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第三話 長屋生まれのゲンコツカレーパン
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月・火曜は、学校が終わってから店内の掃除をするだけだったので、四葉の負担は少なかった。
心が痛むのは、帰ってきたテストの点数がさんざんだったせい。
そして、翔太の不登校が続いているせいだ。
ベーカリー白鳥は、土曜から火曜までを営業日にしている。
水・木曜は、由岐の休日と安岐のレシピから新メニューを考える日を兼ねている。
営業日前日の金曜は、一日がかりでパン生地の仕込みをする日だ。
当日に仕込んで焼けるパンは少ない。
大抵、前日にこねて成形して一次発酵、さらに二次発酵している間に日をまたぐ。
オーブンに入れる時に生地が発酵しすぎていないよう、また発酵が完全に終わっているように、細かな調整をして仕上げるのが美味しさのコツなのだ。
厨房にあるホイロと呼ばれる発酵機械は、時間と温度を指定しておくと、ほどよく温まったり冷めたりしてくれるハイテクだ。
日本は湿度と気温の変化が激しい国なので、職人は毎日の肌感覚を頼りにして、生地の発酵時間や温度を細かく決める。
そのため由岐は、朝晩に天気予報を調べたり、作業の合間に外に出たりして、気候の変化を敏感に察せるようにしていた。
デニッシュなど油脂を多く練り込んだ生地は、バターを織りこんだ生地を冷蔵庫で十から十五時間冷やしてから成形する。
成形してから酸味が出ないように冷凍させるので、調理室には四葉が真上に手を伸ばしてやっと天辺に届くような巨大な冷凍庫もあった。
酵母菌は人肌くらいの温度で発酵する。
発酵とは、酵母菌が砂糖やデンプンを分解して炭酸ガスを作り出すことだ。その気泡により、こねられてできたグルテンの膜が膨らんで、ボリュームのあるパンになる。
「――砂糖とデンプンが分解される時には、炭酸ガスとアルコールが発生する。パンから酒の匂いを感じる人間がたまにいるが、あれは発酵が正しく行われた証だ」
「パン作りって化学の授業みたいだね」
由岐が完全休日となる水曜。
四葉は、学校を早退してベーカリー白鳥に向かった。
私服姿の由岐と合流して町に出て、彼のパン蘊蓄に耳を傾けつつ歩く。
どうしてパンにはあんなに種類があって、どうしてどれも美味しいのか不思議だったので、由岐の講義は高校の授業よりも面白かった。
「食いもんはだいたい化学だ。だが、パン作りは学校の実験みたいにはいかない。一般的な強力粉やフランスパン専用の粉、グラハム粉、ライ麦粉。生イーストや天然酵母、サワー種、ホップ種、果実種といった何百通りもある組み合わせを試して、より美味いパンを探す。砂糖やバターの配合も含めると、天文学的に無限の組み合わせだから、失敗もよくある」
「私には組み合わせる元が全然分かんないけど、天然酵母ってのは聞いたことがあるよ。白神山地でとれた白神酵母ってのがあるんだよね」
秋田の製パン工場で作られた白神酵母パンを食べたことがあるが、ふんわりした口当たりでまろやかだった。
由岐は「いつか俺も使ってみたい」と口にする。
「水や塩にこだわる職人もいるが、俺が師匠から学んだ極意は作りたいパンに適した粉と酵母を使って、その日の天気や気温によって生地に調整を加えることだ」
湿気の多い雨の日は水を控えめに。
バターの折り込みが悪い時は、わずかに発酵時間を長くして層が綺麗に出来るように。
伝統品を作る職人のような技を、パン職人は毎日、持ち場で発揮している。
四葉は、そうとは知らずに食べていたが、こんなに手間と時間をかけた贅沢な食べ物は他にないかもしれない。
「ここか。満開アパートは」
由岐が立ち止まったのは、駅裏にある古びた集合住宅の前だった。
赤さび色のトタン屋根が特徴の築四十年は経っている一階建てで、道路側から奥へと部屋が連なっている長屋のような建物だ。
むき出しの通路には鉢植えやシャベルなどさまざまな物が置かれている。
ここの一〇三号室に、助と翔太が暮らしているのである。
「助さんは、この時間は車検で留守にしてるの。翔太くんのお話を聞くなら今だよ。行こう!」
四葉がインターホンを押すと、ドアの向こうで人の気配がしてすぐに鍵が開いた。
顔を出したのは、スポーツメーカーのロゴがついたトレーナー姿の翔太だった。
「四葉ちゃん……と由岐さん。こんにちは、どうしたんですか?」
「由岐くんが食パンの試作品を作ったんだけど、食べきれないからお裾分けに来たんだよ。一緒に食べない?」
由岐が抱えてきた長方形の風呂敷包みをほどく。
細長いビニールに包まれた角形の食パンが顔を出すと、翔太の目が輝いた。
「ありがとうございます。ぼく、毎朝パンを食べるんです。入ってください」
翔太と助が暮らす部屋には、六畳の和室が二つと台所スペースがあった。
ステンレス製の流し台のうえには瞬間湯沸かし器、ガスコンロは後置きタイプと昭和からタイムスリップしてきたような設備だ。床板の傷や日焼けした障子に長い歳月が感じられるが掃除は行き届いている。
二十四型テレビのある居間に通された四葉と由岐は、丸いちゃぶ台についた。
柱に掛けられた商工会の日めくりカレンダーや折り紙が張られた父の日の色紙を眺めていると、翔太が冷やしたお茶を出してくれた。
「ごめんなさい。お茶請けのお菓子が何にもなくて」
「何にもいらないよ。いきなりきて上がりこんじゃった私たちが悪いんだし。ね、由岐くん」
「ああ……」
由岐の視線はテレビの任侠ドラマに釘付けだ。
昭和の名優が出ている画面は真四角で、左右が黒く塗りつぶされているし画質が洗い。
自分の分のグラスも運んできた翔太は、四葉と由岐の間に座った。
「嫌ならチャンネルを変えてください。お父さんが任侠ドラマばっかり見ているから、癖で流すようになっちゃったんです」
「俺は好きだ」
「私も嫌いじゃないよ。そういえば助さんは、義理と人情が厚い任侠映画に感化されて、黒羽組の門を叩いたんだよね」
助が組に入ったのは彼がまだ十代の頃だった。組長の家に住み込みで家事をする下っ端から、組長の補佐まで上り詰めた数少ない人物である。
花太郎の代から組員は助と賀来しかいないので、必然的に彼が補佐になるしかなかったのだが、役付きには違いない。
「お父さん、黒羽組に入れて良かったって言ってます。悪いことは絶対にしないし、シマの人の味方だからって。でもぼくは、極道を良く思わない人がいるって最近知りました」
「最近って、不登校になったのと関係がある?」
さりげなく聞いたつもりだったが、翔太は悲しそうに頷いた。
「進級して組替えがあったんです。そしたら、それまで別のクラスだった子が『お前の父さんはヤクザなんだろ』って言ってきたんです。ぼくが町を守る極道だって言っても『銀行口座も作れない、クレジットカードも作れない、犯罪者だ』って――」
「なにそれ!」
心が痛むのは、帰ってきたテストの点数がさんざんだったせい。
そして、翔太の不登校が続いているせいだ。
ベーカリー白鳥は、土曜から火曜までを営業日にしている。
水・木曜は、由岐の休日と安岐のレシピから新メニューを考える日を兼ねている。
営業日前日の金曜は、一日がかりでパン生地の仕込みをする日だ。
当日に仕込んで焼けるパンは少ない。
大抵、前日にこねて成形して一次発酵、さらに二次発酵している間に日をまたぐ。
オーブンに入れる時に生地が発酵しすぎていないよう、また発酵が完全に終わっているように、細かな調整をして仕上げるのが美味しさのコツなのだ。
厨房にあるホイロと呼ばれる発酵機械は、時間と温度を指定しておくと、ほどよく温まったり冷めたりしてくれるハイテクだ。
日本は湿度と気温の変化が激しい国なので、職人は毎日の肌感覚を頼りにして、生地の発酵時間や温度を細かく決める。
そのため由岐は、朝晩に天気予報を調べたり、作業の合間に外に出たりして、気候の変化を敏感に察せるようにしていた。
デニッシュなど油脂を多く練り込んだ生地は、バターを織りこんだ生地を冷蔵庫で十から十五時間冷やしてから成形する。
成形してから酸味が出ないように冷凍させるので、調理室には四葉が真上に手を伸ばしてやっと天辺に届くような巨大な冷凍庫もあった。
酵母菌は人肌くらいの温度で発酵する。
発酵とは、酵母菌が砂糖やデンプンを分解して炭酸ガスを作り出すことだ。その気泡により、こねられてできたグルテンの膜が膨らんで、ボリュームのあるパンになる。
「――砂糖とデンプンが分解される時には、炭酸ガスとアルコールが発生する。パンから酒の匂いを感じる人間がたまにいるが、あれは発酵が正しく行われた証だ」
「パン作りって化学の授業みたいだね」
由岐が完全休日となる水曜。
四葉は、学校を早退してベーカリー白鳥に向かった。
私服姿の由岐と合流して町に出て、彼のパン蘊蓄に耳を傾けつつ歩く。
どうしてパンにはあんなに種類があって、どうしてどれも美味しいのか不思議だったので、由岐の講義は高校の授業よりも面白かった。
「食いもんはだいたい化学だ。だが、パン作りは学校の実験みたいにはいかない。一般的な強力粉やフランスパン専用の粉、グラハム粉、ライ麦粉。生イーストや天然酵母、サワー種、ホップ種、果実種といった何百通りもある組み合わせを試して、より美味いパンを探す。砂糖やバターの配合も含めると、天文学的に無限の組み合わせだから、失敗もよくある」
「私には組み合わせる元が全然分かんないけど、天然酵母ってのは聞いたことがあるよ。白神山地でとれた白神酵母ってのがあるんだよね」
秋田の製パン工場で作られた白神酵母パンを食べたことがあるが、ふんわりした口当たりでまろやかだった。
由岐は「いつか俺も使ってみたい」と口にする。
「水や塩にこだわる職人もいるが、俺が師匠から学んだ極意は作りたいパンに適した粉と酵母を使って、その日の天気や気温によって生地に調整を加えることだ」
湿気の多い雨の日は水を控えめに。
バターの折り込みが悪い時は、わずかに発酵時間を長くして層が綺麗に出来るように。
伝統品を作る職人のような技を、パン職人は毎日、持ち場で発揮している。
四葉は、そうとは知らずに食べていたが、こんなに手間と時間をかけた贅沢な食べ物は他にないかもしれない。
「ここか。満開アパートは」
由岐が立ち止まったのは、駅裏にある古びた集合住宅の前だった。
赤さび色のトタン屋根が特徴の築四十年は経っている一階建てで、道路側から奥へと部屋が連なっている長屋のような建物だ。
むき出しの通路には鉢植えやシャベルなどさまざまな物が置かれている。
ここの一〇三号室に、助と翔太が暮らしているのである。
「助さんは、この時間は車検で留守にしてるの。翔太くんのお話を聞くなら今だよ。行こう!」
四葉がインターホンを押すと、ドアの向こうで人の気配がしてすぐに鍵が開いた。
顔を出したのは、スポーツメーカーのロゴがついたトレーナー姿の翔太だった。
「四葉ちゃん……と由岐さん。こんにちは、どうしたんですか?」
「由岐くんが食パンの試作品を作ったんだけど、食べきれないからお裾分けに来たんだよ。一緒に食べない?」
由岐が抱えてきた長方形の風呂敷包みをほどく。
細長いビニールに包まれた角形の食パンが顔を出すと、翔太の目が輝いた。
「ありがとうございます。ぼく、毎朝パンを食べるんです。入ってください」
翔太と助が暮らす部屋には、六畳の和室が二つと台所スペースがあった。
ステンレス製の流し台のうえには瞬間湯沸かし器、ガスコンロは後置きタイプと昭和からタイムスリップしてきたような設備だ。床板の傷や日焼けした障子に長い歳月が感じられるが掃除は行き届いている。
二十四型テレビのある居間に通された四葉と由岐は、丸いちゃぶ台についた。
柱に掛けられた商工会の日めくりカレンダーや折り紙が張られた父の日の色紙を眺めていると、翔太が冷やしたお茶を出してくれた。
「ごめんなさい。お茶請けのお菓子が何にもなくて」
「何にもいらないよ。いきなりきて上がりこんじゃった私たちが悪いんだし。ね、由岐くん」
「ああ……」
由岐の視線はテレビの任侠ドラマに釘付けだ。
昭和の名優が出ている画面は真四角で、左右が黒く塗りつぶされているし画質が洗い。
自分の分のグラスも運んできた翔太は、四葉と由岐の間に座った。
「嫌ならチャンネルを変えてください。お父さんが任侠ドラマばっかり見ているから、癖で流すようになっちゃったんです」
「俺は好きだ」
「私も嫌いじゃないよ。そういえば助さんは、義理と人情が厚い任侠映画に感化されて、黒羽組の門を叩いたんだよね」
助が組に入ったのは彼がまだ十代の頃だった。組長の家に住み込みで家事をする下っ端から、組長の補佐まで上り詰めた数少ない人物である。
花太郎の代から組員は助と賀来しかいないので、必然的に彼が補佐になるしかなかったのだが、役付きには違いない。
「お父さん、黒羽組に入れて良かったって言ってます。悪いことは絶対にしないし、シマの人の味方だからって。でもぼくは、極道を良く思わない人がいるって最近知りました」
「最近って、不登校になったのと関係がある?」
さりげなく聞いたつもりだったが、翔太は悲しそうに頷いた。
「進級して組替えがあったんです。そしたら、それまで別のクラスだった子が『お前の父さんはヤクザなんだろ』って言ってきたんです。ぼくが町を守る極道だって言っても『銀行口座も作れない、クレジットカードも作れない、犯罪者だ』って――」
「なにそれ!」
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