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過去編
百年の恋、もしくは隠された希望
しおりを挟むインデッセ城。ルリの部屋。
「ルリ様、ダイアスのことですが」
ルリは刺繍をする手をとめて、顔を上げた。
「ダイアス? 」
「ペンタゴンさんだけには、ダイアスが火を噴くことを伝えておいた方がよいのでは? 」
「駄目よ。私達だけの秘密よ」
「しかし何かあった時に、火は危ないです」
「だからよ。知る人が多ければ多いほど、知られる可能性がある。お願い、ジル。私達だけの秘密にして。危ないからこそ秘密にするのよ」
「……分かりました」
納得できないが、ジルは主に従った。その時、ノックの音がした。ジルは返事をしてドアを開ける。そこにはバーカンディの髪をお団子にしたメイドが立っていた。ラズに仕えるメイドのレイナだ。ジルと年齢が一緒で、ラズがルリに懐いていることもあり、インデッセの人間の中では親しくしていた。細い垂れ目が彼女を和やかな雰囲気に見せた。
「レイナ、どうしたの? 」
「ジル、ルリ様はお忙しいかしら?」
レイナは遠慮がちに尋ねた。
「大丈夫よ。中に入って」
後ろからルリがそう声をかけた。ルリは刺繍をソファに置いて立ち上がる。
「あの、いえ。お願いがありまして、ラズ様のお部屋に来ていただけませんか?カイオート王子の婚約の話を聞いてからふさぎ込んでいて……」
レイナは気を落とした声と同じように俯いた。ルリとジルは見合う。ルリは頷いた。
「すぐに行きましょう」
ルリがラズに顏を見せると、ラズは涙を流しルリに抱き付いた。
「お姉さま! 」
ルリは抱き付いたラズの背中を撫でる。ジルとレイナは気を効かせて部屋の外へ出た。ラズはルリの胸から顔を上げる。濡れた頬に髪が張り付いていた。ルリそれを優しくはがしてやる。
「私、嫌なんです! オードになんかに嫁ぎたくないのです!あんた、遠いところ……。私の居場所なんてないわ! 」
「ラズ……」
ルリにはラズの気持ちが痛い程分かった。友好的なベグテクタからインデッセに嫁いできたルリも例えようがないほどに寂しく、心細かった。それが、ラズはオードだ。王子の妻だとしても、味方のいない土地では立場は弱いだろう。ルリはどうラズを慰めていいか分からなかった。ただ抱きしめてやることしかできなかった。
「行くならベグテクタが良かった。お姉さまからカルサ様のお便りのお話を聞くたびになんて聡明で素敵な人なんだろう、って」
「ありがとう、ラズ。姉として嬉しいわ」
ルリが微笑むと、ラズはやっと笑った。そしてルリの腕から離れる。
「取り乱してごめんなさい。お姉さまを呼んでくるなんて、レイナには相当心配かけたみたいね」
「ええ、とても心配してた」
「もう、諦めるしかないのは分かってるんです……。けど、覚悟が決まらなくて……」
ラズは弱々しくなる自分の心を支えるように、胸に両手を押しあてた。
「私がオードに嫁げば、オードとのぎくしゃくした関係を少しは丸くできるでしょう。争うよりその方がいいと分かっています。けど、そうすればベグテクタの立場がまた、揺らいでしまいます。お姉さまがこの城で今より心細くなるのが、私は嫌なのです」
「ラズ、あなたは優しいわね」
ルリは嬉しかった。ラズはそれに首を振った。
「私はただの嘆くだけの弱い人間です。お兄様には敵いません。お兄様は何をお考えでいるか分からないし。血のつながった兄をこんな風に言うのは嫌ですが、時々とても怖いんです。震えるほどあの優しい笑みが怖い時があるのです……」
ルリは何も言えなかった。ラズと同じようなことを思うことが、ルリにもあったからだ。ルリはただ、ラズを抱きしめるしかなかった。
「オードのパーティーにルリも行かせようと思う。手配を頼む」
スピネは執務室にペンタゴンを呼ぶとそう告げた。
「ラズは不安がっているようだ。一人で行かせるよりいいだろう。ルリに懐いているし、適役だろう。もちろんジルもだ」
「承知致しました」
ペンタゴンはそう言ったものの何か言いたげに王の前から動かなかった。
「何だ? 」
「ベグテクタ王からまた抗議の手紙が来ました。ラズ様の婚約に反対ではありません。しかしベグテクタを、こう言ったらなんですが、無視するおつもりですか? 」
「無視できたらいいんだけどね。できないからね」
スピネは椅子を反転させると空を見上げ、呟いた。
「空からやってきたら、それは恐ろしいだろう」
「なんとおっしゃいましたか? 」
ペンタゴンの耳には届かなかった。
「地獄を知らぬものが天国には行けないのだよ」
スピネは違う言葉を口にした。
「……どういう意味ですか?」
スピネは微笑んだ。ぞっとする微笑であった。
「悪いが一度、地獄に落とすぞ。世界を」
それから数日後、ルリとラズはインデッセを船で発った。ラズはルリがついてきてくれることを喜んだ。
「今回はオードの空気を知るために行くだけだ。気負う必要はない。異国を楽しんでおいで。二人とも気を付けるんだよ」
スピネはそう言って二人を見送った。
「お兄様ったら、何が気負う必要がないよ。気負うに決まってるじゃない。敵陣に乗り込んで行くようなものなのだから!」
「そうね。何かあればフォローするわ」
「ありがとう、お姉さま。本当に来てくれてよかった」
ルリは微笑む。ルリにはスピネよりも後ろにいたペンタゴンの表情が頭に残っていた。何か言いたげで、何も言えない。不安そうで、不憫そうな顔。嫌な予感がする。気のせいだといい。気のせいだ。ルリは心の中で言い聞かせた。
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