たった一度の、キセキ。

雨音

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5 茜くんと謎のノート上

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『ひな! だいじょうぶ?』
 甲高い声を上げて、こちらに走ってくるのは水色のスモッグを来た小さな男の子だった。その手には、どこからかつんできたらしい小さな白い花。
 私ははた、と顔をあげた。幼稚園のそばにある、少しだけ広い公園の、芝生の上。
 そしてすぐに、ああこの子は蒼だ、と頭のどこかで声がした。――五才のころの、蒼。
『ひっく、う、いたい~……。』
『な、なくなよ! ほら、これ、あげる!』
 私は、ついさっき転んだ時にすりむいたひざが痛くて泣いていた。
 蒼はわんわん泣く私を見ておろおろしながら、私に白い花と、クローバーを差し出す。
『四つ葉のクローバー。持ってると、しあわせになるんだって。あかねにおしえてもらったから、クローバーいっぱいあるところでさがしてきた!』
『しあ、わせ……?』
『うん。だからすぐにいたいのもとんでっちゃうよ。ね?』
 ほら、と蒼がもう一度、私に向けて白い花とクローバーを差し出した。
 涙をこぼしながら受け取って。ひざが痛くて、でも、それ以上に蒼が私のために花をくれたのが嬉しくて。
 蚊の鳴くような声だったけれど、私はしぼり出すように言った。
『ありがと、蒼……。でも、いいの? 私がもらっちゃって。蒼がみつけたんでしょ?』
『どーいたしまして。いーの、だいじょうぶ。これからつらいことがあったりしたら、おれがまたこうやってたすけてあげるからな!』
『ほんと?』
『ほんと。だからひな、大きくなったらおれのおよめさんね? そうしたら、ずーっとおれがひなをまもってあげられるから!』
 蒼はそう言って、私の両手を取った。
 私は夢を見るような心地で、うなずいて、言う。

『――うん! ずっとずっと、一緒だよ!』



  *



 目を閉じているはずなのに、朝日がまぶしい。光が、目の奥で瞬く。
 うーん、と小さくうめいて丸まった。おかしいな、シャッターを閉めてから寝たんだから、朝日がダイレクトに顔に当たったりしないはずなのに。
「あと十分……。」
「いいけど、朝ごはん冷めちゃうよ?」
「ん~……うん⁉」
 がば、と飛び起きる。布団をはねのけ、勢いよく顔を上げる。
 はねのけた掛け布団がぶつかりそうになったのか、「おわ!」と言って一歩あとずさったのは、
「あ……茜くん⁉」
「うん、おはよひな。やっと起きた?」
「ななななななんで茜くんが私の部屋に⁉」
 ってことはさっきのセリフは茜くんか! 
朝ごはんを作ってくれたのはありがたいけど……そうじゃない! いくら幼なじみとはいえ、勝手に入ってこられるのは困ります!
「だってひな、全然起きてこないからさ~。起こしに来たんだよ。」
「いや、だからって、ノックとか……!」
「したって。ドンドンって、けっこう大きな音で叩いてみても、なんも言わなくて、一瞬焦ったこともあったかな。」
「うっ……。」
「途中からソーラン節のリズムで叩いてたのに、ぜんっぜん気づかなかった?」
「私の部屋のドアでタイコの達人しないでもらっていいかな……。」
 まあ確かにおっしゃるとおり、ぜんっぜん気づかなかったんですけど。
 はー、とため息をついてベッドから降りる。――部屋の窓のシャッターはすでに開いていた。茜くんが明けてくれたんだろう。
「シャッターとかいいから、起こしてくれたらよかったのに。」
「んー、だって、ひなの寝顔、ちょっとだけ見たかったしさ。可愛かったよ?」
「ぎゃー⁉ っちょ、ちょっと茜くん、なんッてこと言うの‼」
「え? じゃあなんて言えば……あ、子どもみたいに口開けて寝てたぜ。癒された。」
「なお悪い‼」
 なんてことだ、恥ずかしすぎる。思わず呻いて顔を覆う。
 好きな人にそっくりで、しかも大人っぽくてかっこいい年上の男子に、口を開けて寝ているところを見られたなんて。
うう、なんて地獄だ。穴があったら入りたい。いやむしろ穴を掘って入りたい。
「ああもう……!」
 思考を切り替えるために、私は大きくかぶりを振った。
 だめだ、もう気にしていたら体がもたない。茜くんのやることは、全部そのまま受け取るのではなく、半分くらいと思って受け止めていた頬がいいかもしれない。
「気持ちよさそうに寝てたけど、どう? 何かいい夢とか見てた?」
「私の眠りについてはもういいでしょう……」
 げんなりしながらそう応え、私は項垂れた。
……ああでもそういえば、たしかに、今日はいい夢を見た。
五才のとき――私たちがまだ、ごくごく狭い世界の中で生きていたとき。幼稚園に通っていた、蒼とも仲良しだったときの夢。
しかも、なんと、その夢の内容は結婚の約束を交わしたときの内容だった。現実ではふられているぶん、自分の失恋が心に重く響く。
――けど、幸せな頃の夢だったなあ。
蒼は、昔からずっと優しい子だった。あの夢の中でそうしたみたいに、四つ葉クローバーを、自分が見つけた大切な何かを誰かのために譲ることができる子。自分ではなく、誰かの幸せを願うことができる優しい子。
やっぱり、蒼が理由も何もなく、ひとの告白の手紙をあんなふうに扱うとは思えない。……それに。昨日の、茜くんと蒼のやりとりは、なんだか意味深だった。
茜くんが蒼に向かって言っていた、「他人の名前出さないと、自分の気持ちすらまともに話せないのかよ」っていう言葉は、どういう意味なんだろう? 佐古くんといい感じ、というのは口実で、それがなかったら自分の気持ちを私に伝えることもできない、ということ?
 ――じゃあ蒼の真意というのは、何?
「どうかしたか、ひな? なんか、浮かない顔だけど。」
「ううん。……大丈夫。」
黙り込んだ私を不思議に思ったのか、茜くんが顔を覗き込んでくる。
私は慌てて笑顔を作ると、そう答えた。
「そっか。じゃ、そろそろ朝ごはんにしよ。……あ、ひなは洗面所に行ってきな、盛大に寝ぐせがついてるから。」
「茜くん‼」
「あはははっ!」
怒って声を上げるも、茜くんにはのれんに腕押しのようだ。楽しげに笑いを上げる彼に、反省の様子は見られない。
今さからかもしれないけど、少しはもっといい姿でいたい。自分がどんな顔をしているのかわからない寝顔なんて、誰にも見られたくないよ、普通。
「今度は絶対、私が茜くんの部屋に侵入して、寝顔を見てやるんだから……!」
「へー。やれるものならやってみな? 楽しみにしてる。」
 朝が早い茜くんが、にまにましながら私を見ている。
 うう、今に見てろ、茜くん。いつか絶対に茜くんより早く起きて、寝顔をおがんでやるんだから……!

 

 *



 今日は日曜日。
昨日の土曜日はデートだったので、茜くんが家出してきて私の家に居候するようになってから、今日がはじめてまる一日、家の中で一緒にいることになる日だ。
私はカフェオレを飲みながら、茜くんの作ってくれた朝食を見下ろす。
朝ごはんは玉子サンドに、切ったオレンジだった。玉子サンドは、わざわざゆで卵を作って切って、マヨネーズとコショウで和えたものを、パンで挟んだ茜くんの手作り。しかもパンは、丁寧に耳が取り除かれている――とても、手がかかっている朝食だ。
茜くんは、デザートのオレンジにかぶりつきながら、朝のニュースを見ている。
その横顔もとても整っていて――蒼に似ているとか関係なく、イケメンだなあ、なんて思った。
「ん? なに、ひな? オレの顔になんかついてる?」
 私の視線に気がついた茜くんが、私を見て、こてんと小首をかしげた。
 あ、あざとい……。
「ううん、そうじゃなくて……えっと、」
 茜くんは、かっこいい。……ちょっとイタズラ好きなところもあるけど、優しいし、面倒見もいいし、たまにかわいいし、料理だってできる。茜くんほどのイケメンに、こんな手のかかった朝ごはんを出してもらえたら、もしも好きな人がいなかったら、きっとコロッといってしまっただろう。
――茜くんは、私のことを可愛いと褒めてくれて、他の男に気安く触られたりしないで、なんて怒ってみせたりする。私をひどく振った蒼には厳しい態度だし、昨日だってなんだか怒っているようだった。
妹のように思ってくれているからほめてくれたり、近くにいる男の子を警戒したりするのか、それとも……何か別の気持ちがあるのかはわからないけど。
茜くんほどになると、きっと女の子だって放っておかないだろう。
……もしも茜くんにとって、私がただの『妹分』で、彼に彼女がいたとしたら――今の状況って、ちょっとまずいんじゃないかな、って。
ふと、思ったのだ。
「あのさ、茜くん。」
「なに?」
「茜くんって……彼女とか、いたことある?」
 聞くと。
 茜くんの顔が、明らかに不愉快そうにしかめられた。
「……は? なんで?」
「え、いや……もし今茜くんに彼女がいたとしたら、今私の家で二人で生活してるの、まずいんじゃないかって、今さらだけど思って……!」
「……本当に今さらだな。」
 慌てて言うと、はあ、とため息をついた茜くんがオレンジの皮を置いて頬杖をついた。
 そして、妙にじとっとした目でこちらを睨みつけてくる。
「彼女はいない。というか、もしもそんなのがいたとしたら幼なじみの女の子の家に転がりこんだりしないって。フツーに浮気だろ、それ。」
「だ、だよね……!」
「それから、彼女はそもそも作ったことない。ずっと独り身だよ。」
「えっ⁉」
 これにはさすがに驚いて、素っ頓狂な声を上げてしまった。
 茜くんのジト目が、あきれたような、そしてどこか面白がるような目に変わる。
「なんだよ、そんなに意外?」
「意外だよ! だって茜くん、もてるでしょ? かっこいいし、優しいし……。」
「……まあ、もてるのは否定はしないけど、」
「しないんだ……。」
「しない。別に嘘をつく理由もないしな。……でも、いくらもてたところで、意味なんかないよ。」
「え……?」
 茜くんが、ふと目を細める。
 ――ひどくさびしげな、辛いことをこらえるような、そんな表情。
「どんな女の子に好かれたって、好きな子と付き合えないなら意味ないだろ。」
「茜くん……、」
「――忘れられないやつがいるんだ。そいつでなきゃ、ダメなんだ。」
 くしゃり、と。
 苦しそうに微笑んだ茜くんが、つい数日前、蒼に振られて泣いていた自分と重なる。
 彼の頬にも、目にも、涙はない。でも確かに茜くんは、泣いていた。
「好きな人が、いるんだね……。」
 きっと茜くんは、その人に失恋したんだね。それでその人のことを、今でも忘れられないんだ。
……蒼への気持ちを捨てられない私と、同じように。

  
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