リューザの世界紀行

長倉帝臣

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第1章 『神樹界 ~隔絶された世界~』

第五十七話 ジュノ編 ~銀狼~

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 リューザは息を吞んで目の前の狼に対峙する。銀色の美しい毛並みを逆立てるその姿の あまりの気迫で思わず足が竦みそうになるが、必死で地面を踏みしめる。

「ふぅぅぅ……」

 呼吸が荒くなるのを感じる。眼下にいるそれは凶暴さや恐ろしさを超えた畏怖を彼に与えていたのだ。自然と身体から力が抜けてリューザはその場にへたり込んでしまう。

 危機を察してか、フロイドの鳴声が徐々に激しさを増していく。その声が焦りと緊張感を促す。リューザは我を忘れて絶句する。

 戦いに不慣れなリューザにもすぐに分かった。これは自分に太刀打ちできるような相手ではない。逃遁とうとんしようにも、以前鉢合わせた時とは異なって狼は目と鼻の先にいる。リューザの脚では全力で走ったとしてもすぐに追いつかれてしまうだろう。

 考えて冷汗をかいているところで、突然後ろから地面を叩く音が聞こえる。
 
 そして、黒馬に騎乗したナハトが飛び出して来たのだ。

「リューザ、無事だったか」 

 リューザの隣に馬が止まる。

「はい、なんとか。……それにしてもあれって……」

 リューザは銀狼を真直ぐ見つめたままナハトに問いかける。

銀鼠ぎんねずに輝く毛並みに民家を凌駕するほどの巨躯……。魔獣の首領、差し詰めこのジュノの森一帯の覇者といったところだ。……遂に姿を現したか」

 それを聞いてリューザは青天せいてん霹靂へきれきといった表情を見せる。あれがこの森の狼たちを率いている村長ガストルの言っていた『狼の首領』なのだというのか。光の加減のせいかその輝きは見られないが、その姿には 言わしめるほどの確かな威厳があった。

 しかし、あの銀狼が狼の首魁しゅかいだとしたら、説明のつかないことがある。

 一つ目に、なぜ、あの時ハノンが狙われたのか。本来狙うべきだったのは根拠地にいた集団の方だ。そちらを捨ててまで、なぜ一人逸れていたハノンの方を狙ったのか。ハノンの"魔術"がどのようなものだったかは結局不明だが、不確実性を伴ってまで彼女を狙う理由があったのだろうか。

 二つ目に、今ここに現れたこと。恐らくここでの狙いはリューザではなく討伐隊長のナハトの方だろう。しかし、討伐隊に首を狙われている首領が態々自ら戦場に姿を現すことなどあるのだろうか。あるいは、それ程までに狼側も追い込まれているという可能性も否定できない。

 兎にも角にも、これまでの銀狼の行動には不可解な点が多いのだ。

 リューザが考えあぐねていると、ナハトが小声で指示を出す。

「下がってろ……」

「あれに一人で立ち向かう気ですか!? 無茶ですよ! 撤退して他の隊員を呼ぶべきです」

 リューザは危険を察知してか思わず強い口調で訴えかける。その言葉にナハトは一切臆することなく銀狼へと眼光餉餉とした視線を送っている。

「やっとやつを目の前に引きずり出せたんだ……。俺が全てを終わらせてやる。もう誰も犠牲にしない……」

 その様子は彼の勇猛さを体現していたが、それと同時に焦燥感が見られリューザは俄かに危うさを感じた。

「わかりました……」

 それでも、リューザは彼を信じた。ここで敵の首領に背を向けることなど彼の隊長としてのプライドが決して許さなかったのだろう。 

 ナハトは軽く震えていた。その要因が目の前に仇である銀狼が現れたからであるのか、気迫に圧倒されてからなのかは分からない。

 ナハトは気合を入れなおすように深呼吸をする。そして、黒馬はナハトを背に前方へと跳んだ。

 それに呼応するようにして銀狼も動き出す。後足で蹴上げて勢いをつけると大爪でナハトの剣技を受け止める。その威力はナハトのものと同等かそれ以上だ。両者一歩も譲らない互角の拮抗となるかのように思えた。

 しかし次の瞬間、銀狼は大剣を受け止めた前足とは反対の足で黒馬を横から叩く。すると黒馬はまるでその重さを無視するかのようにその身を飛ばされてしまう。

 騎乗したナハトも馬とともに、そのまま投げ出されるが、寸でのところで受け身を取って撥ねられた衝撃を抑える。

「くっ……!」

 銀狼は他の狼とはどこをとっても桁違いだ。あの体格なら黒馬の上にいるナハト自身のことを直接狙うこともできただろう。

「ナハトさん!」

 そう叫んで戦いの場に舞い出ようと一歩足を踏み出す。ところが、リューザは突然踏み切った右足を掴まれるような感覚に陥る。

 そして、次の瞬間、彼は地面に叩きつけられていたのだ。

「ぐぅっ……!」

 痛みに耐えつつ、足元を見ると、なんと足につたが絡みついている。必死に解こうにも、その蔦はまるで生きているかのように伸びリューザの動きを悉く封じようとする。

 そのことにしびれを切らして、剣を鞘から抜き取り蔦を切り裂こうとするが、弾力があるせいで、上手く刃を入れることができない。

 これは明らかにただの一植物ではない。彼にも直ぐにそのことが理解できた。恐らくこれは"魔術"によって出現したものだ。

「一体どこから……」

 リューザは必死で術者の居場所を探すために周囲を見回す。しかし、この場には人も狼も、ナハトと銀狼に他には一切の気配をも醸し出していない。

 リューザは藻掻いて蔦を振りほどこうとするが、動くたびに締め付けが徐々に増し苦悶の声を上げる。

 その間にも、ナハトは銀狼との熾烈しれつな交戦を繰り広げていた。戦いの行く末を見守ることしかできない自分が惨めで悔しい。

 一方のナハトもリューザの異変に気が付いたようで、大剣を豪快に振るいながら銀狼に向かって問いかける。

「あの少年になにやら奇怪な"魔術"をかけたようだな。それに、さしで戦おうってのも、わだかまるものがある。もしかして、近くに仲間でも隠れているのか?」

 しかし、銀狼は彼の言葉に僅かな関心も向けることなく容赦なくその爪牙を振るう。

「人間とは口もききたくないってか!」

 ナハトは銀狼の猛攻を避けると、後方に大きく跳び退いた。そして、着地したところで"魔術"を唱える。

「炎よ。大いなる炎の守り手よ。我は精霊の僕、神々の信徒なり。その光輝の炎を、我が敵を討つ猛火とせよ!」

 その瞬間、彼の持つ大剣は見る見るうちに熱を帯び、紅炎が燃え上がる。

 彼が襲い来る銀狼に剣身を素早く振りかざし、切っ先を胴に当てると、銀狼はまるで大型動物にでも体当たりされたかのように後方へと巨体を飛ばされる。

 "魔術"とはかくも強力なものなのかと、リューザは愕然としている。

 しかし、銀狼も負けじと着地と同時に後ろ足を伸縮させて、ナハトへと再び飛び掛かる。大剣は爪牙と何度も打ち合って文字通り火花を散らせ、時折鍔迫つばぜり合いが起こる。

 リューザはその様子を茫然と見ていた。自分が入り込めるような戦いでは決してない。その 自分の無力感を味わうことすらできずに、ただただその彼にとっての異次元で規格外の闘諍とうじょうにただただ圧倒されるばかりだった。

 そして、交戦は佳境へと突入する。 

「チッ、化け物め……」

 銀狼の巨体を睨みながらナハトは少し息を切らせながら呟く。対する銀狼は余裕綽々よゆうしゃくしゃくといった様子で全く疲労を見せない。

「俺がここで終わらせるんだ……。全ての因縁を、一族の宿命を! 奈落に沈む煉獄よ、我が声にこたえ、畏怖の炎を顕現させよ!」

 そう叫ぶと、ナハトの握る大剣に辺り一帯から炎の渦が巻き起こる。そしてその渦は蝟集いしゅうして、凝縮されている。それは正に多数の支流を結集させた大河の波乱の如き狂猛さだ。


 そして、炎を完全に吸い尽くすと、ナハトは真赤なオーラを纏う大剣を振るい銀狼へと走り出した。それに対して銀狼もそれに呼応して飛び出す。

 そして両者がぶつかり合った時、辺り一帯を強い閃光が包み込んだ。



 漸く光が収まり、リューザが眼を再び開いた時、彼はある光景を目にしていた。

 劫火の如く燃え滾りながら、銀狼の背を深く貫く大剣。そして、先程までの激しさを失って動きがピタリと止まった銀狼。

 その様子を暫く見つめた後、ナハトは貫いた大剣を勢いよく引き抜く。すると、傷口からは流血がどっと溢れ出し、躰を支える力を失った銀狼は力なく自身を貫いた彼の方へと倒れこむ。



 遂にやったのだろうか……。決着がついたのだろうか……。

 リューザがそう思って頭を下げた、次の瞬間――。

 ザクっ。

 鈍い音が彼らの方向から聞こえて、ある予感からリューザは顔を青くさせる。

 そして今一度、頭を擡げた所でその予感は確信へと変わる。

 リューザの視線の先、ナハトの背中からは真っ赤な液体が鎧を伝って見る見るうちに滴り落ちているのだ。それを見てリューザは戦慄する。

 その状況を前にして、どちらが勝者かなんてことは火を見るよりも明らかだった。

 ナハトは音もなく横に倒れ、それを見た黒馬がいななきを上げる。

 それに対して、本来致命傷にもなる一撃を受けたにもかかわらず、銀狼は毛並みを二つの血で穢しながらも何事もなかったかのように四肢で力強く立ち上がり、まるで生命力の減衰を感じさせない。

「待って!」

 リューザはそう叫んだものの、銀狼はリューザを一瞬だけ振り返って一瞥したかと思うと
そのまま走り去ってゆくのだった。

 気が付けば絡みついていた蔦は先程まで苦労していたのが嘘のようにスルスルと解けた。

「ナハト……さん……」

 リューザは力なくナハトの元へと足を進めていく。
 そして、目の前にいる彼の腹からドクドクと止めどなく溢れ出す鮮血を見てその場に立ち尽くすのだった。
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