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鴨と梅②
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「芹沢さんですか。暫しお待ちくださいね。そうだ、お名前は」
「菱屋の梅、と申します」
梅と名乗った女はふわり、と笑みを浮かべたが、さくらは背筋に何かが走るような感覚を覚えた。
ひとまずさくらは梅をその場に残し、八木邸へ入っていった
屯所を分けてからというもの芹沢と顔を合わせる機会が減っていたのもあって、なんとなく「嫌だなあ」と思いながらさくらは芹沢を探した。
芹沢は奥の部屋の縁側に寝そべってぼんやり庭を眺めていた。
「いたいた。芹沢さん、表に菱屋のお梅さんって女の人が一人で来ていますよ。話があるって」
「知らねえな」芹沢はさくらの方は見向きもせず、面倒くさそうに言った。
「ですが、芹沢さんを名指しされてましたよ……?」
沈黙が流れる。
「かなりの美人でしたよ」
喜ぶべきか、悲しむべきか、芹沢はその一言に反応した。のっそりと体を起こし立ち上がると、さくらには目もくれずスタスタと門の方まで歩き出した。さくらも慌ててついていった。
「こちらが芹沢です」さくらは梅に紹介した。すると、梅の表情は不満げなものに変わった。
「違います」
「え?」
「この人は芹沢はんやおへん。もっとひょろりとしたお人やった」
さくらは芹沢を見た。芹沢は怒ったような、困ったような顔をしていた。もし芹沢が梅に掴みかかるようなことがあれば全力で止めねば、とさくらは身構えた。
「どういうことだ」芹沢が発言した。確かに、今の状況は何かがおかしい。
「あんさんやのうて、ひょろりとした”芹沢鴨”はんがうちでお着物誂えたのや。今日はその代金を受け取りに。なかなか払うてくださらへんもんやから、直接お伺いにきたんどす」
そこまで言うと、梅はさくらに冷たい視線を浴びせた。
「こないな偽物のお方を連れてきてごまかそうとしても無駄。まあ、代わりに払うてくれるんやったら誰でも構しまへんけどな」
梅は完全に目の前にいる男が芹沢の偽物だと思っているようだ。
彼女の話が本当であるならば、誰かが芹沢の名を騙って買い物をしたことになる。
本物の芹沢は、本当に何も知らないようで訝し気な表情で梅を見ていた。
「ちなみに、おいくらなんですか?」さくらが尋ねた。
「三十両どす」
「さんじゅっ……誰がそんな高級な着物を……」
とにかく、今は誰が”芹沢鴨”なのかわからない。今日のところは引き取ってもらおうかとさくらが思った矢先、通りの向こうから新見がやってきた。
「新見さんっ!ちょうどよかった。最近誰か菱屋で買い物した人をご存知ありませんか?」
新見はさくらと芹沢、梅を交互に見ると、その顔からみるみる血の気が失せていった。
「まあ芹沢はん、お出かけやったんどすか。菱屋の梅どす。ほら、この前いらした時ご挨拶させてもろた」
梅の発言にさくらも芹沢もたいそう驚き、穴のあくほど新見を見つめた。
「新見さん、まさか……」
「人違いではないかな」新見は絞り出すように言った。
「そないなわけあらへん。うち、一度会うた殿方のお顔は忘れんのや」
その瞬間、さくらが止める間もなく芹沢は新見に拳骨を食らわせた。
ドサッと大きな音を立てて、新見はその場に尻餅をついた。赤く腫れあがった頬を抑え、茫然と芹沢を見ている。
「つまり、てめえは俺の名前を騙ってお高いおべべをお買い求めになったわけだ。なあ?」
「せ、芹沢さん!」
再び動きそうになる芹沢の腕をさくらはむんずと掴み、二発目を入れられないように抑えた。
「し、仕方なかったんです!」
と、ようやく認めた新見が語ったところによると、菱屋に入店した新見が「壬生浪士組の局長はん?ほな、芹沢はんいうお方やね」と梅に言われ、なんとなく首を縦に振ってしまい、そのまま梅の巧みな接客術に乗せられ三十両分の着物を買ってしまったらしい。
――何が仕方ないだ、情けない。
さくらは内心新見を軽蔑したが、とにかくも代金を踏み倒しているのだからなんとかせねばならない。
「お梅さん、お金……」
「お梅といったな。見苦しいところを見せてすまない。俺が本当の芹沢鴨だ。金は必ず用意する。今日のところは引き取って、また出直してくれ」
芹沢はキリリとした表情で淡々と梅に告げた。
――おい、美人の前だからって外面良すぎだろ!
さくらがあんぐりと口を開けていると、梅は「へえ。本物の芹沢はんはお優しゅうて男前なんやなあ。ほな、また来ますよって」と言って立ち去ってしまった。
目の前で人を殴った男のどこが「お優しゅうて男前」なんだか、とさくらは梅の神経を疑ったが、新見にもう一発お見舞いせんとする芹沢を止めるのに必死でそれ以上深く考えている場合ではなかった。
芹沢の怒りに触れてしまった新見は、これ以上芹沢の機嫌を損ねたら命を取られかねない、と思ったのか、芹沢が下した処断に粛々と従った。
その処断というのが、平隊士への降格。しかも会津に知れたら外聞が悪いということもあり、「新見錦」は壬生浪士組を脱退し、「田中伊織」なる隊士が新たに入隊した体を取ったという徹底ぶりだ。そして、やはり局長が三人では船頭が多いということで、そのまま局長は一人減、平山が副長職に着いた。これにて、この騒動は一旦の幕引きとなった。
「菱屋の梅、と申します」
梅と名乗った女はふわり、と笑みを浮かべたが、さくらは背筋に何かが走るような感覚を覚えた。
ひとまずさくらは梅をその場に残し、八木邸へ入っていった
屯所を分けてからというもの芹沢と顔を合わせる機会が減っていたのもあって、なんとなく「嫌だなあ」と思いながらさくらは芹沢を探した。
芹沢は奥の部屋の縁側に寝そべってぼんやり庭を眺めていた。
「いたいた。芹沢さん、表に菱屋のお梅さんって女の人が一人で来ていますよ。話があるって」
「知らねえな」芹沢はさくらの方は見向きもせず、面倒くさそうに言った。
「ですが、芹沢さんを名指しされてましたよ……?」
沈黙が流れる。
「かなりの美人でしたよ」
喜ぶべきか、悲しむべきか、芹沢はその一言に反応した。のっそりと体を起こし立ち上がると、さくらには目もくれずスタスタと門の方まで歩き出した。さくらも慌ててついていった。
「こちらが芹沢です」さくらは梅に紹介した。すると、梅の表情は不満げなものに変わった。
「違います」
「え?」
「この人は芹沢はんやおへん。もっとひょろりとしたお人やった」
さくらは芹沢を見た。芹沢は怒ったような、困ったような顔をしていた。もし芹沢が梅に掴みかかるようなことがあれば全力で止めねば、とさくらは身構えた。
「どういうことだ」芹沢が発言した。確かに、今の状況は何かがおかしい。
「あんさんやのうて、ひょろりとした”芹沢鴨”はんがうちでお着物誂えたのや。今日はその代金を受け取りに。なかなか払うてくださらへんもんやから、直接お伺いにきたんどす」
そこまで言うと、梅はさくらに冷たい視線を浴びせた。
「こないな偽物のお方を連れてきてごまかそうとしても無駄。まあ、代わりに払うてくれるんやったら誰でも構しまへんけどな」
梅は完全に目の前にいる男が芹沢の偽物だと思っているようだ。
彼女の話が本当であるならば、誰かが芹沢の名を騙って買い物をしたことになる。
本物の芹沢は、本当に何も知らないようで訝し気な表情で梅を見ていた。
「ちなみに、おいくらなんですか?」さくらが尋ねた。
「三十両どす」
「さんじゅっ……誰がそんな高級な着物を……」
とにかく、今は誰が”芹沢鴨”なのかわからない。今日のところは引き取ってもらおうかとさくらが思った矢先、通りの向こうから新見がやってきた。
「新見さんっ!ちょうどよかった。最近誰か菱屋で買い物した人をご存知ありませんか?」
新見はさくらと芹沢、梅を交互に見ると、その顔からみるみる血の気が失せていった。
「まあ芹沢はん、お出かけやったんどすか。菱屋の梅どす。ほら、この前いらした時ご挨拶させてもろた」
梅の発言にさくらも芹沢もたいそう驚き、穴のあくほど新見を見つめた。
「新見さん、まさか……」
「人違いではないかな」新見は絞り出すように言った。
「そないなわけあらへん。うち、一度会うた殿方のお顔は忘れんのや」
その瞬間、さくらが止める間もなく芹沢は新見に拳骨を食らわせた。
ドサッと大きな音を立てて、新見はその場に尻餅をついた。赤く腫れあがった頬を抑え、茫然と芹沢を見ている。
「つまり、てめえは俺の名前を騙ってお高いおべべをお買い求めになったわけだ。なあ?」
「せ、芹沢さん!」
再び動きそうになる芹沢の腕をさくらはむんずと掴み、二発目を入れられないように抑えた。
「し、仕方なかったんです!」
と、ようやく認めた新見が語ったところによると、菱屋に入店した新見が「壬生浪士組の局長はん?ほな、芹沢はんいうお方やね」と梅に言われ、なんとなく首を縦に振ってしまい、そのまま梅の巧みな接客術に乗せられ三十両分の着物を買ってしまったらしい。
――何が仕方ないだ、情けない。
さくらは内心新見を軽蔑したが、とにかくも代金を踏み倒しているのだからなんとかせねばならない。
「お梅さん、お金……」
「お梅といったな。見苦しいところを見せてすまない。俺が本当の芹沢鴨だ。金は必ず用意する。今日のところは引き取って、また出直してくれ」
芹沢はキリリとした表情で淡々と梅に告げた。
――おい、美人の前だからって外面良すぎだろ!
さくらがあんぐりと口を開けていると、梅は「へえ。本物の芹沢はんはお優しゅうて男前なんやなあ。ほな、また来ますよって」と言って立ち去ってしまった。
目の前で人を殴った男のどこが「お優しゅうて男前」なんだか、とさくらは梅の神経を疑ったが、新見にもう一発お見舞いせんとする芹沢を止めるのに必死でそれ以上深く考えている場合ではなかった。
芹沢の怒りに触れてしまった新見は、これ以上芹沢の機嫌を損ねたら命を取られかねない、と思ったのか、芹沢が下した処断に粛々と従った。
その処断というのが、平隊士への降格。しかも会津に知れたら外聞が悪いということもあり、「新見錦」は壬生浪士組を脱退し、「田中伊織」なる隊士が新たに入隊した体を取ったという徹底ぶりだ。そして、やはり局長が三人では船頭が多いということで、そのまま局長は一人減、平山が副長職に着いた。これにて、この騒動は一旦の幕引きとなった。
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