浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル

初音

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思いを遂げる②

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 武田の粛清から遡ること七日ほど前のことである。
 新選組は西本願寺の屯所に別れを告げ、近隣の不動堂村に新たな屯所を構えた。
 西本願寺の住職たちが、新選組のやりたい放題――銃火器の訓練やら、養豚やら――にいよいよ耐えかねて、新屯所にかかる費用をかなり負担した。言ってみれば半ば追い出される形での引っ越しだった。
 西本願寺と不動堂村は目と鼻の先であったが、隊内は荷物の運び出しでてんやわんやしていた。

 そんな中、歳三は所用のついでに妾宅に立ち寄っていた。縁側に腰掛けてぼんやりと庭を眺めていると、ここ最近のドタバタが嘘のような、穏やかな時間が流れていく。
「この度は、おめでとうございます」
 背後に正座した菊は、静かにお辞儀をした。
「これからもっと忙しくなる。なかなか顔が出せなくなるかもしれねえが、歳久を頼むぞ」
「へえ、こころえました」
 菊はそろそろと近寄ってきて、隣に腰を下ろした。
「ほんに、めでたいことどすなあ。せやけど、寂しゅうなります。こないな穏やかな時がずっと続けばええのに。あんさんと、うちと、歳久と三人で。ずうっと」
 菊は部屋の中を見やった。歳三もなんとなくそれに倣った。歳久は、よく眠っている。最近は顔もまるまるとして、赤子らしくなってきた。
「……約束はできねえ。近々、また隊士も増やさなきゃならねえから、江戸に行く必要だって出てくるだろう」
「へえ、わかっとります。せやから言うてみただけどす」
 歳三は菊の肩を抱き寄せた。歳三とて、こういう時間は嫌いではない。だが、ぬるま湯に浸かり続けるわけにはいかない。自分はもう、見廻組肝煎格。れっきとした武士として、新選組の副長として、ますます働かなければいけないのだ。
 だが、今は少しだけ。そう思っていたのに、のんびりとした時間は突然終わりを告げた。
「歳三ーーッ!」
 歳三と菊はバッと体を離した。歳久がぐずり始めたので、菊はそそくさと駆け寄り、抱き上げてあやし始めた。次の瞬間には、庭先から回ってきたさくらが現れた。
「なんだよ」
 歳三が苛立ちを見せたので、さくらは「あっ」と息をのんだ。
「すまぬ。歳久を起こしてしまったか……?」
「それもだが、何の用だって聞いてんだ」
「何の用だ、だと。皆が引っ越し作業でバタバタしているというのに。あちこち挨拶回りをするんだから、両長で行かねば示しがつかぬ」
「そんなもん最後の最後でいいんだろ。それに、引っ越しの采配は任せてある。俺自身の荷物はそんなに多くねえし」
「そういう問題ではないだろう」
「俺だってな、いろいろ考えなきゃなんねえことがあるんだ。今の屯所じゃ騒がしくてそれどころじゃねえ」
 二人の言い争いは、歳久のひときわ大きな泣き声によって中断された。
「ふん、騒がしさでいえば紙一重ではないか」
「ああ。お前が来たから余計にな」
「お二人は、ほんに仲がよろしおすなあ」
 歳久をあやしながら、菊がしみじみとして言った。さくらは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「そういうわけでは。こいつとはただの腐れ縁みたいなもので!」
「ああもう、サク、あとから行くからお前はさっさと屯所に戻れ」
「へいへい。承知しましたよ副長さま。あ、今はもう見廻組肝煎格さまでございましたな」
「ったく、減らず口ばっかり」
 さくらはべーっと舌を出すと、踵を返して家を出ていった。
「ガキか」
 歳三が、ポツリと言った。

 さくらは屯所までの道のりをのんびりと歩きながら、小さく溜息をついた。
 ――歳久、大きくなっていたなあ。
 さくらは、出産から数日後に見舞に行ったきり、菊の家からは遠ざかっていた。
 子が産まれるとは、親になるとは、どんな気持ちなのだろう。歳三が、菊と息子と三人で慎ましく暮らしていくなんていうことはまずあり得ないだろうとは思ったが、自分の子を産んだ女子に情が移らぬはずがない。今までは建前のような部分もあったかもしれないが、これからは本気で菊に入れ込むかもしれない。
 さくらは、もう考えるまいと思いを胸の奥に押し込めた。山南の時もそうだったではないか。しかも、今度はいよいよ武士になったのだ。将軍・慶喜より直々に幕臣として取り立てられ、新選組はこれからますます忙しくなる。こんな私情にかまけている場合ではない。
「よしっ」
 パンパンとさくらは自分の頬を叩いた。

 菊が歳久と共に姿を消した、と一報が入ったのは、それから半月ほど経ってのことだった。

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