疾風の往く道

初音

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一瞬の邂逅

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 浅岡悉乃あさおかつくのが初めて彼を見たのは、上野だった。
 満開の桜が咲き誇る、うららかな春の日差しが降りそそぐ日だった。


 悉乃の通う小石川高等女学校は、全国から良家の娘が集まるお嬢様学校だった。国語や数学だけでなく、料理に裁縫。どこに出しても恥ずかしくない教養を身につけ、良妻賢母になるための授業を生徒たちは日々受けている。

 この日は、芸術の授業で上野公園を訪れていた。お花見も兼ねて桜の観察、スケッチをするという課題が出ていた。
 ずらりと遠くまで続く桜並木の下を歩きながら、悉乃のクラスメイトたちは感嘆の溜息を漏らした。

「壮観ねえ」
「今年はまた一段ときれいね」
 
 悉乃はそんな彼女たちを少し遠巻きに、景色の一部であるかのように見つめていた。皆が身に着けている様々な色柄のあわせに袴。桜色と合わさると、目にも鮮やかで思わず見惚れてしまう。そして、自分の着ている着物に目をやった。仕立てのよい着物ではあるが、地味な深緑色をした矢絣の袷、海老茶色の袴に黒のブーツ。昨今の女学生として、判で押したような装いである。もっとおしゃれをしてみたい気持ちがないわけではないが、自分にはそんな資格はないという思いが歯止めをかけていた。

「本当にすごいわ」

 隣に立つ鹿嶋キヨも、ほれぼれと桜を見上げていた。悉乃の友人で寄宿舎のルームメイトでもあるキヨは「女学校に入るまで家の敷地からほとんど出たことがなかった」という文字通りの箱入り娘らしく、品のよい花柄の袷に美しい刺繍の入った袴を穿いている。

 早く取り掛かりなさい、という先生の声にぎくりとした生徒たちは、めいめい桜の近くでスケッチを始めた。さっさっと軽快な音を立てて、桜の木や花を描いていく。悉乃とキヨも適当な場所に用意を設え、鉛筆を握った。しかし悉乃は周りをちらちら見やりつつ、スケッチブックにぽつぽつと点を打つことしかできなかった。風景画は苦手なのだ。皆食事をするかの如く鉛筆を走らせているが、悉乃にはできない芸当だった。
 落ち着け、深呼吸だ。だが、そんなことをしても描けるはずがない。
 やがて、悉乃はすっくと立ちあがった。

「悉乃さん?」

 キヨが不思議そうに悉乃を見上げた。悉乃はスケッチの道具をその場に残し

「私、気分転換に少し歩いてきますわ」

 と答えた。

「駄目よ! 先生に見つかったら減点されますわよ」
「先生なら今あちらを見ているから大丈夫。すぐ戻りますから。ねっ?」

 悉乃は口元に人差し指を立て、いたずらっぽく笑うと歩き出した。



 ほんのり暖かい風が、そよそよと気持ちいい。長い下げ髪と大きなリボンをなびかせながら、悉乃は軽快な足取りで歩いた。

「悉乃さん、待って」

 振り返ると、キヨが小走りでついてきていた。に結った髪にいっさい乱れはないが、本人ははっはっと息を切らせている。
 
「悉乃さんてば、足の速いこと」
「そんなこと」

 悉乃は謙遜したが、内心では他のクラスメイトたちよりもいくらか健脚であるという自負があった。もっともその理由を話すつもりは毛頭ない。

「キヨさん、戻って。見つかったら一緒に怒られてしまいますわよ」
「けれど、ひとりで行かせるわけにもいきませんわ。皆絵を描くのに夢中だから大丈夫」

 悉乃は友を道連れにすることに少し胸を痛めたが、こうして来てくれたことが嬉しくもあり、再度戻るよう促すかどうか迷った。だがその時

「あら、何かしら」
 
 とキヨが公園の外を見やった。確かに、なんだか騒がしい。ここで完全に好奇心が勝ち、悉乃とキヨは往来へ出た。
 
 道端には人だかりができていて、それ以上先に進むことはできなかった。 
 
「あの、これは何か始まるんですの?」

 悉乃はたまたま目の前に立っていた中年の男性に尋ねた。

「なんでも、マラソンがここを通るんだとよ。それで、みんな端に寄れってさっきからお触れが出てるんだ」
「マラソン?」
「なんだ、お嬢ちゃん知らないのか。いつだったっけかな……そうそう、明治が大正になった年だから、ちょうど七年前か。オリンピックってのに選手が出てっただろ。そいつの名前は忘れちまったがな。とにかく、マラソンってーのは昔の言葉で言えば遠足とおあしすなわち長距離を走って速さを競うかけっこみたいなもんだ」
「まあ」

 たかがかけっこのために道を空けなければいけないのかと、そういう意味で悉乃は驚きの声を漏らした。

「来たぞ」

 男性が声を弾ませた。皆の視線が向く方向を悉乃とキヨも見やった。

 白い上下の運動着に身を包んだ男たちが、遠くから走ってくる。

 人影は段々大きくなり、悉乃から数メートルのところまで迫ってきた。

 悉乃は先頭を走る男を見た。

 先頭を走っているくらいだから、足の速い男であることは明白なのだが、悉乃には時が止まったように思えた。

 男の顔が、パッと目に留まった。

 事実、ほんの一瞬、時間にして一秒。
 すぐに通り過ぎてしまったが、なぜか、その男の表情が瞼の裏に焼き付いた。

 そうだ、と悉乃は手を打った。



 公園に戻ると、悉乃とキヨはもちろん先生の大目玉を食らった。

「鹿嶋さんはまだしも、浅岡さんはまだ何も描いていないじゃないですか! それなのにフラフラと!」
「ごめんなさい、先生。私、必ず絵を完成させてみせます」

 何をどう描くか。
 それを決めたら、悉乃の筆は速かった。

 宣言通り時間内にスケッチを完成させた悉乃は、先生にこう説明した。

「授業で見たもののスケッチだということだったので。桜でなければいけない理由はございませんでしょう」

 先生は、ぐぬぬと口を結んだがやがて苦々し気に「可、としましょう」と言った。

 悉乃のスケッチブックには、あのマラソンで先頭を走っていた男が描かれていた。






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