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第二話 おしどり夫婦のハニークロワッサン

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 由岐がベーカリー白鳥を再始動させようとしている。
 四葉が話をすると、康三は快く内装の工事を引き受けてくれた。
 死ぬまで現役が合い言葉の七十代で、仕事がなくてもニッカポッカを履いているおじいちゃんだ。
 料理の最後に振るゴマみたいにほんの少し黒が混じった白髪はサッカー少年のように刈り上げていて、背中は少し曲がっているが日焼けした腕は筋張っていて太く、棟梁を張っていてもおかしくない貫禄だ。
 妻である光恵(みつえ)と二人暮らしで、おしどり夫婦なのも四葉は好きだった。

「天板は抗菌仕様のを注文したから、それに合ったサイズにしてくれ。最低限、崩れなけりゃなんでもいい」

「由岐、おめえ本職を舐めてんじゃねえぞ。てめえが老いぼれて閉店するまで持つようなの作ってやるわ」

 耳に鉛筆を挟み、青い掛け線の入った設計用紙を持ってきた康三は、由岐と相談して設計図を描くと、すぐにホームセンターに走った。
 軽トラに角材と合板を乗せてきて、さっそく陳列台作りに取りかかる。
 康三は、手伝いの助に指示して板から棚を組み上げていった。
 レジを載せる台は補強のための壁を作り、横に長い陳列台は掃除がしやすいように足を際立たせる。
 壁際に打ち付けたのは、食パンを冷ましておくための棚だ。
 食パンは、2斤の型で焼き上げた後、1斤ずつに切り分けるが、焼き上がりから一時間ほどかけて粗熱を取らないと、刃の圧力に負けて潰れてしまう。
 テキパキとした手際に、四葉は暖簾のそばから歓声を送った。

「康三さん、迷いがないね。さすが元棟梁!」

「へへん。これが本職の底力よ。オレは、頭にスーパーコンピューターが入ってるからなぁ。その場にぴったしのかっこいいのが作れるんだ」

 康三は自慢げに鼻の下を指でこすった。
 三人で休憩用の缶コーヒーを開けると、調理室から由岐が出てきた。

「四葉に嘘を教えてんじゃねえよ。あんた、ジジイが店をやってた頃の内装に似せて作ってるだけだろうが」

 由岐が差し出したのは真新しい天板だ。
 焼きたてのクロワッサンが八つ載せられていて、ほかほか上がる湯気にのってバターの甘い香りがする。

「いい匂いがする!」

 クロワッサンは四葉の大好物だ。たっぷりミルクを入れたカフェオレと一緒に食べるのが最近のお気に入りである。
 普段は食パン派の康三は、「久しぶりだ」と言いながらクロワッサンを取り上げてもしゃりと噛んだ。

「思い出の建具とそっくりに作れるのもオレの技量よ。それにしても丸くなったなぁ由岐。毎日殴り合いしてたおめえがパン職人になるとは、安岐も想像してなかったろうさ」

「いや、ジジイは分かってた。お前はパン職人にしか成れねえって言われてたんだ」

 初耳だった四葉は、二個目に伸ばした手を止めて首を傾げた。

「安岐おじいちゃんは、由岐くんに適性があるのを分かってたのかな?」

「適性がどうというより、パン職人は腕っぷしが強くないとダメなんだ。俺が修行してた店は、昔ながらの手ごねで生地を作ってた。重たい生地を持ち上げて、麺台になんべんも叩きつけるんだ。並みの打撃力じゃやってけねえ」

 好戦的な由岐にしては珍しく「師匠とは一度も喧嘩しなかった」そうだ。
 殴り合ったら負けると直感で分かるくらい、鍛えられた上腕二頭筋の持ち主だったという。

(パンと師匠の話しかしないけど、ファビュラスな彼女はいたのかな)

 四葉は、もやもやを再燃させながら、二個目のクロワッサンを口に入れた。
 先ほどと同じく幸せな気持ちになるはずなのに、なぜだか今回は胸が弾んだ。
 丸められたデニッシュ生地は皮がパリパリで、幾重にも折り重なった層が美しい。左右対称な三日月型も美しく、薫るバターの味わいは高貴で洗練されている。
 恋にうつつを抜かしていて、こんな美味しいパンが作れるだろうか。

「……でも、海外生活を送るうちに、マリーアントワネットみたいな絶世の美女に声を掛けられたりしたことも、一度くらいはあるかも……」

 ぶつぶつ言いながら三個目のクロワッサンに手を出す四葉を、由岐は片手ではたき落とした。

「味見は二個までだ」

「由岐くんのケチ。まだたくさんあるじゃない」

「持たせる分が無くなるだろ。光恵ばあちゃん、ジジイのクロワッサンが好きだったじゃねえか」

「ああ、覚えてくれてたかい。ありがとうな、由岐」

 康三は、口元で笑いながらしょんぼりとうな垂れた。

「だが、光恵は由岐が作ったと言っても分からないかもしれねえ。最近、物忘れが酷くてなぁ。道が分からなくなることも多いんで、病院で検査してもらったら認知症って診断がついたのよ。古い家だと生活がし難くなるから、思いきって二人で老人ホームに入ることにしたんだ。だから、大工仕事はこれで仕舞いだな」

 棚を見上げる康三の寂しそうな言葉が、四葉の耳に残った。
 作りかけの台はそのままに、トンカチなどの道具を片付けた康三は、由岐が紙袋に詰めたクロワッサンを土産に帰って行った。
 四葉が道路に出て小さな背を見送っていると、由岐に呼び込まれる。
 戸の中に入ると、由岐は腕を組んで調理室との境の柱に寄りかかっていた。

「光恵ばあちゃんは、いつからそんな感じになってたんだ?」

「物忘れが酷くなったのはここ一年くらいかな。帰り道が分かんなくなって迷ってるのを私が見つけて、おうちに連れてってあげたら、康三さんが認知症で通院してるって話してくれたの。黒羽組から要請を出して、角館のみんなで協力して見守ってきたんだよ」

 商店街や昔からの住民は、康三に家を建ててもらった者も多く、光恵の見守りに協力的だった。
 困っているときはお互い様の精神が生きているのも田舎ならではだ。

「光恵さんは徘徊とかはしてないの。そこまで問題ないのに老人ホームに入るってことは、康三さんはよりよい生活のために思いきったんだね」

「……お前、見てなかったんだな」

「なにを?」

 不思議がる四葉に、由岐は深い溜め息を一つ吐いた。
 そして、暗くなったら再び家に来いと命じて、助と共に追い出したのだった。

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