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他流の男①
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万延元(一八六〇)年 初夏
ツネが嫁いできて少しした頃である。さくらとツネはよく一緒に家事をするようになった。思った通り、と言ってはなんだが、ツネは物静かな女で、こちらから何か言わなければ発言をすることはめったになかった。
――まあ、いい嫁さんといえばそうなのだが…
さくらは洗濯物を干しながら、同じく隣で洗濯物を干すツネを見た。
「おツネさん、ここの生活には慣れました?」
「えっ」ツネは話しかけられたことにびっくりした様子で、少し間を置いてから「はい、姉上様」と答えた。
――か、会話が終わってしまった…
気まずい沈黙が流れる中、さくらは次の言葉を発した。
「楽しいですか?」
「ええ」
――ま、また会話が…
またしても気まずい沈黙の中、さくらはさっさと家事を終わらせて道場に行こうと作業の手を早めた。
すると、背後の柵の向こうから「もし」と男の声が聞こえた。
「はい、なんでしょうか」ツネがここ何分かで一番長い台詞を言うと、近くの木戸を開けた。
「ちょっと、おツネさん」さくらも慌てて木戸の方に行き、男の姿を見た。
色白で、少し丸顔の優男だった。
肌がきれいだ、というのがさくらの第一印象だった。何しろ、剣術道場に出入りする男共は汗だくの印象がつきまとう。だが、この男はそんな汗水たらして、なんていうものとは無縁のように思えた。
「突然申し訳ありません。こちらは天然理心流の試衛館道場で間違いないでしょうか?」
「ええ、その通りですが」ツネが答えた。
「よかった。他流試合を申し込みたく参りました。主の方はいらっしゃいますか」
さくらはその言葉に面食らった。
――他流試合?こんな優男がどういうつもりだ?
「おツネさん、とりあえずここを頼む」
さくらは急いで周助の元へ向かった。
「父上、表に、他流試合を申し込みたいというお方が来ているのですが」
「他流試合だあ?随分と久しぶりだなぁ。ちなみにどこの流派だ?」
「申し訳ありません、聞きそびれました。ただ、大人しそうな男でして、まあそこまで恐れることもないかと…」
「さくら。いいか。そういうやつほどなめちゃ駄目だ。とりあえず、総司出させろ」
「わかりました」
周助はふっと息をついた。
「総司、さくら、勇で戦って、全員負けたら戻ってこい」
「父上、まさか全員負けるなど…」さくらは鼻で笑ったが、後に周助の発言があながち間違いではなかったことを知るのだった。
道場にいた総司と勇に事情を話すと、総司はすぐに準備を始めた。
「他流試合なんて、腕が鳴りますね~」のん気にそんなことを言いながら、総司は防具を身につけた。
「まあ、総司の強さであれば、たいていの輩は大丈夫だろう」隣で様子を見ていた源三郎が言った。
やがて、ツネに案内され、件の男が道場に現れた。
「試衛館塾頭・沖田総司です。手加減は致しませんのでそのつもりで」総司は男を真っ直ぐに見て挨拶した。
「山南敬助と申します。お見知りおきを」
山南と名乗った男も、防具を身につけると、道場の真ん中に立った。
歳三や稽古中だった他の隊士も、周りを取り囲むように座り、この珍しい試合の行方を見守った。
「始め!」審判を買って出た源三郎が合図をし、二人は同時に動いた。
さくらは目を見張った。あの優男のどこにこんな力強さが、と思った。
しかも、力強いだけではない。しなやかな動きで総司の剣を紙一重でかわしている。紙一重なのだが、焦りや必死の様相が見えない。一種の余裕が感じられた。
やがて、山南は総司の突きをかいくぐると、鮮やかに胴を抜いた。
その場に沈黙が流れた。
そして源三郎が、思い出したように山南側の腕を上げた。
「一本!」
「ま、参りました…」総司はか細い声でそう言うと、蹲踞の姿勢を取り木刀を納めた。
面を外した総司の目には今にも涙が溢れそうだった。
「総司が負けた…?」歳三が息を飲んだ。
道場中がざわめいた。防具を外した総司はこの世の終わりといったような顔でさくらの隣に座り込んだ。
「姉先生…お願いします…」総司は蚊の鳴くような声で言った。
さくらは深呼吸した。
――総司を負かした相手に私が勝てるのか…
そんな思いが一瞬よぎったが、すぐに振り払い、防具を身につけ山南の前に立った。
「あなたは先ほどの…失礼、お女中の方かと…」山南は目を丸くしてさくらを見た。
「天然理心流三代目宗家・近藤周助が娘、試衛館師範代のさくらと申します」きっちりとした自己紹介を終えると、面をつけて礼をした。
「始め!」再び源三郎の声が道場にこだました。
先ほど傍目で見ていた通り、山南の動きはなめらかだった。一つ一つの所作が美しい。試合中にもかかわらずさくらはそんなことを考えてしまった。
天然理心流にも型や所作の教えはあるが、どちらかといえばとにかく相手を倒すことが最優先で、このようなきっちりとした身のこなしは二の次であった。
山南が上段から振りかぶってきた。さくらははっと我に返り、鍔迫り合いの格好になった。そして二人は同時に間合いを取った。というよりも、さくらがはねとばされたと言った方が近かったかもしれない。
その一瞬の差、場を支配していた山南に勝負の流れは傾いてしまった。
どん、と音がし、さくらは尻餅をついた。目の前には山南の木刀の切っ先が突きつけられていた。
「ま、参りました…」
総司と同じ台詞を吐き、さくらは山南の顔を見た。二人連続で戦ったというのに、その顔は涼やかだった。
「お強いのですね」山南に声をかけられ、それはこちらの台詞です、という気持ちをこめて「あなたの方こそ」と答えた。
三戦目、いよいよ勇の出番となった。
さすがに疲れが出たのか、対総司戦の時よりも若干動きが遅い、とさくらは試合を眺めながら思った。
ほんの少しの時間で、勝負はついた。
ツネが嫁いできて少しした頃である。さくらとツネはよく一緒に家事をするようになった。思った通り、と言ってはなんだが、ツネは物静かな女で、こちらから何か言わなければ発言をすることはめったになかった。
――まあ、いい嫁さんといえばそうなのだが…
さくらは洗濯物を干しながら、同じく隣で洗濯物を干すツネを見た。
「おツネさん、ここの生活には慣れました?」
「えっ」ツネは話しかけられたことにびっくりした様子で、少し間を置いてから「はい、姉上様」と答えた。
――か、会話が終わってしまった…
気まずい沈黙が流れる中、さくらは次の言葉を発した。
「楽しいですか?」
「ええ」
――ま、また会話が…
またしても気まずい沈黙の中、さくらはさっさと家事を終わらせて道場に行こうと作業の手を早めた。
すると、背後の柵の向こうから「もし」と男の声が聞こえた。
「はい、なんでしょうか」ツネがここ何分かで一番長い台詞を言うと、近くの木戸を開けた。
「ちょっと、おツネさん」さくらも慌てて木戸の方に行き、男の姿を見た。
色白で、少し丸顔の優男だった。
肌がきれいだ、というのがさくらの第一印象だった。何しろ、剣術道場に出入りする男共は汗だくの印象がつきまとう。だが、この男はそんな汗水たらして、なんていうものとは無縁のように思えた。
「突然申し訳ありません。こちらは天然理心流の試衛館道場で間違いないでしょうか?」
「ええ、その通りですが」ツネが答えた。
「よかった。他流試合を申し込みたく参りました。主の方はいらっしゃいますか」
さくらはその言葉に面食らった。
――他流試合?こんな優男がどういうつもりだ?
「おツネさん、とりあえずここを頼む」
さくらは急いで周助の元へ向かった。
「父上、表に、他流試合を申し込みたいというお方が来ているのですが」
「他流試合だあ?随分と久しぶりだなぁ。ちなみにどこの流派だ?」
「申し訳ありません、聞きそびれました。ただ、大人しそうな男でして、まあそこまで恐れることもないかと…」
「さくら。いいか。そういうやつほどなめちゃ駄目だ。とりあえず、総司出させろ」
「わかりました」
周助はふっと息をついた。
「総司、さくら、勇で戦って、全員負けたら戻ってこい」
「父上、まさか全員負けるなど…」さくらは鼻で笑ったが、後に周助の発言があながち間違いではなかったことを知るのだった。
道場にいた総司と勇に事情を話すと、総司はすぐに準備を始めた。
「他流試合なんて、腕が鳴りますね~」のん気にそんなことを言いながら、総司は防具を身につけた。
「まあ、総司の強さであれば、たいていの輩は大丈夫だろう」隣で様子を見ていた源三郎が言った。
やがて、ツネに案内され、件の男が道場に現れた。
「試衛館塾頭・沖田総司です。手加減は致しませんのでそのつもりで」総司は男を真っ直ぐに見て挨拶した。
「山南敬助と申します。お見知りおきを」
山南と名乗った男も、防具を身につけると、道場の真ん中に立った。
歳三や稽古中だった他の隊士も、周りを取り囲むように座り、この珍しい試合の行方を見守った。
「始め!」審判を買って出た源三郎が合図をし、二人は同時に動いた。
さくらは目を見張った。あの優男のどこにこんな力強さが、と思った。
しかも、力強いだけではない。しなやかな動きで総司の剣を紙一重でかわしている。紙一重なのだが、焦りや必死の様相が見えない。一種の余裕が感じられた。
やがて、山南は総司の突きをかいくぐると、鮮やかに胴を抜いた。
その場に沈黙が流れた。
そして源三郎が、思い出したように山南側の腕を上げた。
「一本!」
「ま、参りました…」総司はか細い声でそう言うと、蹲踞の姿勢を取り木刀を納めた。
面を外した総司の目には今にも涙が溢れそうだった。
「総司が負けた…?」歳三が息を飲んだ。
道場中がざわめいた。防具を外した総司はこの世の終わりといったような顔でさくらの隣に座り込んだ。
「姉先生…お願いします…」総司は蚊の鳴くような声で言った。
さくらは深呼吸した。
――総司を負かした相手に私が勝てるのか…
そんな思いが一瞬よぎったが、すぐに振り払い、防具を身につけ山南の前に立った。
「あなたは先ほどの…失礼、お女中の方かと…」山南は目を丸くしてさくらを見た。
「天然理心流三代目宗家・近藤周助が娘、試衛館師範代のさくらと申します」きっちりとした自己紹介を終えると、面をつけて礼をした。
「始め!」再び源三郎の声が道場にこだました。
先ほど傍目で見ていた通り、山南の動きはなめらかだった。一つ一つの所作が美しい。試合中にもかかわらずさくらはそんなことを考えてしまった。
天然理心流にも型や所作の教えはあるが、どちらかといえばとにかく相手を倒すことが最優先で、このようなきっちりとした身のこなしは二の次であった。
山南が上段から振りかぶってきた。さくらははっと我に返り、鍔迫り合いの格好になった。そして二人は同時に間合いを取った。というよりも、さくらがはねとばされたと言った方が近かったかもしれない。
その一瞬の差、場を支配していた山南に勝負の流れは傾いてしまった。
どん、と音がし、さくらは尻餅をついた。目の前には山南の木刀の切っ先が突きつけられていた。
「ま、参りました…」
総司と同じ台詞を吐き、さくらは山南の顔を見た。二人連続で戦ったというのに、その顔は涼やかだった。
「お強いのですね」山南に声をかけられ、それはこちらの台詞です、という気持ちをこめて「あなたの方こそ」と答えた。
三戦目、いよいよ勇の出番となった。
さすがに疲れが出たのか、対総司戦の時よりも若干動きが遅い、とさくらは試合を眺めながら思った。
ほんの少しの時間で、勝負はついた。
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