契約妻と無言の朝食

野地マルテ

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後日談

仄暗い想い

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※三人称回です。


 エリオン・フォン・エヴニールは悩んでいた。最愛の女性アレクシアとの復縁が三ヶ月前に叶い、本来ならば幸せの絶頂にいる時期のはずだが、彼の整った相貌には暗い影が落ちる。

 ──アレクシアに気持ちが悪いと言われてしまった……。

 彼の翳りの原因は昨夜の出来事にあった。いつも通りエリオンは眠剤入りの薬湯を飲み、愛しい妻の小さな手を握りながら眠りについた。ふかふかで暖かなベッド、隣には最愛の妻が横たわる。幸せな、本当に幸せな時間のはずだったのに。

 エリオンは深い深いため息をつく。彼が常飲している薬湯は、いきなり完全な眠りに落ちるような強い物ではなく、まずは身体や脳の動きを鈍くする類のものだ。彼は一見眠っているようでも、実は耳は聞こえていたりする。昨夜も、彼は最愛の妻の独り言をばっちり聞いてしまっていた。

 『キスなんかぜったい無理』『気持ち悪い』──何度も脳内で繰り返される、妻アレクシアの自分への嫌悪の言葉。朝食の準備をしながら、エリオンは目に涙の膜が張りそうになり、慌ててシャツの袖口で拭う。

 ──当然か……。

 泣きたいのは、気持ちが悪いと思っている男の隣で眠らなければならないアレクシアの方だろうと思い直し、エリオンは茹でた芋を潰す作業を再開する。まだほかほかと湯気が立つ黄金色のそれに細かく削ったチーズと溶かしたバターを入れ、さらに丁寧に漉していく。チーズ入りのマッシュポテトはアレクシアの好物だった。前回これを出した時の彼女の笑顔を思い出すと、胸の奥が甘く疼く。黄金色のそれを口に運び、驚いたように見開かれる瞳。数回瞬きした後、うっとりと微笑むアレクシアは、片手で胸を押さえて床を叩きたくなるぐらい愛らしかった。

 アレクシアは、はじめて会った時から大切にしたいと思えた女性だった。しかし、自分はどうせ西国で早々に死ぬのだからと、わざと冷たくした。いくら嫌われるためとは言え、あれだけ酷いことをしたのに、やり直すチャンスを貰えたのは奇跡としか言いようがないとエリオンは思う。

 今度こそ大切にして、幸せにする──エリオンはそう決意して再びアレクシアと一緒になった。しかし昨夜のアレクシアの言葉をそのまま鵜呑みにしていた彼は、この決意が少し揺らいでしまっている。

 最悪なことに、アレクシアは眠っているエリオンに、キスが出来ないぐらい気持ちが悪いとわざわざ告げた形になってしまった。

 アレクシアの言葉に、ショックを受ける資格などないとエリオンは思う。しかし、彼の心は深く沈む。愛する女性から拒絶の台詞を吐かれ、割り切れるほどエリオンは強くなかった。
 また一つ、ボウルにエリオンのため息が落ちたその時、調理場の戸が開く音がした。

「おはようございます。エリオン様!」

 現れたのは彼の妻、アレクシアである。長い髪を耳の下で緩やかに纏め、シルクのナイトドレスの上に丈の長いカーディガンを羽織っている。いつもはしっかり化粧が施されている顔が、まだ寝起きだからかすっぴんのようだった。エリオンは素のままのアレクシアの顔を好んでいた。化粧顔は凛とした美しさがあるが、眉墨すら塗られていない顔は優しさが感じられる。

「おはよう、アレクシア」

 つい先ほどまで、どのような顔をして妻と接すればいいのかと悩んでいたエリオンだったが、明るく朝の挨拶するアレクシアに表情を緩める。

「マッシュポテト! 嬉しい! これ、大好きなんです」

 エリオンの腕にあるボウルを覗き、アレクシアの表情が花弁が綻ぶように華やぐ。大好きだと言われたのは芋とバターとチーズ、それに牛乳を加えた塊のことで、己のことではないとエリオンは分かっていたが、最愛の人からの賛辞に頬が火照るのを止められなかった。

「……そうか、喜んで貰えてうれしい。じき、パンも焼ける。食事にしよう」
「やった! 着替えてきますね!」

 やや大きいスリッパを引っかけ、パタパタと駆ける妻の後ろ姿をエリオンは見つめる。昨夜、彼女の独り言を聞かなければ、彼は浮かれていただろう。今朝も妻が喜ぶような朝食を用意できたと嬉しく思ったはずだ。
 しかし、悲しいかな。エリオンはすっかりアレクシアの言葉を誤解していた。


 ◆


「美味しい! まろやかだけど、黒胡椒が効いてて……パンにも腸詰めにも合いますね」

 腸詰めソーセージにスッとナイフを入れ、肉汁が滴る断面にマッシュポテトを絡め、口に運ぶアレクシアは実に嬉しそうだ。
 エリオンは楽しそうに食事を続けるアレクシアを見、喉をごくりと鳴らす。彼は無自覚だが、食事をするアレクシアに性的興奮に近いものを覚えていた。食物がアレクシアの小さな唇に触れるたび、弧が描かれる。腸詰めの脂だろうか、てらてらと彼女の紅い唇を濡らしていた。
 アレクシアから何か言葉を投げかけられても、エリオンは彼女を凝視するのに忙しい。彼の返事はとうぜん適当なものになり、みるみるうちにアレクシアの表情は不機嫌なものになった。

「もう! エリオン様はいつも食事時は上の空ですね!」
「すまない……つい」

 悪いなと思いつつも、エリオンは唇を尖らせるアレクシアも可愛いなと思う。本当は会話なんかせず、じっと食事をするアレクシアを見ていたい。彼女は清貧だが、名のある貴族のお嬢様らしく食事の仕方が綺麗だった。手づかみで食べるものでも、所作が美しい。
 いっそ自分も食べられてみたいなどと、気持ちの悪いことをエリオンはいつも考えていた。

 ──いっそ、現実にしてしまおうか。

 夕べのことがあり、エリオンの気分は地にめり込んでいた。寝ている彼に気持ちが悪いと吐き捨てたアレクシア。しかし、今の彼女はどうだろう。エリオンに不快感を持っているようなそぶりは一つも見せない。

 エリオンに、一つの仄暗い考えが浮かぶ。この妻は、いくら自分のことを気持ちが悪いと思っていても、普段の態度には出さないつもりではないのかと。

 エリオンは、アレクシアが自分との復縁に同意してくれたのは愛情からではなく、生活の安定のためだと思いこんでいた。この国は、よっぽどの技能がないかぎり、女性一人で生きていくことは難しい。生活のため、条件ありきで結婚を選ぶ女性が多いという事実をエリオンは知っていた。

 エリオンはまだ、アレクシアから好意の言葉を一つも伝えられていなかった。

 自分がいくら「好きだ」「愛している」と伝えても、下唇を噛んで俯くばかりの妻に、エリオンは悲しみを通り越して苛立ちを覚えはじめていた。頭ではアレクシアがクズな自分を愛することは難しいと分かっていても、心はついていかない。性急な真似をしては駄目だと頭は警笛を鳴らすが、まだ若い身体は妻との接触を強く望んでいた。


「アレクシア、この後少しいいだろうか?」
「はい」

 果実水を飲んでいたアレクシアは、エリオンの頼みに素直に頷く。

 若さゆえの性的な飢餓感に苛まれていたエリオン。そんな時に図らずも妻の本音を聞いてしまったと勘違いした彼は、また過ちを犯そうとしていた。
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