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「刺しゅう糸と針はうちから買って行きな。それがミトスを四日貸す条件だよ」
ラリマの商売にぬかりはなかった。ラリマはミトスの指から手首に、テーピングを巻いてやった。
「絶対に痛くなるからね。これをやっても痛くなる。でもやらないよりマシだよ」
ラリマは心強かった。ミトスは劇団の小道具室の端で、缶詰になった。デザインは決まっている。あとはひたすら、間違えずに、糸を通すだけ。あと、時間に間に合わせるだけ。言葉にするだけなら簡単だった。ミトスは髪をいつも以上にきつく束ねて、前髪もピンでとめた。それからは孤独と痛みとの闘いだった。
公演前日の午後。アトリエに戻って来たプライトが下書き中のサルファーにもついでにコーヒーを淹れた。
「それ、観光協会のやつか? 手を付けるの早いな」
プライトが感心する。
「ちょっといいアイデアが浮かんだから、メモ代わりに。初日に着ていく服、クリーニングが配達に来たから。お前のも俺のと一緒に、二階に掛けてあるから」
「どうも。でも、無事に初日の幕が上がるかなぁ」
プライトはもったいぶった言い方をした。
「なんだ、その意味ありげな感じ」
プライトはコーヒーをすすりながら、コルクボードに刺さった名刺を指でつついた。
「冷やかすにしては、度胸があるいい子みたいだけど?」
「サルファーさん、どうしたんですか」
小道具係のバリミアが驚く。サルファーとは十年来の知人だった。
「差し入れ持って来たよ。なんか大変らしいね」
しぃーっとバリミアが注意する。
「声が大きいです。ベスさんかなり落ち込んでいて、メンタルヤバヤバです」
ベス・シプリン。劇団ヨンの看板役者で、シズ役だ。そしてマントを破った張本人。
「ヤバヤバかぁ。なんとかなるよ」
「他人事ですねぇー」
バリミアいじけたように、前に垂れていた長い三つ編みを背中に回した。
「刺しゅうしてる子。知り合いなんだ。様子見たいから、案内してくれない?」
バリミアはまた驚く。
「本当ですか? じゃあ何かお腹に入れるように言ってください。今朝から声をかけても、返事はしてくれるんですけど、手は止めなくて」
「ふうん」
バリミアは小道具室の奥の部屋までサルファーを案内する。バリミアは仕事に戻った。サルファーは部屋の入り口で、ミトスの背中を見つめた。こっちの気配にふり向かない。テーピングだらけの手を一定のリズムで動かしている。
「そろそろ休憩したら?」
サルファーが声をかけた。
「もう少しなんです。一気に仕上げたいので」
ミトスは声の主が誰か気が付いていなかった。
「そうかい」
サルファーはすぐにその場を離れた。集中力を途切れさすのはよくないと知っていた。サルファーは劇団の人間とお茶をしたり、話しこんだり、暇潰しに隅の方からスケッチしたりした。そうすると二時間たった。サルファーはまた、バリミアを捕まえた。
「刺しゅうの子、休憩した?」
バリミアは眉間に皺を寄せて、首を横に振った。サルファーはミトスの所へ戻った。二時間前と同じ風景を見る。サルファーは部屋の中に入った。
「大丈夫かい?」
ミトスの横顔にサルファーは言った。傍からだと、ミトスの指には疲れも痛みも感じない。それくらい一定のリズムを崩さず、ずっと見ていられるぐらい気持ちがいい軽やかさだった。
「もう少しなので」
ミトスの目線は糸から動かない。
「君それ、さっきも言ったよ」
柄にもなく、サルファーはお節介を焼きたくなった。
「飲み物、持って来ようか?」
「いりません」
ミトスは半分怒ったようにキッパリ言った。
「汚れたら終わりです」
「……そうだね」
迂闊だったサルファーは部屋の隅にあった椅子を持ってくると、ミトスの仕事を観察した。不思議と飽きなかった。針と糸を追って、かすかに動くミトスの瞳はサルファーにとって、とても面白かった。どれくらいそうしていたかは、分からない。ミトスが糸切りバサミで糸を切ると立ち上がり、マントをテーブルに広げた。サルファーも立ち上がる。ミトスは壁に掛けてある見本のマントと入念に比べる。
「何か違うとこや、おかしい所はありませんか?」
ミトスはサルファーに聞いた。ただ、傍にいたから聞いただけだ。サルファーは文句を言わずに、確かめた。数分の沈黙の後、サルファーはミトスに微笑みかけた。
「完璧だ」
「あ、サルファーさんだったんですね」
ミトスはそこでやっと、誰か気が付いた。
「アシスさんに見てもらわないといけない」
ミトスは部屋を出ようとする。
「僕が呼んで来るよ。疲れているだろう。休みな」
サルファーが部屋を出てすぐにバリミアに声をかけた。バリミアがアシスを呼んで来る。他の人間も集まって来た。主演のベス・シプリンも駆け付けた。ベスは新しいスズランのマントを見つめ、涙を流した。安堵の涙だった。そして感極まって、ミトスを強く抱きしめた。
「あなたは私の恩人ね」
「問題ないなら良かったです」
ミトスは冷静に返した。喜びを噛み締める時間は終わった。ミトスの仕事も終わった。部屋の外へ出る。壁に隠れるように、ミトスはテーピングをはずす。はずしながら、静かに泣いた。
「ミトスさん、家まで送ります」
追いかけて来たアシスに声をかけられ、ミトスは涙を拭う。アシスが気遣う。
「緊張が切れましたか?」
ミトスは首を横に振った。
「違うんです。感動して」
ミトスは言った。アシスは頷いた。
「私、健康だって。すごく感動した」
アシスは戸惑う。てっきり見事なマントが出来上がったことに感動していると思った。
「去年の私なら、この仕事できませんでした。絶対、死んでいました」
「え?」
「徹夜なんて絶対できなかった。今も疲れていますけど、呼吸には問題なくて。健康って素晴らしい」
ミトスはまた泣いた。アシスはミトスの荷物を持つ。
「でも、無理をしたことには変わりないので、ゆっくり休んでください」
ふたりの会話を隠れて盗み聞きしていたサルファーは、静かに笑っていた。
ラリマの商売にぬかりはなかった。ラリマはミトスの指から手首に、テーピングを巻いてやった。
「絶対に痛くなるからね。これをやっても痛くなる。でもやらないよりマシだよ」
ラリマは心強かった。ミトスは劇団の小道具室の端で、缶詰になった。デザインは決まっている。あとはひたすら、間違えずに、糸を通すだけ。あと、時間に間に合わせるだけ。言葉にするだけなら簡単だった。ミトスは髪をいつも以上にきつく束ねて、前髪もピンでとめた。それからは孤独と痛みとの闘いだった。
公演前日の午後。アトリエに戻って来たプライトが下書き中のサルファーにもついでにコーヒーを淹れた。
「それ、観光協会のやつか? 手を付けるの早いな」
プライトが感心する。
「ちょっといいアイデアが浮かんだから、メモ代わりに。初日に着ていく服、クリーニングが配達に来たから。お前のも俺のと一緒に、二階に掛けてあるから」
「どうも。でも、無事に初日の幕が上がるかなぁ」
プライトはもったいぶった言い方をした。
「なんだ、その意味ありげな感じ」
プライトはコーヒーをすすりながら、コルクボードに刺さった名刺を指でつついた。
「冷やかすにしては、度胸があるいい子みたいだけど?」
「サルファーさん、どうしたんですか」
小道具係のバリミアが驚く。サルファーとは十年来の知人だった。
「差し入れ持って来たよ。なんか大変らしいね」
しぃーっとバリミアが注意する。
「声が大きいです。ベスさんかなり落ち込んでいて、メンタルヤバヤバです」
ベス・シプリン。劇団ヨンの看板役者で、シズ役だ。そしてマントを破った張本人。
「ヤバヤバかぁ。なんとかなるよ」
「他人事ですねぇー」
バリミアいじけたように、前に垂れていた長い三つ編みを背中に回した。
「刺しゅうしてる子。知り合いなんだ。様子見たいから、案内してくれない?」
バリミアはまた驚く。
「本当ですか? じゃあ何かお腹に入れるように言ってください。今朝から声をかけても、返事はしてくれるんですけど、手は止めなくて」
「ふうん」
バリミアは小道具室の奥の部屋までサルファーを案内する。バリミアは仕事に戻った。サルファーは部屋の入り口で、ミトスの背中を見つめた。こっちの気配にふり向かない。テーピングだらけの手を一定のリズムで動かしている。
「そろそろ休憩したら?」
サルファーが声をかけた。
「もう少しなんです。一気に仕上げたいので」
ミトスは声の主が誰か気が付いていなかった。
「そうかい」
サルファーはすぐにその場を離れた。集中力を途切れさすのはよくないと知っていた。サルファーは劇団の人間とお茶をしたり、話しこんだり、暇潰しに隅の方からスケッチしたりした。そうすると二時間たった。サルファーはまた、バリミアを捕まえた。
「刺しゅうの子、休憩した?」
バリミアは眉間に皺を寄せて、首を横に振った。サルファーはミトスの所へ戻った。二時間前と同じ風景を見る。サルファーは部屋の中に入った。
「大丈夫かい?」
ミトスの横顔にサルファーは言った。傍からだと、ミトスの指には疲れも痛みも感じない。それくらい一定のリズムを崩さず、ずっと見ていられるぐらい気持ちがいい軽やかさだった。
「もう少しなので」
ミトスの目線は糸から動かない。
「君それ、さっきも言ったよ」
柄にもなく、サルファーはお節介を焼きたくなった。
「飲み物、持って来ようか?」
「いりません」
ミトスは半分怒ったようにキッパリ言った。
「汚れたら終わりです」
「……そうだね」
迂闊だったサルファーは部屋の隅にあった椅子を持ってくると、ミトスの仕事を観察した。不思議と飽きなかった。針と糸を追って、かすかに動くミトスの瞳はサルファーにとって、とても面白かった。どれくらいそうしていたかは、分からない。ミトスが糸切りバサミで糸を切ると立ち上がり、マントをテーブルに広げた。サルファーも立ち上がる。ミトスは壁に掛けてある見本のマントと入念に比べる。
「何か違うとこや、おかしい所はありませんか?」
ミトスはサルファーに聞いた。ただ、傍にいたから聞いただけだ。サルファーは文句を言わずに、確かめた。数分の沈黙の後、サルファーはミトスに微笑みかけた。
「完璧だ」
「あ、サルファーさんだったんですね」
ミトスはそこでやっと、誰か気が付いた。
「アシスさんに見てもらわないといけない」
ミトスは部屋を出ようとする。
「僕が呼んで来るよ。疲れているだろう。休みな」
サルファーが部屋を出てすぐにバリミアに声をかけた。バリミアがアシスを呼んで来る。他の人間も集まって来た。主演のベス・シプリンも駆け付けた。ベスは新しいスズランのマントを見つめ、涙を流した。安堵の涙だった。そして感極まって、ミトスを強く抱きしめた。
「あなたは私の恩人ね」
「問題ないなら良かったです」
ミトスは冷静に返した。喜びを噛み締める時間は終わった。ミトスの仕事も終わった。部屋の外へ出る。壁に隠れるように、ミトスはテーピングをはずす。はずしながら、静かに泣いた。
「ミトスさん、家まで送ります」
追いかけて来たアシスに声をかけられ、ミトスは涙を拭う。アシスが気遣う。
「緊張が切れましたか?」
ミトスは首を横に振った。
「違うんです。感動して」
ミトスは言った。アシスは頷いた。
「私、健康だって。すごく感動した」
アシスは戸惑う。てっきり見事なマントが出来上がったことに感動していると思った。
「去年の私なら、この仕事できませんでした。絶対、死んでいました」
「え?」
「徹夜なんて絶対できなかった。今も疲れていますけど、呼吸には問題なくて。健康って素晴らしい」
ミトスはまた泣いた。アシスはミトスの荷物を持つ。
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