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過去編
城の人々と、ミトスの運命
しおりを挟む〔九十七期生の悲劇が起こる六年前〕
ベグテクタ、王都ジルコン。夜。
そのバーは表通りから少し外れたところにある。一見、民家と変わらない佇まいだが、目を凝らせば店の名前が彫られたプレートがドアにはめ込められている。
「夜風」そう刻まれた店の名前をガレナ・ホーエンはしばし見つめると、扉を開けた。ピアノの音色と女の歌声がホーエンの耳を捕まえ、振り向かせた。明るめの曲調であったけれど、女の歌声はもの悲しさがあり、胸をついた。客の誰もが歌う女に見惚れ、グラスを揺らしていた。ホーエンは店の一番奥のテーブル席にいた銀髪の男を見つけた。歩み寄って声をかける。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
ホーエンに驚いたベグテクタの二局長、アラゴ・ラレイは中指でずれていた眼鏡を直し、微笑んだ。
「どうぞ。一杯奢りますよ。私は舐めるようにちびちび飲むのが好きでしてね。あなたもロックでいいですか」
「ええ」
ラレイは店員を呼び、自分と飲んでいるのと同じのを頼んだ。ホーエンは小さい丸いテーブルを挟んで、ラレイと向かい合って座った。店員がラレイの酒を持ってくるまで二人は黙って、歌を聞いていた。ホーエンの酒がテーブルに届いても二人は乾杯をしなかった。ホーエンがグラスに口を付けると、ラレイがグラスを揺らしながら口を開いた。
「まさか、退局間際にホーエン君と二人で飲むことになるとは思わなかったよ」
ホーエンはグラスをテーブルに置く。
「私が副局長になるをラレイ局長が反対したと聞きました」
ラレイがグラスを揺らすのを止める。からん、と氷が鳴る。
「ええ。私は副局長に、クンツァ君を押しました」
ラレイはなごやかな声で正直に話した。
「なぜ? 」
ホーエンの口調はきつくなっていた。
「君は頭がいい。だが、もっと柔らかくなくちゃならない。だから、クンツァ君を押した。私が許せないかい?」
ホーエンは黙った。
「……そうだね、一番の理由は君が僕が趣味で調べていたことに首を突っ込んでいたからかな」
ホーエンの表情が分かりやすく動いた。
「君も知っていると思うが、私は歴史が好きでね。特に、十二年戦争を終わらすきっかけをつくったカルサ王は素晴らしい王だと思うよ。ホーエン君はあまり好きではないだろう? 」
ラレイが笑う。
「カルサ王は甘すぎたと思います。カルサ王の判断が今の世のベグテクタ国民にしようのない劣等感を与える要因をつくった一人だと思います」
「そうかもしれない。けど彼は人間を愛していた。私はそういう泥臭い人が好きだ」
「……ラレイ局長は、なぜ国境にあるあの存在を報告しないのですか? 」
「あの存在」とはベグテクタとアベンチュレの国境付近にある、鉄の鉱山のことだ。
「もしかしたら、王は把握しているのかもしれない。それでも使うつもりはない。ベグテクタは自然を愛しているからね。あれは使っては駄目だよ。使わないからこその美しさがある」
「駄目だと思い込んでいるだけです。トマトが法律で食べてはいけないというのなら、食べないのと同じです」
「いい例えだな」
ラレイが思わず声をあげて笑う。ホーエンはむっとする。
「悪い。じゃあ、こっちも例えだ。ホーエン君が美しいと思う形はなんだい? 」
「美しい形? 」
「ああ、三角四角丸とか」
「丸ですかね……」
ホーエンは訝しがりながらも答えた。
「そうか、丸が美しいか。じゃあ丸だと思っていたものが、現実では楕円だったとする。どうする? 」
「そうですね、どうすれば丸に整えられるか考えます」
ホーエンの答えに迷いはなかった。ラレイはホーエンの瞳をレンズ越しにじっと見つめる。口元は微笑んでいるが、瞳には冷たさがあった。軽い軽蔑もあったかもしれない。
「現実が楕円だったらね、楕円があるべき姿だと思うんだ。楕円には楕円の美しさと理由がある。満月だって、ちゃんと測ったらきっと楕円だよ。そこにわざわざ我々の美しさを押し付けて丸にするのは、傲慢だと私は考える」
ホーエンは目を見開き、グラスをきつく握った。声を荒げないよう、冷静になるよう、自分を落ち着かせる。
「私は、小さいころから、父の仕事の関係で四ヵ国を転々としていました。そのたびに平等であるはずの世界は平等でないことを肌に感じました。差別を感じるわけではないですか、劣等感がありました。拭いきれない歴史という運命からくる劣等感です。けど四ヵ国条約がある限り、この歴史の運命に反旗を翻すことはできないのです。あの法律は時に理性が耐えられなくなる。私は本当に世界を平等にしたいんです。世界を変えたいんです。楕円を丸にしたい。それが現実を壊すことになったとしても」
「法律というのは、理性を正しく定める為にある。それなのに法律を理性のためにどうにかしようなんざ、本末転倒甚だしい」
ラレイは淡々とホーエンを否定し、続けた。
「世界は創るものでも変えるものでもないと私は思っているんだ。世界とか社会はね、できあがっていくものなんだ。そして永遠にできあがることのないものだ。だから私は世界を変えるとか口にする人間を信用できないんだ。それに私には、君はこの国をどうにかしたいというより、自分の尊厳をどうにかしたいように思える」
ホーエンは顔に熱を感じた。
「国はね、君のプライドのためにあるんじゃないよ。だから私は君を副局長にすることを反対した。君に力を持たせるのが私は恐ろしくてね。君はどこか、魅力的だから余計にね」
ホーエンはラレイを睨みそうになるのを押さえるため、顔をそらした。
「まあ、退局するやつの戯言の置き土産さ。覚えていてくれると嬉しい」
ラレイは金をテーブルに置ジルコン立ち上がる。
「もう一杯ぐらい飲めるだろう、ゆっくりしていきなさい」
ラレイが立ち去り、バーを出て行く。残されたホーエンはしばらく動かなかった。その夜から、ホーエンはラレイの戯言を忘れることはなかった。しかし、受け入れることも、なかった。
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