浅葱色の桜

初音

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黒船①

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 嘉永六(一八五三)年 春

 惣次郎が試衛館にやってきて、三年が過ぎた。
「惣次郎ーーーーっっ!!」
 朝っぱらからさくらの声が試衛館に響く。
「姉先生、どうかしましたか?」惣次郎が何食わぬ顔でさくらのいる井戸端にやってきた。
「なぜ釣瓶つるべの中にカエルが入っているのだ!」
「カエルが勝手に入ったのではないですか?」
「違う、知ってるぞ。お前、昨日台所の桶にカエルを入れたと、義母上に怒られていたではないか。それで、ここに移動させたのだろう!」
「なんだぁ、知ってたんですか。だって、最近雨降らないし、カエルがかわいそうじゃないですか」
「まったく…ならばそこの桶に入れて池に逃がしてこい」
「わかりましたー」
 惣次郎は釣瓶の中からひょいっとカエルを取り出すと、さくらが示した桶に入れ、走り去っていった。
「さくらも朝からそんなに怒るなよー」
 のんびりした声に振り返ると、勝太が眠そうに目をこすりながらこちらに来ていた。
「勝太もこの前、手習いの道具をぐちゃぐちゃにされたと、叱っていたではないか」さくらはふう、と息をつき、惣次郎が去っていった方向をじっと見た。
「はは、まあ確かにな。いたずらしたい盛りなんだよ。おれもよく近所で柿の実を失敬したりしてたし」
「それなら、よそ様に迷惑をかけないだけ惣次郎はましだな」さくらは皮肉っぽく言った。
「でも、最初のころの惣次郎より、今の方が断然いいな。なんていうか、生き生きしてる」勝太は笑みを浮かべた。
「ああ。あの日から、試衛館が明るくなった気がする」さくらも、先ほどまで怒っていたことも忘れ、頬を緩ませた。
 すると、「さくらさん、勝太さん、惣次郎を見ませんでした?」という声がし、台所の方からキチがやってきた。
「先ほどまでここにいましたが、カエルを逃がしにやりました」さくらは淡々と答えた。
「まあ、まだカエルなんて…!」
「ええ、だから、今逃がしに行かせているのです」
「まったく、仕事を放って何をしているのでしょう。そうしたら、あなたたち二人で水汲みしてくださいね」
 それだけ言い放つと、キチはスタスタと行ってしまった。
「ここまで来たんなら、水汲みくらい自分ですればいいのに」さくらはボソッとつぶやいた。
「はは、言い得て妙だな」そう言いながらも、勝太はするすると釣瓶を引き上げ始めた。
 惣次郎が水汲みをしないでカエルを逃がしに行ったことに関しては、おそらくお咎めなしだろう。
 三年前の家出騒ぎの時、原因は元をただせばキチの発言にある、ということで、キチは惣次郎に謝った。
 その負い目もあるせいか、躾けとして叱るべき時は叱るなど、一応は厳しく接しているものの、惣次郎に対しては少しだけ寛大だった。
 少なくとも、初の子であるさくらや、養子の勝太に対するやきもちのような感情はないようである。
 そうは言っても、子供心には「ただ厳しくて怖い人」として映るようで、惣次郎は、周助、勝太、さくらにはよく懐き、屈託のない笑顔を見せていたが、キチに対しては心を閉ざしたままだった。

 この三年、惣次郎は試衛館で下働きとして日常の雑務をこなしながら、少しずつ剣術の稽古もしていた。
 近頃、勝太やさくらは素振りや簡単な型であれば教える側に回るようにもなっていて、勝太は若先生、さくらは姉先生とか、さくら先生とか呼ばれるようになっていた。特に惣次郎には二人で目をかけ、一緒に稽古することが多かった。
 稽古をしている時さくらは、自分が惣次郎と同じ年頃だった時のことを思い出し、舌を巻いていた。
 もともとの才能が違う、と言ってしまえばそれまでだが、そう言わざるを得ないほど、惣次郎の剣術の腕前は筋がよかった。その証拠に、惣次郎はさくらの半分の速さで天然理心流の目録を得てしまっていた。
 ――これは将来大物になるぞ。負けてはいられぬ。
 さくらはそう考え、より一層稽古に励むのだった。
 実力で、勝太や惣次郎の上を行かねば天然理心流四代目は継げないのだから。

 惣次郎が内弟子になるために親元を離れて試衛館にやってきたのを最後に、試衛館では特に大した環境等の変化もなく、さくらたちはずっと同じような日常生活を送っていた。 
 稽古、家事手伝い、日野への出稽古… 
 さくら達はそんな日常を退屈だと思ったこともないわけではないが、これも修行なのだと、この生活を変えたいと思うほどの不満まではなかった。
 いつか、立派な剣客、そして武士になれると信じて――― 

 このようなことは、試衛館の外でも同じだった。
 約二百五十年続いた泰平の世に、人々はすっかり慣れきっていた。
 誰もが、生まれついた家での仕事をこなし、非日常的なことといえばせいぜい元服や結婚といったもので、日常生活も人生も、まあこんなものか、といったようなものであった。
 こうした日々が永遠に続くと、誰もが思っていた。

 そんな日本国民を震撼させる事件が起こった。 

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