疾風の往く道

初音

文字の大きさ
上 下
2 / 37

きっかけ

しおりを挟む
 小石川高等女学校の生徒は、集団生活を学ぶためにと、全員が寄宿舎で寝起きしていた。寄宿舎の門限は厳しく定められていて遅くまで外出することはできなかったが、日曜日だけは町に出て活動写真や芝居を観たりすることが許されていた。

 とある日曜日、悉乃とキヨは市電に乗って浅草に出かけていた。車内は老若男女がひしめき合っていたが、悉乃とキヨは幸い空いた座席に座ることができていた。

「ねえ、この前の授業。悉乃さんがあんなに人相書きがお上手だったなんて。絵は苦手だと言っていたのに」

 キヨが何気なく疑問を投げかけた。

「風景画は、苦手なの。人には得意不得意がありますものね」

 悉乃は飄々として答えた。それ以上この話が続かないように、悉乃は次週の宿題のことに話題を変えた。

 市電が駅に着き、ガタン、と音を立てて止まった。ガヤガヤと人が降り、また乗ってくる。その中にいた人物に、悉乃は目を見張った。

 間違いない。自分が勝手に肖像画を描いたあのマラソンの男だった。友人と一緒のようだ。

 よく見ると、よほど普段から走っているのだろう。比較的華奢な上半身に似合わず、太い脚にはしっかりと筋肉がついているようで、着ている学生服のズボンはきつそうだ。顔や手は日焼けしていて浅黒い。歳は悉乃とそうは変わらないだろう。

 キヨに例の男が乗ってきたと言おうかどうか、悉乃は迷った。そもそも、あの一瞬顔を見ただけで、本当に同じ人だと言えるのかしら? 懸念も頭をよぎる。

 悉乃は、様子を見守ることにした。どこまで行くんだろう。ここから乗ってくるということは、近くに住んでいるのかしら。いろいろと考えを巡らせていたが、目に飛び込んできた光景で、我に返った。

「あっ」
「悉乃さん?」

 思わず声を出した悉乃を、キヨが不思議そうに見る。

「あれ」

 悉乃は男の方を指した。右隣にいる四十がらみの男に、彼は気づいていない。左隣に立つ友人と談笑している。

「あの人がどうかしたんですの?」
「あの右端の男の人、あれは……」

 あれは、るわ。
 そう言おうとして、悉乃は口ごもった。
 一瞬、迷った。が、見過ごすわけにもいかない。
 悉乃は席を立ち、そっと男の背後に近づいた。

 案の定、右端の男は手を左に伸ばし、左隣に立つ男のズボンのポケットに手を伸ばした。そして、一瞬で財布を手にし、自身の懐に入れた。その腕を、悉乃は抑えた。

「う、うわ、女、何をする!」

 男はわめいた。振り向けば、汚いひげ面が悉乃の前に現れた。

「何をする、はこちらの台詞ですわ。今、この人の財布を掏りましたよね? 出しなさい」
「なんだと!? 言いがかりつけると警察に突き出すぞ」

 その時、「うわっ! 本当だ! 財布がない!」と掏られた側の男の声がした。
 悉乃は初めて男の顔をまじまじと見た。人の良さそうな顔だ。この前走っていた時の真剣な表情ともまた違う。

「なんだ、お前まで因縁つけんのか!」

 スリ犯はいよいよ頭に血が上ったようだった。

 今や三人の周りには空間が空き、乗客たちは遠巻きにその様子を見ている。

「悉乃さん!」
 
 キヨの声がする頃には、スリは拳を振り上げていた。

 殴られる、と悉乃は目を瞑った。だが、五秒たっても十秒たっても殴られた感触はなかった。
 恐る恐る目を開けると、掏られた男がスリの手首をつかんでいた。

「僕の恩人です。手荒な真似はやめてください。それと、財布、返してくれませんか」

 にっこりと笑う男に、スリ犯はすっかり戦意を喪失したのか、へなへなと膝から崩れ落ちた。

 それから、悉乃とキヨ、男とその友人の四人は次の停留所で降りて近くの警察署にスリ犯を突き出した。
 突き出したらそれで終わりというわけではなく、調書を作るのに必要だからと、四人はそれぞれ別室で名前や住所などの情報を話した。特に、スリ犯を捕まえた悉乃と被害者の男は時間をかけて警察官と話す羽目になった。


 やっと解放された時には、すでに一時間近くが経過していた。

「本当にありがとうございました。あなたが見つけてくれなかったら、帰りの電車賃もなくなって、走って帰らないといけなくなるところでした」

 被害者の男は深々と頭を下げた。

「あの、走るの、お好きなんですか?」

 悉乃は思わず尋ねた。

 ちょっと悉乃さん、とキヨが小声でたしなめた。キヨにしてみれば、交通費を掏られて危うく走らざるを得なくなりかけた人に尋ねる質問ではないというわけだろう。
 だが、男はくしゃっとした笑顔で

「よくわかりましたね! 僕は徒歩部(陸上部)に入るくらい、走るのが好きなんです!」

 と答えた。

「そうだ。今度何かお礼させてください。そういえば、お名前もまだ聞いてませんでした。女学生さんですか?」
「浅岡悉乃、と申します。小石川高女です。こちらこそ、助けていただいてありがとうございました。あのまま殴られていたところでした」
「とんでもない」
「あ、あなたの、お名前は……」

 悉乃は尋ね返した。名前を聞くだけなのに、なんだかとても重大な秘密を聞き出すような気がして、心臓がはっきりと脈打つのを感じた。

茂上武雄もがみたけおといいます。東京高師の本科生です」

 男はそう名乗り、子供のように笑った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

蘭癖高家

八島唯
歴史・時代
 一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。  遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。  時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。  大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを―― ※挿絵はAI作成です。

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず
歴史・時代
平安時代末期。 源氏の御曹司、源義朝の乳母子、鎌田正清のもとに13才で嫁ぐことになった佳穂(かほ)。 一回りも年上の夫の、結婚後次々とあらわになった女性関係にヤキモチをやいたり、源氏の家の絶えることのない親子、兄弟の争いに巻き込まれたり……。 悩みは尽きないものの大好きな夫の側で暮らす幸せな日々。 しかし、時代は動乱の時代。 「保元」「平治」──時代を大きく動かす二つの乱に佳穂の日常も否応なく巻き込まれていく。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル

初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。 義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……! 『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527 の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。 ※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。 ※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。

獅子の末裔

卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。 和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。 前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部

山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。 これからどうかよろしくお願い致します! ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。

処理中です...