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第一話 シノギは愛されベーカリー
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「わっ?」
引っ張られて立ち上がった四葉は、そのまま屋敷を突っ切って道路に出た。
黒羽家の家屋がある武家屋敷通りは、角館きっての観光地だ。
観光客がどっと増える桜の季節は、秋田では四月前半から半ば。昔はゴールデンウィークでも花見ができたが、最近の異常気象で開花時期はどんどん早まっている。
雪と花の季節に挟まれた三月の夜は完全に人通りがない。
黒く塗られた塀が続く道を歩いていると、枝垂れた木が風に軋む音がする。
(春が近づいてる音がする)
雪国では冬はシンと静まり返る季節だ。積もった雪が全ての音を吸収してしまう。
春が近づくと、まるで生き物たちが目を覚ましたようにあちこちから音がする。
水の音、木の音、風の音。耳に届く自然の便りは、厳しい冬を乗り越えた人間へのご褒美なのである。
街灯が照らす道を由岐は迷わず進んでいく。彼の呼吸は降り積もる根雪のように静かだ。気忙しいのは、後ろから追いかけてくる助だけである。
「由岐、お嬢を離せ! 黒羽組に喧嘩売ってんのが、ごら!」
「ガタガタ震えながら言われても怖くねえんだよ。ばーか」
不敵に振り向いた由岐に、助はカチンと来たらしい。足音が荒っぽくなった。
「ちょっと由岐くん、助さんをからかわないで! 助さん、帰っても大丈夫だよ。由岐くんは、昔のお家を見たいだけなんだから」
「そんな無責任なごと先代に誓ってでぎねえっすよ。お嬢!」
助と鬼ごっこ状態のまま、由岐は武家屋敷通りを出て裏の小道に入った。
凍結と解凍を繰り返して凸凹になったアスファルトを二軒分進んだところで、ようやく立ち止まる。
「意外と変わんねえもんだな。当然か。たった三年だし」
目の前にあるのは、江戸時代の町家を思わせる古民家だった。
木で組まれた壁や格子戸は、柿渋と松木を焼いた煤で真っ黒く塗られている。軒にはくすんだ水色の廂が下がっていて、白鳥のイラストと『ベーカリー白鳥』という店名が読み取れた。
カーテンをしめた戸には閉店のお知らせが張られているが、字はすっかり褪せてしまってほとんど読み取れない。
ともすれば時代劇に出てきそうな雰囲気のここが、四葉が安岐から受け継いだ建物である。
角館で一番愛されたパン職人の安芸は、十年前に体を壊して惜しまれつつ引退し、二年も経たずにこの世を去った。
唯一の肉親で、大切な孫の由岐一人を残して。
「開けろ」
由岐に顎で命じられた四葉は、ドキドキしながら鍵を鍵穴に差し入れた。
格子戸が四枚並んだ間口は、由岐が旅立った三年前から閉ざしたままだ。錆び付いていないか不安だったが、あっさりと錠が回る。
「開いた……」
四葉が鍵を引き抜くと、由岐は戸を開いて入り口近くにあった照明スイッチを上げた。
六畳ほどの広い土間には何もない。ぽっかりと空いている。
安岐が現役だった頃は、公民館にあるような長テーブルが二つ置かれ、焼きたてのパンが天板ごと置いて並べられた。
開店している間は、あんパン、クリームパン、チョココロネ、メロンパン、焼きそばパン、食パンといった様々な種類のパンが、次々と焼き上がっていった。
美味しそうな匂いに誘われた客がふらりと入ってきて、パンでいっぱいになった紙袋を抱えて笑顔で出ていく店の奥で、安岐はパンを拵えていた。
学校から帰ってきた由岐と四葉が顔を見せると、パンを一つ食べさせてくれた。代金は出世払いでいいぞ、と豪快に笑う顔を今も覚えている。
思い出に浸る四葉とは対照的に冷静な由岐は、調理室への入り口にかかった暖簾を手で退けた。
「……あった。埋蔵金」
引っ張られて立ち上がった四葉は、そのまま屋敷を突っ切って道路に出た。
黒羽家の家屋がある武家屋敷通りは、角館きっての観光地だ。
観光客がどっと増える桜の季節は、秋田では四月前半から半ば。昔はゴールデンウィークでも花見ができたが、最近の異常気象で開花時期はどんどん早まっている。
雪と花の季節に挟まれた三月の夜は完全に人通りがない。
黒く塗られた塀が続く道を歩いていると、枝垂れた木が風に軋む音がする。
(春が近づいてる音がする)
雪国では冬はシンと静まり返る季節だ。積もった雪が全ての音を吸収してしまう。
春が近づくと、まるで生き物たちが目を覚ましたようにあちこちから音がする。
水の音、木の音、風の音。耳に届く自然の便りは、厳しい冬を乗り越えた人間へのご褒美なのである。
街灯が照らす道を由岐は迷わず進んでいく。彼の呼吸は降り積もる根雪のように静かだ。気忙しいのは、後ろから追いかけてくる助だけである。
「由岐、お嬢を離せ! 黒羽組に喧嘩売ってんのが、ごら!」
「ガタガタ震えながら言われても怖くねえんだよ。ばーか」
不敵に振り向いた由岐に、助はカチンと来たらしい。足音が荒っぽくなった。
「ちょっと由岐くん、助さんをからかわないで! 助さん、帰っても大丈夫だよ。由岐くんは、昔のお家を見たいだけなんだから」
「そんな無責任なごと先代に誓ってでぎねえっすよ。お嬢!」
助と鬼ごっこ状態のまま、由岐は武家屋敷通りを出て裏の小道に入った。
凍結と解凍を繰り返して凸凹になったアスファルトを二軒分進んだところで、ようやく立ち止まる。
「意外と変わんねえもんだな。当然か。たった三年だし」
目の前にあるのは、江戸時代の町家を思わせる古民家だった。
木で組まれた壁や格子戸は、柿渋と松木を焼いた煤で真っ黒く塗られている。軒にはくすんだ水色の廂が下がっていて、白鳥のイラストと『ベーカリー白鳥』という店名が読み取れた。
カーテンをしめた戸には閉店のお知らせが張られているが、字はすっかり褪せてしまってほとんど読み取れない。
ともすれば時代劇に出てきそうな雰囲気のここが、四葉が安岐から受け継いだ建物である。
角館で一番愛されたパン職人の安芸は、十年前に体を壊して惜しまれつつ引退し、二年も経たずにこの世を去った。
唯一の肉親で、大切な孫の由岐一人を残して。
「開けろ」
由岐に顎で命じられた四葉は、ドキドキしながら鍵を鍵穴に差し入れた。
格子戸が四枚並んだ間口は、由岐が旅立った三年前から閉ざしたままだ。錆び付いていないか不安だったが、あっさりと錠が回る。
「開いた……」
四葉が鍵を引き抜くと、由岐は戸を開いて入り口近くにあった照明スイッチを上げた。
六畳ほどの広い土間には何もない。ぽっかりと空いている。
安岐が現役だった頃は、公民館にあるような長テーブルが二つ置かれ、焼きたてのパンが天板ごと置いて並べられた。
開店している間は、あんパン、クリームパン、チョココロネ、メロンパン、焼きそばパン、食パンといった様々な種類のパンが、次々と焼き上がっていった。
美味しそうな匂いに誘われた客がふらりと入ってきて、パンでいっぱいになった紙袋を抱えて笑顔で出ていく店の奥で、安岐はパンを拵えていた。
学校から帰ってきた由岐と四葉が顔を見せると、パンを一つ食べさせてくれた。代金は出世払いでいいぞ、と豪快に笑う顔を今も覚えている。
思い出に浸る四葉とは対照的に冷静な由岐は、調理室への入り口にかかった暖簾を手で退けた。
「……あった。埋蔵金」
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