たった一度の、キセキ。

雨音

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3 佐古くんと私

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ピピピピ、ピピピピ。

 鳴り続ける目覚まし時計を止めて、私は目をこすりながら起き上がった。
 いつものように半分眠ったまま着替えて、洗面所で顔を洗って、そしてリビングに行く。
「おかあさーん、おはよ~……。」
「おはよ、ひな。まあオレおばさんじゃないけど。」
「んえ……あッッ‼ 茜くん⁉」
「うん。はは、ひな、寝ぐせついてる。」
 おかしそうに笑ったのは、白いTシャツに黒いスウェットの茜くん。
 そ、そ、そうだった! 昨日から茜くんが家にいたんだった! 寝ぼけまなこでリビングに来て、お母さ~ん、なんて言って、寝ぐせまで見られちゃった。恥ずかしい……。
「そんな縮こまんなくたっていいじゃん。かわいーよ、寝ぐせ。」
「うう、からかわないでよ茜くん……。」
「からかってないって。」
 くすくす笑う茜くんは、「パン焼けてるぞ。」と言ってキッチンに行く。コーヒーの香りもするので、どうやら、飲み物も淹れてくれたらしい。立つ瀬がない。
 私は肩を落としながら、洗面所に戻る。
茜くんの作った朝ごはんを食べて、家を出る。ベーコンエッグの乗ったトースト、すごくおいしかった……。茜くん、なんでもできるんだなあ。
家出中の茜くんは、学校もサボってしまうらしい。出席日数はまだセーフ! とニヤッと笑う茜くんは、ちょっとだけワルに見えた。
「おはようひな!」
「あ、おはよ、理子。」
昇降口で会った、小学校からの友人の理子とともに、クラスへ向かう。
階段を上りながら、理子はどこかニマニマしながら聞いてくる。
「なーんかひな、機嫌良くない?」
「えっ、そう?」
「もしかして~、上手くいったの⁉」
コ、ク、ハ、ク!
声に出さないように、唇の形だけでそう言った理子に――一瞬で血の気が引いた。
……そうだ。私、蒼に手紙を書いて、渡して、それで……。
「……っ!」
「えっ、あれ? ひな?」
茜くんが来て、なぐさめてくれて、現実から目を背けていた。
そうだ。私蒼に振られたんだ。……昔からずっと好きだった、蒼に。
私の様子を見て、理子が『しまった』という表情になった。
理子は昔からずっと、私の恋愛相談を聞いてくれていた。私の顔色の変化なんて、すぐにわかってしまうのだ。
「ひな……、もしかして、ダメだったの? お断りメッセとか来ちゃった?」
告白の方法が手紙だったので、直接断られることはない。けれど、蒼は私の連絡先を知ってるので、返事はできる。
すぐに断られたなら、電話かメールかメッセージ。理子はそう思ったんだろうけど……。
「……違くて、」
ごまかせない。理子は大切な友だちだし、何度も相談に乗ってもらったし。
なんでもないよ、とは言えなかった。
「えっとね、たまたま、教室に戻ったら聞いちゃって……。」
「……何を?」
笑え。
心配をかけないように、なんでもないことみたいに言え。
「蒼が、友だちに、『告白は断る』って言ってるのを、かな。」
「それってまさか……ひなの手紙、クラスメイトの見せ物にしたってこと!?」
精いっぱいぼかして言ってみたけれど、理子は一瞬で沸騰した。顔を真っ赤にして、身を乗り出す。
「み、見せ物っていうか……。」
「何それ信じらんない! サイテー! ひな、そんなやつナシにして正解だよ!」
「り、理子、」
「なによ、アイツがそんなやつだなんて知らなかった! フツーに明るくていいやつかなって思ってたのに、最悪!」
まくしたてる理子は、ホンキで怒ってるみたいだった。
それを頼もしく思うと同時に、苦しくもなる。蒼を最低だって言われるのが、つらい。
……あんな風に言われて、私、まだ蒼のこと好きなんだ。
『まてよっ、ひな!』
――ふと、昨日、必死な声で私を呼び止める蒼の声が、脳裏によみがえった。
もしかして、あれにも何か、理由があったのかも、なんて。
(……あーあ、バカみたい。)
こんなの、フラれたことを認めたくなくて、自分に言い訳してるだけだ。みっともない。
「ねえひな、あたしが文句言ってきてあげよっか? 幸いあたしはあいつと同じクラスじゃないし、気まずくなりすぎることもないし……!」
「い、いいよ理子、私大丈夫だから。ありがとう。……それに、」
――これ以上、みじめになりたくない。
蒼のことを好きなのは本当だったんだ。……ううん、今もまだ好きなんだ。だから、何も言えない。誰に何も言ってほしくない。
ぎゅ、と唇を噛みしめて、なんとか笑った。「ありがと、理子。」
「でも、ひな……。」
まだ何か言いたげな理子の話を遮るように、教室の中に飛び込んだ。
(蒼はまだ来てない、よね?)
辺りを見渡して、蒼の姿が見えなかったことに、ほっと息をつく。
そして自分の席につこうとしたところで、声を掛けられた。ななめ前の席の佐古くんに。
――佐古直樹くんは、小学校時代からの蒼の友達だ。私は小学校時代、彼と同じクラスになったことがなかったから接点はなかったけど、今も同じグループの友人同士として仲良くしているのをよく見かける。
その佐古くんの爽やか系のイケメンだと言われる顔が、困ったような表情になっていた。
「あの、宮野さん。昨日のこと……、」 
「あ……。」
そうか、佐古くん、昨日あの場にいたのか。
みじめさと恥ずかしさで、カッと頬が熱くなるのがわかった。
どうして話題になんか出すんだろう。あの場にいたのなら、あの時たまらなくなって逃げ出した私のことも、見ていたはずなのに。
「わ、私っ……、」
「ごめん、あんなこと、ちゃんと止めさせるべきだった。僕は、」
「大丈夫だから、もういいから。蒼にも……怒ってない。迷惑をかけた私が悪いの。放っておいてくれていいから、」
「そんなことできない!」
逃げるように顔をそむけたところで、佐古くんは少しだけ強い口調で言った。
「蒼のやったこと、許せる訳ないよな。でも蒼はたぶん、したくてあんなことしたんじゃないんだ。蒼はあの場にいた僕に気を使って……。」
「え……? さ、佐古くん?」
佐古くんが、私の手を取る。両手でつつむように。
茜くんほど骨張ってはいない。でも、きちんと男の子の手の感触がして、どきどきする。
「蒼は、僕が宮野さんのことを、」

「……ふーん。お前らって仲良かったんだ?」

唐突に響いた、どこか冷めた声音。
冷水を浴びせかけられたかのような心地がした。血の気が引いていく。
「蒼……。」
私たちの席のそばまで来ていた蒼を見上げ、佐古くんが小さくこぼした。
蒼はスクールバッグを背負うように持ったまま、私と佐古くんのつながれた手を冷たく見下ろしている。
「蒼、これは……。」
「別に、好きにすればいいだろ。宮野と佐古がつき合ってようが、別にオレにはなんの関係もないし。」
佐古くんの言葉を遮って、蒼はそう言い放った。
その瞬間、まるで氷を心臓に直に当てられたような心地になった。
顔から血の気が引いていき、手指の先から温度がなくなっていく。
佐古くんが思わずというように立ち上がった。
「っ蒼、お前なあ!」
「――いいよ、佐古くん!」
蒼に詰めよろうとした佐古くんのそでを掴んで、慌てて止める。
「いいよ……。」
――かばわれたら、余計にみじめだ。
佐古くんは視線をさまよわせたが、やがて「ごめん。」とつぶやいて、席に座り直した。
蒼は鼻を鳴らして、さっさと自分の席へ向かう。
――関係ない、か。そうだよね。
だって蒼は私を振った。振ったんだから、私が手をつなごうと――誰と付き合おうとどうでもいいに決まっている。
「……っ。」
頭では、理解出来る。
でも、心は痛くて仕方がなかった。



  *




「おかえり、ひな……ってどうした? 元気なくない?」
「あ、茜くん……。」
 ドアを開けてくれた茜くんの顔を見て、一瞬、ぎょっとする。茜くんはやっぱり蒼とそっくりで、まるで蒼が出迎えてくれたのかと思ってしまった。
「ただいま。あの、お留守番ありがとうございます。」
「や、それは全然いいんだけど……なんかあった?」
 心配そうに眉尻を下げる茜くん。
 心配させて申し訳なくなると同時に、気にかけてくれているのがじんわりと嬉しくて、私はちょっと笑った。
「大丈夫だよ。ちょっと、蒼に言われたことがこたえちゃっただけで……。」
「……蒼に? とにかく中入んな。ほらひな、バッグちょうだい。」
 茜くんがさりげなく荷物を持って、リビングに入っていく。
 そのスマートさに、なんだかむずむずどぎまぎしてしまう。……やっぱり茜くん、大人だ。大人で、余裕があってかっこいい。高校生って、全然中学生とちがうんだなあ……。
 茜くんは麦茶の入ったコップを私の前に出してくれると、「で?」と言って私を見た。
「蒼に何言われたんだよ?」
「え、え~……それ、聞く? 大丈夫だよ、もう。蒼の言ってることって、当たり前のことだし……。」
「聞く。」
 ――その、有無を言わせない態度に、私は大人しく「はい」と答えるしかなく。
 今日あったことを、茜くんに細大漏らさず話した。
 佐古くんに謝られたこと、仲直りの途中で手を握られたところを偶然青に見られて、「宮野と佐古がつき合ってようが、別にオレにはなんの関係もないし。」と言われてしまって、勝手に傷ついてしまったこと。
 ……そして、全て聞き終わった茜くんは、そうだった。
 ほんの少し唇をとがらせて「フーン。」と言う。
「茜くん……? なんか、怒ってる?」
「べつに。……にしても蒼、むかつく言い方するよな。いくら腹立ってたからってさあ。ほんっと、人の気持ちを察せられないっていうか……。」
「は、腹立って……な、なんで? 蒼は、私のことなんかどうでもいいはずで、」
「――どうでもよくなんかないよ。」
 茜くんが言った。いやに真剣な声音だった。
「どうでもよくなんかない。腹が立ったのだって絶対、」
「あ……茜くん?」
「……とにかく、蒼はお前をどうでもいいなんて思ってないよ。根拠はないけど。」
「ないんだ……。」
 ……でも、そうだったらいいな。
 どうでもいいって思われてるならいっそ嫌われてた方が、関心を持たれているって意味ではましかもって思ってたから。
「それにさあ、」
 そしてふと、手に、温かい感触がした。
 なんだろうと思って見てみれば、私の手に茜くんの手が重なっている。骨ばった、男の子の――否、男の人の手。
「何、他の男に手なんて握らせてるんだよ。」
「えっ……。」
「――蒼のことは、根拠はない。……でも、俺にとってはまったく、どうでもよくなんかない。お前と佐古が付き合ってて、どうでもいいなんて思えない。」
 茜くんの目が、まっすぐ私を捉える。頬が一気に熱くなる。
 ……それって。
「気安く触られたりしないで。俺が嫌だから。……わかった?」
「は、はい……。」
 ――どうしよう。頬が熱い。心臓がうるさい。
 私は唇を噛みしめて、慌てて下を向いた。
茜くんは蒼じゃないのに。蒼に告白したばっかりで、こんなの……。
「つーかさ、ひな! 今度の土曜、デートしない?」
 ――と、そこで、茜くんがいきなりそんなことを言った。
「え⁉ で、デート⁉」
「蒼、むかつくし、すげーおめかしして可愛くして、オレと出かけようよ。気分転換にもなるし……それに蒼、土曜は駅前のゲーセンとかいること多かったよな? 見せつけて、嫉妬させてやろうよ。」
 目を剥く私に構わず、「決まり!」と笑顔で言う茜くん。
 で。デート……。蒼に見せつけて、嫉妬させる……。そんなの、いいのかな。でも、楽しそうではあるかも。
私はややあってから、「わかった。」と頭を下げた。
「土曜日、空けとくね!」

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