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誰がために➀
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ほぎゃあ、ほぎゃあ、と威勢のよい泣き声がする。
乳臭い赤子を半ば無理矢理腕に抱かされた歳三は、自分によく似た切れ長の目をじっと見つめた。
壊れてしまいそうで、しかし生気に満ち溢れていて。物騒な京の町でいつ凶刃に倒れるかもわからない、常に死の影と隣り合わせな自分とは、まったく正反対な生き物だ。そもそも赤子の扱いなど慣れておらず歳三はなるべく関わりたくなかったが、菊の「抱いてやっとくれやす」という頼みを突っぱねることはできなかった。
歳久と名付けられたその赤子は、順調に生後一ヶ月を迎えようとしていた。
ふと、歳三はこの母子の将来を案じた。
今この二人を養っているのは歳三の金、新選組の金だ。だが、もし自分が死ねば、二人は路頭に迷うだろう。新選組がある限りは勇やさくらがなんとかしてくれるかもしれないが、たとえば池田屋の逆のようなことが起こったら。敵が大勢屯所に押しかけてきて、新選組が壊滅するようなことになったら。そんなことは断固阻止するつもりだが、万に一つ、ないともいえない。
「菊」
「へえ」
涼やかで、透き通るような肌をした菊の美しさは、出産を経てもなお健在だ。
「俺がいなくても、生きていける道を探しておけ」
それは、歳三が今考え得る中でもっとも菊たちのことを想った助言だった。
女と所帯を持ち、生涯添い遂げるなどということは、歳三にとっては別世界の話だった。
ただ一人、それが可能な女がいるとすれば。歳三の脳裏に浮かんだのは。
戦場まで共に行ける、互いに背中を預けて戦える。
――しかし世の中そう都合よくは行くめえよ。
歳三の僅かなため息は、歳久の泣き声にかき消された。
***
「と、いうわけでお千津さんは元気みたいだから安心するんだな」
さくらは、総司に淡々と告げた。総司も表情を変えることなく「そうですか」と相槌程度に応えた。
隣の部屋には誰もいないようで、総司の部屋は静かだった。この話をするのには都合がいい。
千津がその後どうしたかと気になって――職権乱用と言ってしまえばそれまでだが――さくらはこっそり様子を探っていたのだった。
どうやら父と夫にこっぴどく叱られたものの、男の子の方は元気でそのまま子育て生活に突入していたようだった。娘の戒名のことなどは、うまくぼかしたのだろう、光縁寺の住職によればあの女児についてたずねてくる者はいないそうだ。
「しかし、『沖田氏縁者』とは機転が利いてるというか、考えたな。お千津さんの亡き娘だとは誰も思わないだろう。……って、まさか」
さくらはハッとして総司に詰め寄った。
「実は本当に総司の子なんていうことはないだろうな!?」
十月十日だから……とぶつぶつ言いながら指を折っていると
「変なこと言わないでください」
総司がぴしゃりと遮った。
「あり得ないですから。土方さんじゃあるまいし」
「す、すまん……そうか……そうなのか……いや、うん、すまん……」
「謝らないでくださいよ。それはそれでなんだか惨めです」
「わかったわかった。もうこの話は終いだな」
と言ったものの、なかなか退室する気配を見せないさくらに総司は不思議そうな顔をした。千津の件もむろん話したかったことだが、もうひとつ話さなければならない大事な要件がある。
だが口にしてしまえば、現実としてとうとう受け止めなければならない気がして、さくらは切り出すのをためらった。未だに信じられない、信じたくない話だ。
しかし、遅かれ早かれ、向き合わなければいけない。さくらは意を決した。
「別件で……私が話したかったのは、お前の病のことだ」
「言ったじゃないですか。ただの風邪だったって」
「ではなぜ、もうじき昼になるというのに布団を敷きっぱなしなのだ」
さくらは総司の後ろに敷いてある布団を顎で指した。
「すみません、だらしないところを見られてしまいましたね。最近暑くなってきて少し疲れやすいですし、風邪が悪化しないように今日は一日ごろごろしているのもいいかなと思って。非番に何をしようが勝手でしょう。朝一で素振りはしましたし、明日の剣術稽古にも出ますから」
「では、枕元の水桶と手ぬぐいは何だ。まるで病人のしつらえではないか」
「置いておけば、汗をかいた時にすぐに拭けて便利でしょう」
「総司。監察を舐めるな」
さくらは総司の目をじっと見た。反して、総司は視線を逸らした。
「白石先生から聞いた。……総司、労咳なんだろう」
総司はきゅっと唇を結んだ。だが、言い逃れできないと思ったのか、観念したようにさくらを見た。
「……白石先生には、口止めしておいたのに」
「何を言っているんだ。きちんと療養すれば治るんだろう。私からも勇に掛け合うから、隊務を減らして」
「近藤先生には、言わないでください」
「総司!」
「そう言うと思ったんです。島崎先生がそうなら、近藤先生だって同じでしょう。隊務を減らして養生しろって。一度そんなことを始めたら、どんどん養生ばかりになっていくのは目に見えています」
「だが、労咳だぞ……! このままでは、いずれお前は……」
言えなかった。死んでしまうぞ、なんて、とても言えなかった。だが、総司は落ち着いた様子で「島崎先生」と呼び掛けた。
「私は、今さら布団の上で安らかに死にたいなんて思っていません。どちらにしたって明日をも知れぬ身です。だから、私は最期まで先生たちのお役に立ちたい。その上で死にたいんです。お願いします。まだ、体が動くうちは、戦わせてください。もし本当に使い物にならなくなったら、そういう日が来たら、その時は……腹を切ります」
「総司……」
言われてみれば、自分の立場に置き換えてみれば、さくらだって同じことを言うに違いなかった。
「そうと決まれば、島崎先生も早くこの部屋を出た方がいいですよ。お千津さんが言うには、労咳は感染る病気だといいますから」
「それはお千津さんの推測だろう。そんなに感染るんだったら、今ごろ屯所中労咳だらけだ」
「はは、だといいんですけど」
総司の表情は穏やかだった。見た目は病持ちであるなどと信じられないくらい元気そうでもある。さくらは、弟分の頼みを聞いてやることにした。
「私からは言わずにいておこう。その代わり、休める時は休め。滋養のあるものを食え。無理はするな。これは命令だ」
「ふふ、承知しました」
乳臭い赤子を半ば無理矢理腕に抱かされた歳三は、自分によく似た切れ長の目をじっと見つめた。
壊れてしまいそうで、しかし生気に満ち溢れていて。物騒な京の町でいつ凶刃に倒れるかもわからない、常に死の影と隣り合わせな自分とは、まったく正反対な生き物だ。そもそも赤子の扱いなど慣れておらず歳三はなるべく関わりたくなかったが、菊の「抱いてやっとくれやす」という頼みを突っぱねることはできなかった。
歳久と名付けられたその赤子は、順調に生後一ヶ月を迎えようとしていた。
ふと、歳三はこの母子の将来を案じた。
今この二人を養っているのは歳三の金、新選組の金だ。だが、もし自分が死ねば、二人は路頭に迷うだろう。新選組がある限りは勇やさくらがなんとかしてくれるかもしれないが、たとえば池田屋の逆のようなことが起こったら。敵が大勢屯所に押しかけてきて、新選組が壊滅するようなことになったら。そんなことは断固阻止するつもりだが、万に一つ、ないともいえない。
「菊」
「へえ」
涼やかで、透き通るような肌をした菊の美しさは、出産を経てもなお健在だ。
「俺がいなくても、生きていける道を探しておけ」
それは、歳三が今考え得る中でもっとも菊たちのことを想った助言だった。
女と所帯を持ち、生涯添い遂げるなどということは、歳三にとっては別世界の話だった。
ただ一人、それが可能な女がいるとすれば。歳三の脳裏に浮かんだのは。
戦場まで共に行ける、互いに背中を預けて戦える。
――しかし世の中そう都合よくは行くめえよ。
歳三の僅かなため息は、歳久の泣き声にかき消された。
***
「と、いうわけでお千津さんは元気みたいだから安心するんだな」
さくらは、総司に淡々と告げた。総司も表情を変えることなく「そうですか」と相槌程度に応えた。
隣の部屋には誰もいないようで、総司の部屋は静かだった。この話をするのには都合がいい。
千津がその後どうしたかと気になって――職権乱用と言ってしまえばそれまでだが――さくらはこっそり様子を探っていたのだった。
どうやら父と夫にこっぴどく叱られたものの、男の子の方は元気でそのまま子育て生活に突入していたようだった。娘の戒名のことなどは、うまくぼかしたのだろう、光縁寺の住職によればあの女児についてたずねてくる者はいないそうだ。
「しかし、『沖田氏縁者』とは機転が利いてるというか、考えたな。お千津さんの亡き娘だとは誰も思わないだろう。……って、まさか」
さくらはハッとして総司に詰め寄った。
「実は本当に総司の子なんていうことはないだろうな!?」
十月十日だから……とぶつぶつ言いながら指を折っていると
「変なこと言わないでください」
総司がぴしゃりと遮った。
「あり得ないですから。土方さんじゃあるまいし」
「す、すまん……そうか……そうなのか……いや、うん、すまん……」
「謝らないでくださいよ。それはそれでなんだか惨めです」
「わかったわかった。もうこの話は終いだな」
と言ったものの、なかなか退室する気配を見せないさくらに総司は不思議そうな顔をした。千津の件もむろん話したかったことだが、もうひとつ話さなければならない大事な要件がある。
だが口にしてしまえば、現実としてとうとう受け止めなければならない気がして、さくらは切り出すのをためらった。未だに信じられない、信じたくない話だ。
しかし、遅かれ早かれ、向き合わなければいけない。さくらは意を決した。
「別件で……私が話したかったのは、お前の病のことだ」
「言ったじゃないですか。ただの風邪だったって」
「ではなぜ、もうじき昼になるというのに布団を敷きっぱなしなのだ」
さくらは総司の後ろに敷いてある布団を顎で指した。
「すみません、だらしないところを見られてしまいましたね。最近暑くなってきて少し疲れやすいですし、風邪が悪化しないように今日は一日ごろごろしているのもいいかなと思って。非番に何をしようが勝手でしょう。朝一で素振りはしましたし、明日の剣術稽古にも出ますから」
「では、枕元の水桶と手ぬぐいは何だ。まるで病人のしつらえではないか」
「置いておけば、汗をかいた時にすぐに拭けて便利でしょう」
「総司。監察を舐めるな」
さくらは総司の目をじっと見た。反して、総司は視線を逸らした。
「白石先生から聞いた。……総司、労咳なんだろう」
総司はきゅっと唇を結んだ。だが、言い逃れできないと思ったのか、観念したようにさくらを見た。
「……白石先生には、口止めしておいたのに」
「何を言っているんだ。きちんと療養すれば治るんだろう。私からも勇に掛け合うから、隊務を減らして」
「近藤先生には、言わないでください」
「総司!」
「そう言うと思ったんです。島崎先生がそうなら、近藤先生だって同じでしょう。隊務を減らして養生しろって。一度そんなことを始めたら、どんどん養生ばかりになっていくのは目に見えています」
「だが、労咳だぞ……! このままでは、いずれお前は……」
言えなかった。死んでしまうぞ、なんて、とても言えなかった。だが、総司は落ち着いた様子で「島崎先生」と呼び掛けた。
「私は、今さら布団の上で安らかに死にたいなんて思っていません。どちらにしたって明日をも知れぬ身です。だから、私は最期まで先生たちのお役に立ちたい。その上で死にたいんです。お願いします。まだ、体が動くうちは、戦わせてください。もし本当に使い物にならなくなったら、そういう日が来たら、その時は……腹を切ります」
「総司……」
言われてみれば、自分の立場に置き換えてみれば、さくらだって同じことを言うに違いなかった。
「そうと決まれば、島崎先生も早くこの部屋を出た方がいいですよ。お千津さんが言うには、労咳は感染る病気だといいますから」
「それはお千津さんの推測だろう。そんなに感染るんだったら、今ごろ屯所中労咳だらけだ」
「はは、だといいんですけど」
総司の表情は穏やかだった。見た目は病持ちであるなどと信じられないくらい元気そうでもある。さくらは、弟分の頼みを聞いてやることにした。
「私からは言わずにいておこう。その代わり、休める時は休め。滋養のあるものを食え。無理はするな。これは命令だ」
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