいんです」と切り出した。

「まだまだ、そんな風に思うとる人も大勢おりますから、悉乃さんもそうならそれで構いません。けど、マラソンは、スポーツは、鍛錬、とか、修行とか、そういうちょっと苦しい印象のものではなくて、楽しいものなんです」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル

初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。 義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……! 『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527 の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。 ※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。 ※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

【架空戦記】蒲生の忠

糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。 明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。 その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。 両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。 一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。 だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。 かくなる上は、戦うより他に道はなし。 信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。

浅葱色の桜

初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。 近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。 「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。 時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。 小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。

出雲屋の客

笹目いく子
歴史・時代
短篇です。江戸堀留町の口入屋『出雲屋』は、乳母奉公と養子縁組ばかりを扱う風変わりな口入屋だった。子を失い、横暴な夫に命じられるまま乳母奉公の口を求めて店を訪れた佐和は、女店主の染から呉服商泉屋を紹介される。 店主の市衛門は妻を失い、乳飲み子の香奈を抱えて途方に暮れていた。泉屋で奉公をはじめた佐和は、市衛門を密かに慕うようになっていたが、粗暴な夫の太介は香奈の拐かしを企んでいた。 夫と離縁し、行き場をなくした佐和を、染は出雲屋に雇う。養子縁組の仕事を手伝いながら、佐和は自分の生きる道を少しずつ見つけて行くのだった。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

ロクスタ〜ネロの愛した毒使い〜

称好軒梅庵
歴史・時代
ローマ帝国初期の時代。 毒に魅入られたガリア人の少女ロクスタは、時の皇后アグリッピーナに見出され、その息子ネロと出会う。 暴君と呼ばれた皇帝ネロと、稀代の暗殺者である毒使いロクスタの奇妙な関係を描く歴史小説。

処理中です...