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逃亡編

新しい名前

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(十月十六日)

 夕陽に海が橙に染まる。シズはそれをデッキから眺めた。船で夜を越すのは今日で最後だった。明日の朝、アイオラ号はオードのパズートに到着する。「シズ」
 バリミアに呼ばれ振り返る。
「姫様が呼んでいるわ」
「分かった」
 バリミアと共にメト王女の部屋へいく。王女も窓から橙の海を眺めていた。
「メト様、シズを呼んで参りました」
 メト王女は視線を静かにシズに移した。そしてソファーに座るように促した。ソファーに座るとメト王女は少し遅れて、シズの隣に座った。
「手を貸してしてください」
 メトは掌を出した。王女は下から手を添えると掌に太陽のブローチを置いた。シズは思わず王女を見る。
「これ……」
「ミトスは太陽を奪われた男でした。生きているのに死んでいる事にされて、表ではけして生きていけない人生を三年歩みました。そしてそのまま消えてしまいました。貴女はこれから名前を変えて生きていきます。けれど、貴女の上には太陽があって欲しい。この世界に恨みはあるでしょうが、影にまみれて生きようとは思わないでほしい」
「けどこれは、」
 王女が好きな人から貰ったもの。
「もうミトスはいません。私はオードの姫になるのです。オードはよく太陽が空にいる時間が長いそうです。だから私にもうそのブローチは必要ありません」
 強くしなやかに王女は微笑んだ。シズはもう一度ブローチを見ると、握りしめた。
「大事にします」
「そうして頂けると嬉しいわ。これで貴女とはお別れでしょう。深夜のうちにアイドと入れ替わってください。手引きはバリミアがしてくれます」
 王女がバリミアに目配せをする。
「承知しております、姫様」
「では夜まで友人との時間を楽しんでください。シズ」
「はい」
 メト王女はブローチを握りしめたシズの手を両手で優しく包んだ。
「生きるのよ」
 シズは返事はできなかった。ただ返事をごまかすように目を伏せた。王女はシズの気持ちを分かっていた。けれど何も言わなかった。夕日が沈まぬうちに、シズと王女はお別れした。
 夕食を終えて、バリミアが部屋に着た。
「十時に迎えに来るわ。シズの荷物はアイドさんが持っているはずだから」
「うん」
 バリミアはため息を吐くと、シズを強く抱きしめた。
「そこまで寂しがらないの! 今生の別れじゃないんだから。少しの間だけよ」
「私には永遠に感じるけどね」
「あら、ネガティブ。やめてよ」
 シズは不思議だった。元の世界に帰りたいと躍起になっていた時、別れの事なんてろくに考えていなかった。もし、あの頃帰ろうとなった時、今みたいな寂しさを持っただろうか。あの頃はこっちの世界に対して無責任過ぎた。自分の生命がここにはないと思っていたから。それでも今ぐらい寂しさを持っていたらいいな、とこの先訪れる事のない仮定に希望を述べた夜だった。
 十時を少し過ぎた頃、部屋がノックされた。開けると、カートを引いたバリミアが居た。カートの中は洗濯物だった。
「まさかこの中に? 」
「そうよ」
 ベタだな。そんな感想は口にせず、シズはカートの中に潜りこみ洗濯物に埋もれた。バリミアがカートを押す。途中一人、たぶんオードの城人と挨拶を交わす。
「ランドリー室へ? メイドの方は? 」
 そうだよな。普通メイドが洗濯物運ぶよな。むしろ隠れない方が良かったんじゃないか。シズは静かに焦る。
「ええ。私がアイドさんに頼み忘れた物があって。忙しくて洗濯物溜めていたのよ。お恥ずかしい」
「いいえ、仕方ありませんよ。メト王女はあまり付き人を連れて来られていませんから、大変でしょう」
「まあ、気が楽な所もありますから」
 バリミア世間は話上手い。
「それに自分で洗いたい物もありますしね」
「いや、女性に失礼な質問を。失敬」
「いいえ、それでは」
しばらくするとどこかの部屋に入った。バリミアがカートをノックする。
「出てきて」
 ゆっくりと顔を出す。ランドリー室だった。
「なあ、私一人で来ても良かったんじゃないか?」
「あら薄情。ぎりぎりまで見送りたいのが友人よ」
 理由はそれだった。
「急いで。オードの四局の見回りの隙はこの三分だけだから」
 静かに慌てて、カートから出る。
「メイド服のままでいいから。万が一見つかった時にその恰好の方が言い訳しやすいからね。ドアをあけてすぐ正面にドアがある。鍵はさっきはずした。シズが入ったら私が鍵を閉めるから。ドアを開けたら非常階段がある。ひたすら下に下りて。どこかの踊り場にアイドさんがいるはずだから」
「分かった」
「急いで」
 一度バリミアに背を向けたが、振り返り、シズはバリミアを抱きしめた。
「色々ありがとう。ジャモンによろしく。あとアシスとリョークにリゴも。あとカザン。ごめんって伝えられたら伝えといて欲しい」
「分かった」
 離れるとバリミアの目じりに涙が浮かんでいた。
「大変だと思うけど幸せになってよ」
「バリミアも」
 シズは今度こそ部屋から出た。人の気配はない。正面のドアを開けると階段があった。ひたすら下りる。静かな階段をひたすら下へ下へと向かう。途中、鍵が閉める音が聞こえた。思わず足を止めて上を見上げた。唇を噛み締め、シズは再び下り始めた。
 どれくらい下に行ったかは分からないが、アイドの姿を見た時、シズは感動した。すぐにまた別れてしまうのにほっとした。
「服を脱いで」
「え」
「着ているもの交換するから」
「ああ」
 服を手際よく交換し、着替える。シズがこの四日間、十分かけて来ていたメイド服をアイドは一分で着た。シズの服はジーンズに白いシャツにひざ丈までのジャケットに黒いブーツ。身体に馴染む服装だった。
「部屋は408です。入国手続きは夕方に済んでいます。パスポートはトランクを開けて一番上に置いています。あなたの新しい名前はミメット・ルーです。覚えやすいようにシンプルなものにしました」
「ミメ・ルー」
 シズは名前が全然馴染まない。アイドはすぐそこにあるドアを指さした。
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