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西の辺境-衛兵養成所 編

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いつもの森にたどり着くと、大男に変化した黒虎が大きな木に凭れ座っているのが見えてきた。何かの動物が傍にいたようだが、カミーユが近づくと姿を隠してしまう。
「今日は早かったな」
「…小さな動物がいなかった?」
「ん?気のせいだろ」
気だるげに漆黒の髪を片手でかき混ぜ人間に化けていた黒虎が黒虎に変化する。ややこしい。
黒虎は体を伏せると顎を自身の背中に向け「乗れ」の仕草をする。カミーユは荷物を身体に括り付け、黒虎の滑らかな毛におおわれた背中に跨る。黒虎の背中から真っ黒な翼が現れ、四つ足で立ち上がる。ひとつ大きな翼を羽ばたかせると、鬱蒼とした森の樹木の枝が揺れ、飛び立てるだけの空間がぽっかりと広がった。

いつもながら凄い。
黒虎は何者なのだろう。ただの聖獣なのだろうか。
“ただの聖獣“もすごいとは思うが。

ふわりと音もなく浮き上がった黒虎は、森の木々が作ってくれた行路を抜け空へと舞い上がった。どんな仕組みなのか全く理解できないが、黒虎の魔力で風の抵抗や息苦しさは感じない。今日は早めに養成所を出てきたので未だ日入いりにゅうの初刻であり黄昏たそがれが広がっている。橙に染まった空が紫色へと移っていく中、黒虎は王都へと流れるように駆けぬける。西の辺境から国の中央にある王都へと暗闇に向かい空を縫う。はるか下にぽつぽつと灯る人家の灯りが幻想的だ。
通常では絶対目にすることのできない絶景に、いつもの帰宮より沈んでいた心が少しだけ上昇する。
黒虎は獣の姿になると人の言葉を発しない。頭の中に直接話しかけてくることもあるのだが、この日はそれもないまま、あっという間に王都にある王宮の森へと降り立った。すでに辺りは闇に包まれている。黒虎の背から降りた瞬間、大男に抱き込まれたと思うと、気づいた時には王宮の自室の寝台に座っていた。

「…相変わらず凄いな」

黒虎の転移は全く魔力酔いしない。魔法陣も描かないし、とにかく速い。
人間離れした(人間ではない)魔法に感心しているカミーユの肩を、隣に座る黒虎がぐいと引き寄せる。
「いつも送迎してやってんだから褒美を寄越せ」
「横暴だな。しかも命令かよ」
肩を抱いている黒虎の腕を外して黒虎を睨む。その時ノックがして廊下に面した扉が開いた。
「やはり帰っていたんだな」
「エド!」
横に座る黒虎を押しのけ、ワゴンを押して部屋に入ってきたエドヴァルドに駆け寄る。
「ただいま!」
飛びつかんばかりに勢いよく近づいたカミーユに、世話係のエドヴァルドの端正な顔の眉が寄る。
「行儀がよくない。王宮内では身なりと作法はきちんとしろと言っているだろう」
「ごめん。すぐ着替える」
「その前に湯あみをしろ。すでに用意はできている」
「ありがとうエド」
「カミーユ、俺への態度とえらく違うじゃないか」
黒虎は勝手にカミーユの寝台で寝そべっていた。
「聖獣様、カミーユの部屋で寛いでいますと、またランベルト様や陛下に叱られてしまいますよ」
エドヴァルドは卓にクロスを敷きながら寝台の黒虎に話しかける。
「俺様が送迎しているんだぞ。少しくらい褒美があってもいいじゃないか」
「それはそうですが」

少し困った表情になったエドヴァルドは赤い髪に赤い瞳を持つ絶世の美青年だ。
カミーユとは別の精霊村出身で、カミーユが王宮にくる以前に我が我がと王族たちが美しい彼を取り合ったとか。
…多分未だに取り合っているとカミーユは睨んでいる。

黒虎が寝台に横寝をしながらエドヴァルドに向かってにやりと笑う。
「赤毛の兄ちゃんからの褒美でもいいぞ」
「ダメだ!」
カミーユは身体に巻き付けていた鞄を黒虎に放り投げ、エドヴァルドを背にする。
「絶対だめ!」
背にかばったエドヴァルドを振り向く。
「一緒に湯あみをしよう」
「え?」
「黒虎とふたりにはできないから!ほら」
カミーユは茶の用意をしようとしていたエドヴァルドを隣の浴室へと引っ張っていく。
「黒虎ありがとう。お礼は次の時までに考えておくから。じゃあね」
浴室の扉を開けたカミーユが寝台に向かって一方的に言い放つ。
「仕方ないな。聖獣様、失礼いたします」
呆れたようにカミーユに向かいふっと笑んだエドも浴室へと入っていき、部屋には黒虎だけになった。

寝台に寝そべる黒虎は何も言わなかったが、黄玉の瞳は見透かしたような色を湛えたまま、部屋からふっと姿を消した。

*

カミーユが帰宮した日、正確には日をまたいだ刻。
陛下の私室につながる扉が開き、寝台に眠るカミーユの傍にレアンドロがそっと近づいた。
音は立てなかったのだが眠りが浅かったのか気配で気づいたのか、カミーユの瞼がゆっくりと開く。
「……レアン」
「すまない。起こしてしまったな」
「ううん…。遅くまでお疲れさま」
上体を起こそうとするカミーユの肩をレアンドロの大きな手がそっと制した。
「寝ていろ」
「ううん。せっかくレアンに会えたのに寝てるなんて」
「いいから」
「じゃあ、レアンも一緒に眠ろう」
部屋の灯りはすべて消えているので、寝台の傍に立っているレアンドロの表情は見えない。
「……まだ公務があるのだ」
「…もうかなり遅い刻だよね」
「寝顔だけ見に来たつもりだったのだ。起こしてしまって本当にすまない」

公務が残ってるならわがままを言ってはいけない。

カミーユはおとなしくまた寝台に横たわる。
そのカミーユの髪をレアンドロの大きな掌がそっと撫でた。

「…掌の怪我、治ってよかった」

ふた月ほど前、レアンドロの掌にひどい裂傷ができていたのだ。
それに気づいたカミーユがレアンドロが止めるのを無視して両手で包み込み「早く治りますように」と願掛けをした。
子供の頃は精霊村の同じ年頃の子の誰より治癒が下手だったのに、なぜかレアンドロに対しては尋常ではないほどの治癒力を発揮することに気づいたのだ。
それからカミーユはレアンドロが怪我をした時には必ず願掛けをしている。

レアンドロの掌は、負傷などなかったかのように綺麗になっていた。

「明日も公務があるの?」
「…ああ、すまない」
「ううん。明日、公務が終わったら会える?」
「………終わったらすぐに会いに来る」
「うん。…おやすみ」
「……おやすみ、カミーユ」

目を閉じてもレアンドロは髪をずっと撫でてくれていて、その優しい手つきにカミーユの不安な気持ちが少しだけ小さくなった気がした。

「…レアン、あんまり無理しないでね…」

優しく愛おし気に髪を撫でられ続けている間に、カミーユはまたまどろみの波に身をゆだねた。


静かな寝息が聞こえてきても、レアンドロはカミーユの髪を、何度も何度も撫でていた―――


*

昨夜はいったい何時まで公務だったんだろう。

カミーユが目覚めた時、今日も当然朝から公務であろうレアンドロの姿は部屋にはなく、エドヴァルドが運んでくれた朝食をとった後、新しく入ることが許された図書室で歴史の本を読んでいた。
カミーユが立ち入る刻は当然だが誰もいない。

静かなその部屋で一人読書をしていたその静寂を誰かが勢いよく開ける扉の音が遮った。何事かと本を閉じ、身を隠そうとしたところに現れたのは、ひどく顔をこわばらせたエドヴァルドだった。

知った顔だったことにカミーユは嘆息する。

「どうしたんだそんなに慌てて」
言い終わる前にエドヴァルドに手を掴まれ、今開かれた扉に向かって一緒に足早に歩かされる。
「何、そんなに急いで」
「俺の故郷へ行くぞ」
「え?」
突然の帰郷宣言と普段落ち着いているエドヴァルドの性急な様子に、戸惑いしか覚えない。
「エドの故郷?なんで、急に、どういうことだよ?」
「いいから」
急かされながら図書室を出ると、廊下のはるか向こうで、王宮の使用人が何やらせわしなく蠢いているような気配が感じられた。いつもは皆落ち着いているのに早足でなにやら慌てている感じだ。
「何があったんだ」
「いいから」
何やら慌ただしい方角を避けるように、迷路のような王宮を下へ下へと進んでいく。

確かこっちの地下には水路があって王宮の外に繋がっていたはずだ。
御伽衆だった頃、エドヴァルドと共に地下水路から舟で王都を脱出したことを思い出す。

「カミーユ早く」
通常は入れないその場所の鍵を開けたエドヴァルドがカミーユを促す。
「ちょっと待って。今すぐ行くのか?何の準備もしてないし、それにレアンに何も言ってないし、行けないよ。何があったんだよ。説明くらいしてくれよ」

カミーユの手を引いていたエドヴァルドが急に立ち止まった。

エドヴァルドの向かおうとしていたその先を見ると、水路に浮かぶ舟の前に、人間に変化した黒虎が立っていた。

「退いてください」

黒虎の差し金かと思ったが、エドの台詞からどうもそうではないようだ。

「もう少し待って欲しいんだよ、俺は」
「退いてください」
「だからまだ今はここから動きたくないんだな」
エドヴァルドの常にない強い口調にも黒虎は一切応じようとはしない。
薄暗い地下の水路だが、黒虎の口角は弧を描いているのが見えた。
「聖獣様はやはり陛下の」
「違うって」
黒虎はエドヴァルドの言葉を途中で遮り否定する。

「これはカミーユのためだ」

刹那、鐘の音が鳴り響いた。
ひとつではない。
いくつもの鐘の輪唱が地下の石壁に反響し、さらに重なっていく。

「な、なんだ?」

いつまでも鳴り続ける鐘の音。

王都中の鐘塔の鐘が鳴っている…?
あの時のようだ。
戴冠と、成婚の日のような―――

エドヴァルドの顔が悲し気に歪んだのが、斜め後ろに立つカミーユからも分かった。

「国を挙げての祝賀だよ」

鐘の音の響きに併せ、黒虎の良く通る声が石でできた水路に響く。

「王妃懐妊の祝賀の鐘さ」

鐘の音が、黒虎の声が、水路に反響する。

「言っただろう。見切りをつけろと」

カミーユの耳には鐘の音が響いているのに、心の中の何かの音がなくなった瞬間だった。










第一部 了

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