浅葱色の桜

初音

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別れ。決意。②

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 ほんの一瞬の間に、状況は一変した。 
 さくらには何が起こったのかわからなかった。
 ただ、気が付くと、初がさくらをぎゅっと抱きしめていた。
「はは…うえ…?」さくらはやっと出た声で、小さくそう言うと、やっと動き出した手で初の背中に手を回した。
 その手についた、嫌な感触。
 初は、力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
「はは…うえ…?」さくらはぺたんと座りこみ、もう一度つぶやいた。
「さ…くら…」初は蚊の鳴くような声で言い、さくらの頬に手を伸ばした。さくらはその手を掴み、母を見つめた。
 初はふわり、と微笑むとスッと目を閉じた。さくらが掴んでいた手は突然重くなった。
 目の前の光景が信じられなかった。さくらは声も出さず、動かず、初を見つめた。一筋の涙が、すー、と頬を伝っていくのがわかった。
「どけっつってんだよ、ガキが!」怒声にハッとし、見上げると、この世のものとは思えない形相をした男が、刀を振り上げていた。
 次の瞬間、その男はばたりと倒れた。目と口を虚ろに開け、横たわる男のさらに向こう側に、もう一人男が立っていた。
「ケガはねぇか」男はさくらを見てそう言った。さくらはぼんやりと頷いた。
「仇はとった」男は刀を収めた。
 男はすっとしゃがみ込むと、初をまじまじと見た。
「もう少し早く来ていれば…すまない」男はそう言うと、さくらの顔を見た。
 さくらも男の顔を見た。左頬に大きな刀傷のある男だった。まだハタチにもならないような若い男だ。
「じゃあ、俺は先を急ぐ」男はさっと立ち上がると、さくらの横を素通りして行ってしまった。
 残されたさくらは、まだ暖かい母を抱き、その場で固まっていた。

「さくらちゃん、もう三日もあんな調子ですね」
 一人の門人が、ぼんやりと縁側に座るさくらを見て言った。
 事情を聞きつけた試衛館周辺に住む門人たちが、すぐさま駆けつけ事後の雑事を手伝ってくれていた。門人たちも初の死を悼み、肩を落としていたが、誰よりも落ち込んでいるのは無論、さくらであった。
「……目の前で母親を斬られたんだ。傷はそう簡単には癒えねぇだろう」周助は静かに言った。
「しかし、あれじゃさくらちゃんの方が餓死してしまいますよ」門人は心配そうに言った。
「そうだな……」
 周助は放心状態の娘をじっと見つめた。周助自身、まだ気持ちの整理がついていない、というよりは、初の死を信じられなかった。
 いち早く事態を知った門人が試衛館に飛び込んできた時、周助は自分の耳を疑った。現場に駆けつけてみると、初の亡骸を抱いて、静かに涙を流すさくらの姿があった。
 葬儀も終わったばかり。周助は、まだ初がひょっこり買い物から帰ってくるような気がしてならなかった。
 ――だが、確かにこれじゃさくらが危ねぇな。
 周助は父親として、しっかりせねばとばかりに深呼吸し、さくらに近づいた。隣に腰を下ろすと、さくらが何を言っているのかわかった。
「さくらのせいだ……さくらの……」
 周助は力なく笑みを浮かべると、さくらの肩をぎゅっと抱き寄せた。
「そんなこと言うんじゃねぇ。お前はなんっにも悪くねぇんだ」
 さくらはぼんやりと周助の顔を見上げた。
「うっ…くっ…わぁぁーーん!!」
 この三日で初めて、さくらは声を上げて泣いた。
 一生分の涙を使い果たさんばかりに、さくらは泣いた。
 
 その後、さくらは半日ただ黙って縁側に座っていた。門人が出してくれたお粥がかろうじて喉を通った。まるで生まれて初めて食べ物というものを口に入れるような感覚だった。
 そしてその夜、周助とさくらは二つ並んだ布団の中で、眠れずに天井を見ていた。つい三日前まで、さくらの反対隣には初がいて、親子で川の字を作って寝ていたのだが。
「父上」さくらはぼんやりと、しかししっかりと、父を呼んだ。
「なんだ」周助はさくらの方に向き直った。
「さくらが剣術をやっていたら…もしさくらが強かったら…母上は死なずに済んだのでしょうか」
 周助は、さくらの思わぬ発言に目を見張った。
「お前、それを気にしてるのか?」
 さくらは黙っていた。周助はじっとさくらを見つめた。
「お前のせいじゃねえって、昼間も言っただろ?どっちにしても丸腰だったんだ。お前が心配する必要はなんにもねえんだ」
「父上」さくらはもう一度そう言い、むくっと起き上がった。背後から微かに差し込む月明かりで、さくらの輪郭はぼんやり光っていた。
 さくらは周助の方に向き直ると、手をつき、深く頭を下げた。
「私に、天然理心流を教えて下さい。…私は、強くなりたい」
 周助は驚き、ガバッと起き上がった。七歳の時とは違う真剣なその目に、周助はぽかんとしてさくらを見つめた。
「本気か?」
「本気です」
 周助は少し間を置いてから、微かに笑みを漏らした。
「初が死んだのはお前のせいじゃねえんだぞ?」
「いいえ。私が弱かったせいです。たとえ丸腰でも、心身ともに強ければ、あの時足がすくんだりしなかったかもしれません。そしたら、母上も私をかばって死ぬことなんかなかった…」
「さくら…」
「父上と母上がさくらと言う名に込めて下さった思いに、私は答えることができていませんでした。もう遅いかもしれないけど、これからは武士の心を持った、強い女になれるよう精進致します。それが、母上の望みでもあると思うから…」
 さくらはぎゅっと歯を食いしばった。
 周助は、急に大人びた雰囲気を纏った娘を、驚きの眼差しで見つめた。その目には強い決意が宿っているのが見て取れた。同時に、さくらが剣術を志すきっかけはいつも皮肉なものであることに心中で嘆いた。
「今度こそ本気なんだな」娘の視線に応えるように、周助はゆっくりと言った。さくらは頷いた。
「よし。さくら、お前に俺の天然理心流を叩き込んでやる。厳しいぞ。覚悟しろ」
 さくらは再び深々と頭を下げた。
「はい、よろしくお願いします」

 この日から、さくらの剣客としての人生が幕を開けるのであった。



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