浅葱色の桜

初音

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別れ。決意。①

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 弘化元(一八四五)年 初夏

 源三郎が元服した。幼名から名前を変えることもままあるが、源三郎は名前を変えなかった。農民や下級武士の家柄ではよくあることだ。
 近藤家の三人は近所の門人に留守番を任せて、日野の井上家で開かれた祝いの宴に駆けつけていた。
 ピシッとした羽織り袴を着て、頭を月代さかやきに剃った源三郎の姿に、さくらは違和感を覚えた。
「なんか、源兄ぃ、別人みたい……」
 そんなさくらの戸惑いをよそに、酒が注がれ周助が音頭を取る。
弥栄いやさか!おめでとう、源三郎!」
 カチャンカチャンと陶器がぶつかる音がする。さくらは杯を傾けると、初めて飲む酒の味にむせ込んだ。
「さくら、無理をしてはいけませんよ」
 初が咳き込むさくらの背中をさすった。さくらは落ち着くと、杯を置いた。
「はは、さくらはガキだな。源三郎を見習え」
 すでに顔を赤らめている周助がゲラゲラと笑った。
「源三郎、お前も大人になったんだ!飲め飲め!」
 周助に酌をされ、源三郎ははにかむように笑って受けた。
 だが、次第に大人たちは誰が主役なのかを忘れてしまったかのように、酔いに身を任せ大声で笑ったり踊り出したりする始末となった。
 源三郎はそんな大人たちに気づかれないようさくらを手招きすると、庭へと連れだした。 
「酒くさいんだよな、あの部屋」
 そう言うと、源三郎は納屋からはしごを持ってきて、屋根にかけた。
 さくらがそれをよじ登ると、源三郎もあとからついてきた。二人は屋根の上に着くと、ごろんと寝ころんだ。
「さくらとこんな風にのんびり話すの、久しぶりだな」
「うん、源兄ぃずっと試衛館来てなかったもんね」
 源三郎は、まあな、と笑いながら空を見上げた。橙色の空が徐々に暗くなっていく。
 さくらはその笑顔を見て、ああ、いつもの源兄ぃだ、と思った。
「さくら……もう剣術の稽古は全然してないのか?」源三郎がおもむろに言った。
「うん、さくらにはあんなキツい稽古ムリだよ」
 源三郎はそっか、と呟くと、むくっと体を起こした。
「さくら、私は天然理心流に入門したい。でも、父上が今病気で、もう長くはないみたいなんだ。だから、いろいろ大変なんだよな。私は三男坊だけど、やっぱり家のためにも兄上たちを助けていかないといけないだろうし……」
 さくらは目を丸くして源三郎を見た。
「なんだよ。父上の病気のこと、前にも言っただろ」
「そうじゃなくて、源兄ぃ、今自分のこと……」
 源三郎はニッと笑顔を見せた。
「俺も元服したんだ。こっちの方が、大人っぽいだろ?さくらだって、いつまでも自分のこと『さくら』なんて言ってちゃダメだぜ」
「ええ~?源兄ぃ、なんかヘンだよ。それに、さくらのことは大きなお世話っ」
 源三郎はおかしそうに笑うと、起き上がって空を見上げた。
「俺が天然理心流に入りたいって言ったことは誰にも言うな」
「じゃあ、なんでさくらには言うの?」
 源三郎は顔だけをさくらに向けて微笑んだ。
「こんな子供のわがままみたいなこと、兄上には言えないだろ」
 さくらは黙って源三郎を見つめた。やはりまだ慣れていないのか、源三郎はいつの間にかまた自分を「俺」と呼んでいた。
「だからさ、お前は恵まれてるんだから、気が向いたら剣術やってみろよ。俺の分もと思ってさ」
 さくらは「嫌」と、頭ごなしに即答するのをためらった。しかし、すぐにぷいっと顔を背けた。
「やだ。あんな疲れるのやんないもん」
 源三郎は少し呆れたように「はいはい」と言って笑った。
「さくらー?どこにいるのですー?」
 下から声が聞こえてきた。
「母上だ」さくらは慌てて身を起こした。
「源兄ぃも、そんなきれいな着物着てるのにこんなとこいたら怒られるよ」
「そうだな」 
 二人はゆっくりとはしごを降りた。
「母上ーっ!さくらはここにおりまーす!」

 ***

 季節が変わった。
 源三郎はやはり試衛館には来ていなかった。日野で家の用事に追われているらしい。さくらは相変わらず遊びまわったり、近所の寺子屋で読み書きを習ったりする日々を送っていた。 
 そうして、年の瀬も近づいたある日のことである。
「母上、お買い物ですか?」
 初が何やら外出の用意をしているので、さくらは駆け寄って尋ねた。
「ええ、もう年の市が始まっていますからね。しめ飾りを頼みに行かないと」初はにこりと微笑んだ。
「年の市!さくらもついていきます!」
「ふふっ、それじゃあ、さくらの羽子板も選びましょうね。綿入れを持ってきなさい」
「はいっ」

 さくらが綿入れを取りに行く間、初は外に出てぼんやりと灰色の空を眺めた。雪でも降りそうな空模様だ。
「お、買い物か?」通りがかった周助が言った。
「ええ。年の市に行ってきます。さくらも連れていきますね」
 周助は初をじっと見ると、少し表情を曇らせた。
「気をつけろよ。先月出た辻斬り、まだ捕まってないだろ。こういう年の瀬のどさくさに紛れて出てきかねねえからな」
「ええ。用事だけさっと済ませて帰ってきますから」
 初はそう言ってふわりと微笑んだ。

 年の市というのは神社の境内に屋台が並び、しめ飾りや、凧、羽子板といった正月用品が売られる期間限定の市場だ。江戸っ子にとっては冬の風物詩である。
 息が白くなるような寒さにもかかわらず、神社は活気あふれる江戸の民でごった返していた。 
 まず、二人はしめ飾りを扱う店に立ち寄った。大きな物だと手持ちで帰ることはできないので、大晦日までに届けてもらえるよう注文する。今年はさほど門人が増えなかったが、来年こそは増えますように、との願いをこめて前年より大きなものを選んだ。
 必要なものの買い出しもそこそこに、さくらと初は羽子板屋を見に行った。飾って置いておくためのごてごてとした装飾が施されているものから、実際に羽根つきをして遊べるように絵が描いてあるだけのものまで、豊富な種類が取り揃えられていた。
 さくらは目移りしながらも、実用重視で羽子板を選んだ。羽根つきで遊べるように二枚買ってもらい、嬉しそうに胸に抱えた。
「母上、お正月になったら、これで一緒に羽つきしてくださいね!さくらが勝ちますから」
 得意げに言うさくらを、初は微笑ましそうに見つめた。 
 一番賑やかな場所を抜けると、親子は参道を歩いて家路につこうとした。
 さくらがふと空を見上げると、白い粒がわずかにはらり、はらりと舞っていた。
「母上、雪が降ってきましたよ!」さくらは興奮して言った。
「あら、本当。積もる前に帰りましょう」
 その時だった。
「おーい、みんな、逃げろーっっ!!」
 どこからか男の声が聞こえた。
 初とさくらはぴたりと止まって、後ろを振り返った。
 さくらはその光景が信じられず、目をみはった。
 浪人風の男が、刀を振り回して走ってくる。狂ったように叫びながら走る男は、さくらたちの方にまっすぐ向かってくる。
「さくら!こっちへ!」初はさくらの手を引いて身を隠そうとした。しかし、さくらの足はすっかりすくんでしまってその場を動けない。
 あっという間に、刀を振り回している男はさくらの目の前に来ていた。 
「どけぇ、クソガキ!」
 恐怖がすでにさくらを支配し、さくらはただその男を見つめることしかできなかった。男は刀を振り上げた。
「さくら!」初の叫び声が響いた。 

 
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