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思いを遂げる③

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 妾宅に通いで来ていた女中・美代からの知らせを受けてさくらと歳三が駆けつけた時、菊は本当にいなくなってしまったのだと認めざるを得なかった。最低限の着物や、金になりそうなものがなくなっていた。
 菊はどこへ行ってしまったのか。手がかりになるものはないかと探していると、手紙が見つかった。
 ――突然、この家を出る無礼をお許しください。
 そんな書き出しから始まり、要約すると「自分のような卑しい遊女上がりの女では、幕臣になったあなたの傍にいるわけにはいきません。歳久と二人、質素に生きていきます」ということが綴られていた。
 手紙の後半では、歳三だけでなくさくらに対しても、今までの感謝と今後の武運を祈るという旨が書いてあった。
 そして、追伸として一言意味深に書き添えてあった。
 ――ご自分の思いを遂げられますよう。
 日付は、二日前のものだった。新選組が幕臣に取り立てられ「思いを遂げる」ことはすでに叶っているというのに、菊がそんなことを書く理由がさくらにはわからなかった。歳三も同じ気持ちなのか、眉間に皺を寄せて首を傾げている。
「どうしよう。ひとまず、探しに行った方が」
「ああ、そうしてくれ。だが、見つからなければ、それでもいい」
「な、なぜだ……!」
「ちょうどいいだろ。表向き、ここに住んでいたのは島崎朔太郎の妾だ。もうお前が男だと偽装する必要もなくなったから暇を出した。そういう筋書きにすれば、この家を引き払ったとしても怪しまれまい」
「それはそうだが……」
 ここで、さくらの脳裏によからぬ考えがよぎってしまった。
 ――お菊さんが、このまま歳三の前からいなくなって、それきりになるのなら……。
 だからなんだというのだ、とすぐに自己嫌悪した。
「さくら」
 歳三は、真剣な眼差しでさくらを見つめた。さくらは射すくめられるように思わず一歩下がった。今この家には、たった二人しかいないのだと、なぜだか急に意識してしまった。
「お前は、俺の傍を離れるな。生きている限り、だ」
 歳三がなぜそんなことを言うのかわからなかった。言われなくとも、歳三と離れる時は、どちらかが死ぬときではないのか。なんらかの事情で新選組が解散の憂き目にあった時ということも考えられるが、そうだとしても、歳三や勇たちと離れることは想像できなかった。
 それよりも、少し前に別のところで何か似たようなことを言われたような気がして、さくらは記憶を手繰り寄せた。
『余のために生きる覚悟はあるのか』
 それは、将軍・慶喜の言葉だった。幕臣になるからには、命を粗末にせず命続く限り支えになれ、と。
 慶喜に言われるならわかるが、なぜ同じようなことを歳三に言われなければならないのだ。さくらは急に不愉快になってきた。
「私とお前は同志だ。主従関係になった覚えはないっ」
「は……?」
「とにかく。お菊さんを探すっ」
 さくらは踵を返すと足早に土間へと降りていって、そのまま歳三の前から姿を消した。歳三の茫然とした顔に気づくはずもなく。

 ***

 二階の窓からぼんやり外を眺めていた菊は、見知った顔を見つけ、さっと顔を引っ込めた。幸い、歳久はすやすやと眠っている。部屋の反対側に移動し、少しだけ襖を開けた。ほどなくして、階下から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「ああ、お豊さん。お久しぶりです。実は、お菊さんがいなくなってしまって。何かご存知ないかと思いまして」
 ――やっぱり、島崎はんが直々に来はったのやな。
 他に宛てもなく美代の娘・豊の家を真っ先に頼ったが、そんなことは当然見通されていたようだ。
 菊は豊の言葉を待った。口裏は合わせてあるが、追及を逃れられる保証はない。何せ相手は、新選組の調役だ。
「母から聞きました。せやけど、うちは何にも知らないんどす」
「そうですか……。赤子を抱えてだから、そう遠くへは行けないと思うんですが……」
「国へ帰ったのかもわからんなあ」
「国……確か、播磨の方でしたね」
「へえ。船を使たらそう難儀することやないはずどす」
「……わかりました。いきなり押しかけてすみませんでした。ありがとうございました」
 しばらくの沈黙。そして、階段を上がってくる足音がした。菊は咄嗟に襖を閉めた。
「お菊はん? 今、島崎はんが来はりましたえ。すんなり帰っていきよりましたけど」
 豊の報告に菊はほっと胸を撫でおろした。からりと襖を開け、豊を部屋に招き入れた。
「おおきに、助かりました」
「せやけど、本当にええんですの? 島崎はんの雰囲気見てたら、お菊はんをお手打ちにしようなんて思てるようには見えへんかったで。ほんに、ただただ探しているだけみたいな」
「島崎はんは調役やで。そう思わせて油断させるのや」
「おお、怖。せやけどわからんなあ。新選組は今や飛ぶ鳥を落とす勢いいうやないの。たとえお妾さんでも、あそこに収まっていれば楽な暮らしができるのに」
「……前に、土方はんな……うちのこと、『サク』って呼んだんや」
「他の女の名前いうこと? それは、ただ聞き間違えたんと違うの?」
 菊は、首をふるふると横に振った。
 聞き間違いではない。菊の身体を抱きながら、歳三は確かに「サク」と口にした。
 身体は一番近いところにいるのに、心はまったく違う場所にあるのだと。うすうす気づいていたことを、考えないようにしていたことを、とうとう思い知った瞬間だった。
 それからほどなくして、歳久を授かったことに気づいた。この子がいれば、もうそれでいい。母子おやこ二人で慎ましく生きていこう。そう決めていた。
「あの人の心の中には、最初からひとりしかおらんのや。せめて、ちょっとでも八つ当たりしよ思うて、歳久を見せつけたのや」
 菊は、よく眠っている歳久の頭をそっと撫でた。
「お豊はんの言うとおり、あのままあっこにいれば楽や。せやけど、土方はんのあの目を見たら、ああ、やっぱりうちはもうここにはおれん、て思うたんよ」
「お菊はん……」
「これで、ええんよ」

 豊が退室すると、菊は窓を開けて外を見やった。もう、さくらの姿は見えなかった。
「歳三さまを、よろしゅう頼みますえ」


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