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行き倒れの男①
しおりを挟む山南は試衛館にほど近い長屋に居を構え、毎日のように稽古に来ていた。仙台藩のれっきとした武士の家系の出であったせいか、山南にはまさに文武両道という言葉が相応しく、剣術の稽古でも、学問においても試衛館に新たな風を送り込んでいた。
特に勇やさくらは普段あまり話題にしていなかった世の中の情勢や学問の話を山南から聞くにつれ、自分の見識も広がるような新鮮な気持ちを味わっていた。
そんなある日、珍しいものを手に入れた、というので勇とさくらは山南の長屋を訪れていた。
「これが、世界地図です」
山南は大きな紙を広げて、勇とさくらに見せた。
「世界…地図??」見せられた二人は意味がわからない、といった表情で紙を眺めた。
「そうです。私も実際に見るのは初めてなんですけどね。横浜あたりでは結構出回っているみたいなんです」山南はそう言うと、地図の右端を指差した。
「これが、日本列島だそうです」
「えっ!」
二人は地図の真ん中に描かれた菱形の大陸と逆三角形の大陸、つまりユーラシア大陸とアフリカ大陸、そしてそのまた左で縦に二つ連なる三角形の南北アメリカ大陸ばかり見ていた。
「嘘ですよね。日本がこんなに小さかったら、こっちの大陸の大きさはおかしいじゃないですか」さくらはやだなぁ、と言わんばかりにははは、と笑った。
「うーん、でもさくら、よく見てみろよ。この島のここ、薩摩のあるところだろう…?」
さくらは九州を見た。さすがにさくらも勇も日本列島がだいたいどんな形かは知っていたが、小さな九州と小さな四国を見ると、これが日本列島だと認めざるを得なかった。
「ちなみに、これがメリケン」山南が左の大陸を指差した。
「え、これが全部、メリケンなんですか…?」さくらはぽかんと口を開けた。
「全部、というわけではないようなのですが、少なくともこの右半分あたりはメリケンの土地のようですね」
「それでも、日本よりはるかに大きい…」勇も目を丸くした。
「ですからね、今、攘夷攘夷とは言いますけど、闇雲に追い払おうとしてもこんな大きな国を相手にしていたら返り討ちに合うだけなんです」山南は声の調子を落とした。
「そ、それじゃあ、日本はこのまま異国に乗っ取られてしまうんですか??」さくらは前のめりになって聞いた。
「もちろん、そうやすやすと異国の力に屈するわけにはいきません。今まさに目指しているのが、公武合体。公方様と天子様が協力して日本を強くして異国と渡り合おうとしているものです」
勇とさくらはうんうんと頷いた。
「ですから、先の井伊大老の事件のように、短絡的にご公儀の役人を斬ったりしている場合ではないのです。日本人同士、協力しなければ」
勇とさくらは、山南のそんな話をただ黙って聞いていた。
「ただいま帰りましたー」
山南の家で数冊の本を借り、勇とさくらが試衛館に帰ると、歳三が土間の上がり框に腰掛けて薬の整理をしていた。
歳三は天然理心流入門後も、時々石田散薬の在庫を近所で売りさばいていたのだった。
「おう」歳三は二人をちらりと見やると、また薬箱に視線を落とした。
さくらは歳三の隣に座ると興奮気味にまくし立てた。
「歳三!山南さんはすごいぞ!世界地図っていうのを見せてもらったんだがな、あんなに世界が広いなんて私は知らなかった!歳三も今度見せてもらったらいい!あれを見たら物の見方が変わるぞ!」
「ったく、山南山南うるせえな」歳三はぼそっと言った。
「なんでお前はそう山南さんを毛嫌いするんだ」
なあ?と、さくらは勇に同意を求めた。
「うーん、ほら、トシは基本的に初対面の人を警戒するよな。さくらとも最初仲が悪かったわけだし」
「今だって別に仲良しこよしってわけじゃねえけどな」歳三がふんっと鼻を鳴らした。
「ほんっとお前はかわいくないな」さくらは眉間にシワを寄せた。
「まあいいや。とにかく、今日は稽古休みだし、山南さんに借りた本を読むんだ私は」
さくらはにっと笑って借りた本を数冊歳三に見せた。
「さくらが本だって?もう夏だってのに雪でも降ったらどうすんだ」
「うるさいな。どの道私は世にも珍しい剣術を嗜む女子なのだから、学問文学を嗜んだって雪は降らない」さくらは得意気に言った。
「女がどうとか今は関係ねえんだよ。剣術バカのお前が本なんか読んだら雪が降るって言ってんだ」
「バカとはなんだ。百歩譲ってそうだとしても、これからこの本で賢くなるんだからそんなこと言われる筋合いはない」
「はいはいはい、二人ともその辺で」
勇がさくらと歳三の間に割って入った。
「もうなんでお前たちはいつもそうなんだ」
「歳三が勝手にピリピリしているだけではないか。おおかた山南さんが賢くて爽やかなのが気に入らないんだろう」さくらはからかうようににやにやと歳三を見ると、立ち上がって自室に戻っていった。
「どうしたんだよトシ。さくらの言う通り、お前の方から喧嘩をふっかけてるように見えるぞ」再び薬箱の整理を始めた歳三を見ながら勇が言った。
「別に、そんなんじゃねえよ」
「確かに山南さんはお前と真逆の人だけど、何も山南さんの方が優れた人物だというわけじゃない。トシにはトシらしい良いところがあるし」
勇は心からそう思って助け舟を出したつもりだったが、歳三は黙り込んでしまった。
やがて歳三が「そういう問題じゃ…」と反論しかけた時、ドタドタと足音がした。
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