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武士になろう①
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宮川家に強盗が入った夜から十数日が経った。
いつまでも宮川家の世話になるわけにもいかず、さくらは日野に移動し井上家に寝泊まりしながら、佐藤彦五郎道場に通っていた。
「さくらちゃん、試衛館に帰らなくて平気なの?」彦五郎の妻、のぶが言った。 一向に帰る様子もなく、稽古に出ずっぱりのさくらを心配しての発言である。
「いいんです。帰りたくないんです」
即答するさくらに、のぶはくすっと笑った。さくらが不思議そうな顔をしているのを見て、「ごめんね」と謝った。
「でもね、なんだかうちの弟を思い出しちゃって。あの子、奉公に出てない時は兄の家に住んでたんだけど、よくここに来ては『帰りたくないから泊まってく』ってね」
のぶには、さくらと同じ年頃の弟がいる。話には聞くものの、今は奉公に出ていて帰ってくるのはずっと先になるということだったので、さくらはその弟というのには会ったことがなかった。
「確かに、兄は厳しい人だから、帰りたくなくなるのもちょっとはわかるわ。……で、さくらちゃんはどうして帰りたくないの?」
さくらはキチに言われたことを話した。
「それ以来、なんだかあからさまにそっけないというか、冷たいというか……とにかく、居心地が悪いのです」
「本当にそれだけかしら」
のぶの言葉に、さくらは不思議そうな顔をした。
「お初さんに、やきもち妬いてるんじゃないかしら。おキチさんは」
「やきもち……?」
「さくらちゃん、恋したことないでしょ」のぶはまたクスクスと笑った。
「恋……ですか?ええ。私には必要ありませんから」さくらはきっぱりと言った。それは本当に本心だった。
「もう、女子がそんなことじゃダメよ」
すると、奥の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「あら、起きちゃったかしら。ごめんね、さくらちゃん、ゆっくりしていってね」のぶはそれだけ言うと、そそくさと奥の部屋へ消えていった。
現に、さくらはもういつ嫁にいってもおかしくない年齢にさしかかっていた。のぶも、さくらとそう年は離れていなかったが、すでに一児の母であった。
もっとも、さくらにとって恋だの結婚だの、まして母親になるなどということは全く無縁のことであった。すでに、剣術を伴侶と決めている。
しかし、さくらの意志と無関係にこの問題が降りかかってくるのはそう遠いことではなかった。
それからさらに数日が経ち、周助が出稽古に来るということで、さくらは宮川家に戻り、道場で勝五郎と共に稽古していた。すると、庭から物音がした。見てみると、周助がにやにやと笑いながら二人を見ていた。
前日に多摩に来ていた周助は、もちろん強盗事件の話も知っている。その件についてさくらと周助の間では何の話もしていなかった。というよりは、さくらが避けていた。自分の未熟さを痛感したくなかったからだ。
「勝五郎、さくら、練習試合だ。一本勝負。防具つけて、ちょっとやってみろ」
周助はにやにや笑いを崩さずに、突然そんなことを言った。さくらと勝五郎は手を止めた。二人とも周助の意図がわからず固まっていたが、すぐに防具を用意して身に着けた。
数分後、二人は向かい合って正座した。
勝五郎は面紐をぎゅっと結ぶと、さくらを見た。
――さくらと実際に勝負するのは初めてだな。女子だからって手加減はできないぞ……
さくらも、籠手をはめると深呼吸して木刀に手を添えた。
――勝五郎の上達速度には目を見張るものがあるのは間違いない……侮れない。それどころか、本気でいかなければ負けてしまう……!
二人は真剣な目で互いを見つめ、木刀を構えた。
「始め!」
周助の声が道場に響いた。
まず動いたのは勝五郎だった。大きな体に似合わない速さで一気にさくらの間合いまで詰め寄ると、胴を狙ってくる。
さくらもやすやすと打たせるわけにはいかず、さっと受け流し、鍔迫り合いの恰好になった。
二人は互いを押しのけて間合いを開けると、木刀を構え直した。
さくらは上段。勝五郎は下段。その切っ先が右下に傾く。
互いの目をじっと見つめると、二人は大声を上げて踏み込んだ。
さくらは面を、勝五郎は胴を打った。
それは、ほぼ同時に決まったかに思えた。
しかし、勝負はついた。周助の「一本!」という声が響いた。
二人はゆっくりと周助を見た。
挙がっていたのは勝五郎側の手だった。
何も言わず、すっと二人は元の位置に戻る。勝五郎は喜ぶような、それでいて申し訳なさそうな顔をしていた。さくらは唇をぎゅっと結んでいたが、「父上!もう一本やらせてください!」と防具をつけたまま言った。
「一本勝負って言っただろ。それに、お前らに話したいこともあるしな」
「話したいこと……?」
「防具片付けて着替えたら、客間に来てくれ」
客間は、周助が寝泊まりしている部屋だった。さくらと勇はなんだろう、と顔を見合わせたが、後片付けをして四半時も経った頃、言われた通り周助のもとに向かった。
いつまでも宮川家の世話になるわけにもいかず、さくらは日野に移動し井上家に寝泊まりしながら、佐藤彦五郎道場に通っていた。
「さくらちゃん、試衛館に帰らなくて平気なの?」彦五郎の妻、のぶが言った。 一向に帰る様子もなく、稽古に出ずっぱりのさくらを心配しての発言である。
「いいんです。帰りたくないんです」
即答するさくらに、のぶはくすっと笑った。さくらが不思議そうな顔をしているのを見て、「ごめんね」と謝った。
「でもね、なんだかうちの弟を思い出しちゃって。あの子、奉公に出てない時は兄の家に住んでたんだけど、よくここに来ては『帰りたくないから泊まってく』ってね」
のぶには、さくらと同じ年頃の弟がいる。話には聞くものの、今は奉公に出ていて帰ってくるのはずっと先になるということだったので、さくらはその弟というのには会ったことがなかった。
「確かに、兄は厳しい人だから、帰りたくなくなるのもちょっとはわかるわ。……で、さくらちゃんはどうして帰りたくないの?」
さくらはキチに言われたことを話した。
「それ以来、なんだかあからさまにそっけないというか、冷たいというか……とにかく、居心地が悪いのです」
「本当にそれだけかしら」
のぶの言葉に、さくらは不思議そうな顔をした。
「お初さんに、やきもち妬いてるんじゃないかしら。おキチさんは」
「やきもち……?」
「さくらちゃん、恋したことないでしょ」のぶはまたクスクスと笑った。
「恋……ですか?ええ。私には必要ありませんから」さくらはきっぱりと言った。それは本当に本心だった。
「もう、女子がそんなことじゃダメよ」
すると、奥の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「あら、起きちゃったかしら。ごめんね、さくらちゃん、ゆっくりしていってね」のぶはそれだけ言うと、そそくさと奥の部屋へ消えていった。
現に、さくらはもういつ嫁にいってもおかしくない年齢にさしかかっていた。のぶも、さくらとそう年は離れていなかったが、すでに一児の母であった。
もっとも、さくらにとって恋だの結婚だの、まして母親になるなどということは全く無縁のことであった。すでに、剣術を伴侶と決めている。
しかし、さくらの意志と無関係にこの問題が降りかかってくるのはそう遠いことではなかった。
それからさらに数日が経ち、周助が出稽古に来るということで、さくらは宮川家に戻り、道場で勝五郎と共に稽古していた。すると、庭から物音がした。見てみると、周助がにやにやと笑いながら二人を見ていた。
前日に多摩に来ていた周助は、もちろん強盗事件の話も知っている。その件についてさくらと周助の間では何の話もしていなかった。というよりは、さくらが避けていた。自分の未熟さを痛感したくなかったからだ。
「勝五郎、さくら、練習試合だ。一本勝負。防具つけて、ちょっとやってみろ」
周助はにやにや笑いを崩さずに、突然そんなことを言った。さくらと勝五郎は手を止めた。二人とも周助の意図がわからず固まっていたが、すぐに防具を用意して身に着けた。
数分後、二人は向かい合って正座した。
勝五郎は面紐をぎゅっと結ぶと、さくらを見た。
――さくらと実際に勝負するのは初めてだな。女子だからって手加減はできないぞ……
さくらも、籠手をはめると深呼吸して木刀に手を添えた。
――勝五郎の上達速度には目を見張るものがあるのは間違いない……侮れない。それどころか、本気でいかなければ負けてしまう……!
二人は真剣な目で互いを見つめ、木刀を構えた。
「始め!」
周助の声が道場に響いた。
まず動いたのは勝五郎だった。大きな体に似合わない速さで一気にさくらの間合いまで詰め寄ると、胴を狙ってくる。
さくらもやすやすと打たせるわけにはいかず、さっと受け流し、鍔迫り合いの恰好になった。
二人は互いを押しのけて間合いを開けると、木刀を構え直した。
さくらは上段。勝五郎は下段。その切っ先が右下に傾く。
互いの目をじっと見つめると、二人は大声を上げて踏み込んだ。
さくらは面を、勝五郎は胴を打った。
それは、ほぼ同時に決まったかに思えた。
しかし、勝負はついた。周助の「一本!」という声が響いた。
二人はゆっくりと周助を見た。
挙がっていたのは勝五郎側の手だった。
何も言わず、すっと二人は元の位置に戻る。勝五郎は喜ぶような、それでいて申し訳なさそうな顔をしていた。さくらは唇をぎゅっと結んでいたが、「父上!もう一本やらせてください!」と防具をつけたまま言った。
「一本勝負って言っただろ。それに、お前らに話したいこともあるしな」
「話したいこと……?」
「防具片付けて着替えたら、客間に来てくれ」
客間は、周助が寝泊まりしている部屋だった。さくらと勇はなんだろう、と顔を見合わせたが、後片付けをして四半時も経った頃、言われた通り周助のもとに向かった。
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