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「……あ?」

 ぽつりと声を漏らしたのは、リリオだったか、あるいはクラスだったか。
 日が沈みかけているとはいえ、まだそこそこの賑わいを見せていた大通りが、痛いほどの静寂に包まれる。

 刺すような沈黙と緊張。それは――少しでも動けば死ぬ、という人々の本能ゆえのもの。

「乗合馬車が……」

 先程まで一片たりとも止まる要素を見せなかった乗合馬車は、完全に止まっていた。横転し、馬の頭は潰れ、横転した時に投げ出された御者は地面に倒れたまま動かない。
 横倒しになった箱馬車の車両はぐしゃりと歪んで潰れていた。

 ――それらは全て。
 空から飛来した、大型の【黑妖ノワール】の仕業だった。


【――■■■■■!!】


 黒き妖魔が、咆哮する。
 瞬間生まれた竜巻のような突風に、とても目を開けていられない。

「く……ッ!」

 鋭い鉤爪のついた足で馬車を踏みつけにしている【黑妖】は、まるで御伽話に出てくる飛竜《ワイバーン》のごとき姿だった。堅い鱗と【黑妖】特有の黒い霧に覆われた姿は、少しでも動けば死ぬと思わせるような威容である。

大妖級アーク……いや、これは、災害級ディザストロか!)

 大妖級は【黑妖】のランクにおいて下から二番目だが、それでも初級魔法を当然のように使いこなす。聖騎士数名でも相手をするのに苦労するような大物も珍しくない。
 しかし災害級ともなれば、さらに使う魔法の威力が跳ね上がる。先程の突風からも莫大な魔力を感じ取った。奴は風の魔法を使うらしい。

「本当に、エルメルは……どうなってるんだ」

 災害級など、【黑妖】の出没が最も多い南の都市でもあまり見かけない大物だ。
 まさか公都の中心近くにまでこんなものが出るとは。どうして、常駐している聖騎士からそのように報告がないのか。
 ……いや、そんなことを考えてる場合ではないな。

(一刻も早く、手練れの聖騎士の救援を呼ばないと――!)


「――アイリス!」


 瞬間、クラスが横転した乗合馬車を見て叫んだ。

 アイリスとは誰だ、と、そう考えるよりも先に視界に入った光景に息を呑む。
 横転して潰れかけた馬車の隙間から、腕を縛られた少女が這い出てきている。額から血を流しながら、懸命に身体全体を動かして。

 だが、すぐそばには災害級の【黑妖】がいる。

(どうする……)

 手足が、震えた。

 ……水魔法の初歩で手一杯の自分に、災害級の相手など務まるわけがない。
 リリオは背負った弓に手をやろうとしながらも、同時に後ずさる。

 立ち向かう覚悟を決めるには、目の前にいる【黑妖】はあまりにも禍々しかった。

「アイリス! 逃げろ、アイリス! くそ……っ!」
「だめだ待て、クラス! お前じゃあ無理だ!」

 走りだそうとするクラスの腕を掴み、無理矢理引き止める。紙のように白い顔になったクラスが弾かれるようにこちらを振り返り、「じゃあどうしろってんだよ!」と叫んだ。

「――このままじゃあいつが死ぬだろうが!」

「っ……!」

 そうだ。その通りだ。このままじゃきっと彼女は死ぬ。

(けど、僕に何ができる?)

 落ちこぼれなのだ。リリオ・レックスは、生まれた時からの出来損ないなのだ。


『最弱の水魔法。しかも、威力も中途半端とは。これがレックス家の長子か、嘆かわしい』
『おかわいそうなことだ、兄上。まったく、俺とあなたの立場さえ違えば、兄として弟に劣後する惨めさを味わうことはなかったでしょうにねえ』


 弟に劣り、親に嘲られ、友人に憐れまれ、素質を認めてくれたのは聖騎士長だけだった。
 だから――。

「離せ! お前が行かないなら俺が行く!」
「クラス、」
「人は死んだらそれで終わりだ! 死ねばもう誰も救うことができないんだよ!」

 悲痛な叫び声は、まさしく真理だった。
 少女は、自分の生存に気付いた妖魔が、その鉤爪を振り下ろそうとしていることに気付いていない。今から行っても確実に間に合わない。

(――本当に?)

 諦めているだけじゃなんじゃないか。はなから、自分では無理だと決めつけて。

 リリオは。
 リリオ・レックスは。

(聖騎士長様のような、誇り高き聖騎士になるためにここに来たんだろ……!)

 自分が弱いから、才能がないから、それがどうしたというのだ。
 命を落としたって、人を守るのが聖騎士だろうが――!

「違う、クラス」

 気づけば、口が勝手に言葉を紡いでいた。


「君が行く必要はないんだ。……僕が、行くから!」
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