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試衛館の新たな住人たち②
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「はい、手を休めないで!あと少しですよ!九十八、九十九、百!」
道場には総司の声が響いていた。
百回の素振りを終えた門人達は大きな音を立てて木刀を床に落とし、はああ、と大きくため息をついた。
「少し休んだらもう百回行きますからねー」門人達の様子を見ても表情一つ変えず、総司は朗らかに言った。
「沖田先生、もう無理です…」門人の一人がぜいぜいと息を切らしながら言った。入門して日の浅い門人だと、この素振り百本でだいたいへばってしまう。
「山南さんを見習ってくださいよ」総司は門人達と一緒に稽古をしていた山南を見た。山南は涼しい顔をして「いえいえ」と会釈した。
「サンナンさんよぉ、北辰一刀流修めたんだろ?今更素振りなんてしなくたっていいじゃねえか」一緒に素振りをしていた歳三が言った。歳三は山南ほどではなかったが、他の門人達よりは平気そうな顔をしていた。
「そうは言っても天然理心流では私などまだまだ若輩者ですからね。この太い木刀での素振りは天然理心流ならでは。しっかり稽古する必要があると思っています」山南がさらりと言ってのけた。他の門人達はそれもそうか、と仕方なさそうに木刀を持ち体を起こした。
「なんだ、皆さん山南さんの言うことなら聞くんですか」総司は少し不服そうだったが、とにかく門人達の士気が戻ったようなので稽古を再開しようとした。
その時、ガランと大きな音がしたので、全員が音のする方を見た。
雨戸を開け放した道場の外の庭で里江が空になった二つの水桶を前に立ち尽くしていた。中の水をぶちまけたようで、あたりは水浸しになっている。
「歳三さん、ちょっとあとよろしくお願いします!」庭を見て総司はそう言うと、縁側の方に行き下駄を履いた。
「よろしくって、おい」
「数数えるだけですから。百本ですよ!」
総司は里江の元に駆け寄った。
「大丈夫?二つ同時に運ぼうとするからー。ほら、手伝うから一緒に行こ」
総司は空になった手桶を二つ持つと井戸へ向かった。
「すみません、沖田様。ありがとうございます」里江はか細い声でそう言うと、少し俯いて総司についていった。
結局、総司が二つの水桶を軽々と台所へ運んだ。
「本当にありがとうございました。奉公している身でこのような、手伝ってもらうだなんて…」里江は恐縮しきりで頭を下げた。先ほど勇たちを相手に吠えた時とは別人のようである。
「いいんだ。だって、お里江ちゃんにはご飯作ってもらったりいつも世話になってるから」総司はにっこりと微笑んだ。
それじゃあ私は稽古に戻るから、と総司は台所を後にした。残された里江はその背中をじっと見ていた。
「あれ、姉先生、歳三さんは?」
道場に戻った総司は、皆の前で素振りの回数を数えているのがさくらであったことに驚いた。
「通りかかったら、歳三に頼まれた。あいつ、ろくに稽古もしないで何をやってるんだ」
さくらはやれやれといったようなため息をつき、師範役を総司と交代した。そして、ついでだからと自分も木刀を手に取り素振りの集団に加わった。
「さくらさんも、この太い木刀で素振りをされるのですね」隣に立っていた山南が言った。
「ええ。男に負けない腕力をつけるためにはこれが一番」さくらはにこっと笑った。さくらはパッと見は華奢であったが、長年この素振りで鍛えただけあって、腕は木刀と同じように太くなっていた。
さくらの言葉を聞いて、山南は「さすがです」と微笑んだ。さくらは、一瞬だけ心臓のあたりをかきむしられるような気持ちがした。
「はい、半分ですよ!五十二、五十三、五十四…」
総司の掛け声が響く中、さくらは何気なしに山南の横顔を見た。
真剣に木刀を振る姿を見て、さくらは再び胸がざわざわとするような、不思議な気持ちに駆られていた。
――私、体調でも悪いのか…?
この”症状”の正体が判然としないまま、さくらは稽古を続けた。
その頃、里江がせっせと台所で夕飯の用意をしていると、後ろから声をかけられ振り返った。
「歳三兄様…」
関係性は少し遠いが、一応親戚にあたる歳三のことを、里江はそう呼んでいた。
「里江、総司はやめとけ」歳三は土間の框に腰かけ、それだけ言った。腕を組んでふてぶてしい顔で里江を見ている。
「どういう意味ですか」里江は作業の手を止めて歳三を見た。
「俺だってな、里江をよろしくって義兄上に頼まれてるんだ。お前はもうじき嫁に行くんだろ。総司に惚れたら別れがつらくなる」
「わ、私は惚れてなど…!」
里江は顔を赤らめて慌てて否定した。その態度が、言葉と裏腹に肯定を示すことは歳三には容易にわかった。
「ならいいが」歳三は含みのある笑顔を見せた。
「ったく、義兄上もよりによってなんでここを奉公先にしたんだか。こんな男所帯に年頃の娘一人放り込んだらこうなるのは目に見えてる」
「ですから、私は…!」
「さくらが十何年も男所帯で何事もなく暮らしてるからって、みんな感覚が鈍ってやがるんだ」
歳三の発言を受け、今度は里江が口角を上げた。
「歳三兄様ともあろうお方がお気づきではないのですか?さくら様だって、この男所帯の中に好いたお人がいるはずです」
歳三は「なっ」と言葉を詰まらせた。
「もちろん、確証はございませんけど。でも、私の女の勘は結構当たるんです」里江はふふっと笑うと、作業を再開した。
見事に話題をそらされ、しかもそれが自分の「予感」に賛同するものであったから、歳三は二の句を告げずに里江の背中を見つめるしかなかった。包丁で漬物を切る小気味のいい音だけがその場に響いていた。
道場には総司の声が響いていた。
百回の素振りを終えた門人達は大きな音を立てて木刀を床に落とし、はああ、と大きくため息をついた。
「少し休んだらもう百回行きますからねー」門人達の様子を見ても表情一つ変えず、総司は朗らかに言った。
「沖田先生、もう無理です…」門人の一人がぜいぜいと息を切らしながら言った。入門して日の浅い門人だと、この素振り百本でだいたいへばってしまう。
「山南さんを見習ってくださいよ」総司は門人達と一緒に稽古をしていた山南を見た。山南は涼しい顔をして「いえいえ」と会釈した。
「サンナンさんよぉ、北辰一刀流修めたんだろ?今更素振りなんてしなくたっていいじゃねえか」一緒に素振りをしていた歳三が言った。歳三は山南ほどではなかったが、他の門人達よりは平気そうな顔をしていた。
「そうは言っても天然理心流では私などまだまだ若輩者ですからね。この太い木刀での素振りは天然理心流ならでは。しっかり稽古する必要があると思っています」山南がさらりと言ってのけた。他の門人達はそれもそうか、と仕方なさそうに木刀を持ち体を起こした。
「なんだ、皆さん山南さんの言うことなら聞くんですか」総司は少し不服そうだったが、とにかく門人達の士気が戻ったようなので稽古を再開しようとした。
その時、ガランと大きな音がしたので、全員が音のする方を見た。
雨戸を開け放した道場の外の庭で里江が空になった二つの水桶を前に立ち尽くしていた。中の水をぶちまけたようで、あたりは水浸しになっている。
「歳三さん、ちょっとあとよろしくお願いします!」庭を見て総司はそう言うと、縁側の方に行き下駄を履いた。
「よろしくって、おい」
「数数えるだけですから。百本ですよ!」
総司は里江の元に駆け寄った。
「大丈夫?二つ同時に運ぼうとするからー。ほら、手伝うから一緒に行こ」
総司は空になった手桶を二つ持つと井戸へ向かった。
「すみません、沖田様。ありがとうございます」里江はか細い声でそう言うと、少し俯いて総司についていった。
結局、総司が二つの水桶を軽々と台所へ運んだ。
「本当にありがとうございました。奉公している身でこのような、手伝ってもらうだなんて…」里江は恐縮しきりで頭を下げた。先ほど勇たちを相手に吠えた時とは別人のようである。
「いいんだ。だって、お里江ちゃんにはご飯作ってもらったりいつも世話になってるから」総司はにっこりと微笑んだ。
それじゃあ私は稽古に戻るから、と総司は台所を後にした。残された里江はその背中をじっと見ていた。
「あれ、姉先生、歳三さんは?」
道場に戻った総司は、皆の前で素振りの回数を数えているのがさくらであったことに驚いた。
「通りかかったら、歳三に頼まれた。あいつ、ろくに稽古もしないで何をやってるんだ」
さくらはやれやれといったようなため息をつき、師範役を総司と交代した。そして、ついでだからと自分も木刀を手に取り素振りの集団に加わった。
「さくらさんも、この太い木刀で素振りをされるのですね」隣に立っていた山南が言った。
「ええ。男に負けない腕力をつけるためにはこれが一番」さくらはにこっと笑った。さくらはパッと見は華奢であったが、長年この素振りで鍛えただけあって、腕は木刀と同じように太くなっていた。
さくらの言葉を聞いて、山南は「さすがです」と微笑んだ。さくらは、一瞬だけ心臓のあたりをかきむしられるような気持ちがした。
「はい、半分ですよ!五十二、五十三、五十四…」
総司の掛け声が響く中、さくらは何気なしに山南の横顔を見た。
真剣に木刀を振る姿を見て、さくらは再び胸がざわざわとするような、不思議な気持ちに駆られていた。
――私、体調でも悪いのか…?
この”症状”の正体が判然としないまま、さくらは稽古を続けた。
その頃、里江がせっせと台所で夕飯の用意をしていると、後ろから声をかけられ振り返った。
「歳三兄様…」
関係性は少し遠いが、一応親戚にあたる歳三のことを、里江はそう呼んでいた。
「里江、総司はやめとけ」歳三は土間の框に腰かけ、それだけ言った。腕を組んでふてぶてしい顔で里江を見ている。
「どういう意味ですか」里江は作業の手を止めて歳三を見た。
「俺だってな、里江をよろしくって義兄上に頼まれてるんだ。お前はもうじき嫁に行くんだろ。総司に惚れたら別れがつらくなる」
「わ、私は惚れてなど…!」
里江は顔を赤らめて慌てて否定した。その態度が、言葉と裏腹に肯定を示すことは歳三には容易にわかった。
「ならいいが」歳三は含みのある笑顔を見せた。
「ったく、義兄上もよりによってなんでここを奉公先にしたんだか。こんな男所帯に年頃の娘一人放り込んだらこうなるのは目に見えてる」
「ですから、私は…!」
「さくらが十何年も男所帯で何事もなく暮らしてるからって、みんな感覚が鈍ってやがるんだ」
歳三の発言を受け、今度は里江が口角を上げた。
「歳三兄様ともあろうお方がお気づきではないのですか?さくら様だって、この男所帯の中に好いたお人がいるはずです」
歳三は「なっ」と言葉を詰まらせた。
「もちろん、確証はございませんけど。でも、私の女の勘は結構当たるんです」里江はふふっと笑うと、作業を再開した。
見事に話題をそらされ、しかもそれが自分の「予感」に賛同するものであったから、歳三は二の句を告げずに里江の背中を見つめるしかなかった。包丁で漬物を切る小気味のいい音だけがその場に響いていた。
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