29 / 34
後日談
仄暗い想い
しおりを挟む※三人称回です。
エリオン・フォン・エヴニールは悩んでいた。最愛の女性アレクシアとの復縁が三ヶ月前に叶い、本来ならば幸せの絶頂にいる時期のはずだが、彼の整った相貌には暗い影が落ちる。
──アレクシアに気持ちが悪いと言われてしまった……。
彼の翳りの原因は昨夜の出来事にあった。いつも通りエリオンは眠剤入りの薬湯を飲み、愛しい妻の小さな手を握りながら眠りについた。ふかふかで暖かなベッド、隣には最愛の妻が横たわる。幸せな、本当に幸せな時間のはずだったのに。
エリオンは深い深いため息をつく。彼が常飲している薬湯は、いきなり完全な眠りに落ちるような強い物ではなく、まずは身体や脳の動きを鈍くする類のものだ。彼は一見眠っているようでも、実は耳は聞こえていたりする。昨夜も、彼は最愛の妻の独り言をばっちり聞いてしまっていた。
『キスなんかぜったい無理』『気持ち悪い』──何度も脳内で繰り返される、妻アレクシアの自分への嫌悪の言葉。朝食の準備をしながら、エリオンは目に涙の膜が張りそうになり、慌ててシャツの袖口で拭う。
──当然か……。
泣きたいのは、気持ちが悪いと思っている男の隣で眠らなければならないアレクシアの方だろうと思い直し、エリオンは茹でた芋を潰す作業を再開する。まだほかほかと湯気が立つ黄金色のそれに細かく削ったチーズと溶かしたバターを入れ、さらに丁寧に漉していく。チーズ入りのマッシュポテトはアレクシアの好物だった。前回これを出した時の彼女の笑顔を思い出すと、胸の奥が甘く疼く。黄金色のそれを口に運び、驚いたように見開かれる瞳。数回瞬きした後、うっとりと微笑むアレクシアは、片手で胸を押さえて床を叩きたくなるぐらい愛らしかった。
アレクシアは、はじめて会った時から大切にしたいと思えた女性だった。しかし、自分はどうせ西国で早々に死ぬのだからと、わざと冷たくした。いくら嫌われるためとは言え、あれだけ酷いことをしたのに、やり直すチャンスを貰えたのは奇跡としか言いようがないとエリオンは思う。
今度こそ大切にして、幸せにする──エリオンはそう決意して再びアレクシアと一緒になった。しかし昨夜のアレクシアの言葉をそのまま鵜呑みにしていた彼は、この決意が少し揺らいでしまっている。
最悪なことに、アレクシアは眠っているエリオンに、キスが出来ないぐらい気持ちが悪いとわざわざ告げた形になってしまった。
アレクシアの言葉に、ショックを受ける資格などないとエリオンは思う。しかし、彼の心は深く沈む。愛する女性から拒絶の台詞を吐かれ、割り切れるほどエリオンは強くなかった。
また一つ、ボウルにエリオンのため息が落ちたその時、調理場の戸が開く音がした。
「おはようございます。エリオン様!」
現れたのは彼の妻、アレクシアである。長い髪を耳の下で緩やかに纏め、シルクのナイトドレスの上に丈の長いカーディガンを羽織っている。いつもはしっかり化粧が施されている顔が、まだ寝起きだからかすっぴんのようだった。エリオンは素のままのアレクシアの顔を好んでいた。化粧顔は凛とした美しさがあるが、眉墨すら塗られていない顔は優しさが感じられる。
「おはよう、アレクシア」
つい先ほどまで、どのような顔をして妻と接すればいいのかと悩んでいたエリオンだったが、明るく朝の挨拶するアレクシアに表情を緩める。
「マッシュポテト! 嬉しい! これ、大好きなんです」
エリオンの腕にあるボウルを覗き、アレクシアの表情が花弁が綻ぶように華やぐ。大好きだと言われたのは芋とバターとチーズ、それに牛乳を加えた塊のことで、己のことではないとエリオンは分かっていたが、最愛の人からの賛辞に頬が火照るのを止められなかった。
「……そうか、喜んで貰えてうれしい。じき、パンも焼ける。食事にしよう」
「やった! 着替えてきますね!」
やや大きいスリッパを引っかけ、パタパタと駆ける妻の後ろ姿をエリオンは見つめる。昨夜、彼女の独り言を聞かなければ、彼は浮かれていただろう。今朝も妻が喜ぶような朝食を用意できたと嬉しく思ったはずだ。
しかし、悲しいかな。エリオンはすっかりアレクシアの言葉を誤解していた。
◆
「美味しい! まろやかだけど、黒胡椒が効いてて……パンにも腸詰めにも合いますね」
腸詰めにスッとナイフを入れ、肉汁が滴る断面にマッシュポテトを絡め、口に運ぶアレクシアは実に嬉しそうだ。
エリオンは楽しそうに食事を続けるアレクシアを見、喉をごくりと鳴らす。彼は無自覚だが、食事をするアレクシアに性的興奮に近いものを覚えていた。食物がアレクシアの小さな唇に触れるたび、弧が描かれる。腸詰めの脂だろうか、てらてらと彼女の紅い唇を濡らしていた。
アレクシアから何か言葉を投げかけられても、エリオンは彼女を凝視するのに忙しい。彼の返事はとうぜん適当なものになり、みるみるうちにアレクシアの表情は不機嫌なものになった。
「もう! エリオン様はいつも食事時は上の空ですね!」
「すまない……つい」
悪いなと思いつつも、エリオンは唇を尖らせるアレクシアも可愛いなと思う。本当は会話なんかせず、じっと食事をするアレクシアを見ていたい。彼女は清貧だが、名のある貴族のお嬢様らしく食事の仕方が綺麗だった。手づかみで食べるものでも、所作が美しい。
いっそ自分も食べられてみたいなどと、気持ちの悪いことをエリオンはいつも考えていた。
──いっそ、現実にしてしまおうか。
夕べのことがあり、エリオンの気分は地にめり込んでいた。寝ている彼に気持ちが悪いと吐き捨てたアレクシア。しかし、今の彼女はどうだろう。エリオンに不快感を持っているようなそぶりは一つも見せない。
エリオンに、一つの仄暗い考えが浮かぶ。この妻は、いくら自分のことを気持ちが悪いと思っていても、普段の態度には出さないつもりではないのかと。
エリオンは、アレクシアが自分との復縁に同意してくれたのは愛情からではなく、生活の安定のためだと思いこんでいた。この国は、よっぽどの技能がないかぎり、女性一人で生きていくことは難しい。生活のため、条件ありきで結婚を選ぶ女性が多いという事実をエリオンは知っていた。
エリオンはまだ、アレクシアから好意の言葉を一つも伝えられていなかった。
自分がいくら「好きだ」「愛している」と伝えても、下唇を噛んで俯くばかりの妻に、エリオンは悲しみを通り越して苛立ちを覚えはじめていた。頭ではアレクシアがクズな自分を愛することは難しいと分かっていても、心はついていかない。性急な真似をしては駄目だと頭は警笛を鳴らすが、まだ若い身体は妻との接触を強く望んでいた。
「アレクシア、この後少しいいだろうか?」
「はい」
果実水を飲んでいたアレクシアは、エリオンの頼みに素直に頷く。
若さゆえの性的な飢餓感に苛まれていたエリオン。そんな時に図らずも妻の本音を聞いてしまったと勘違いした彼は、また過ちを犯そうとしていた。
17
お気に入りに追加
3,232
あなたにおすすめの小説
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。
義妹の嫌がらせで、子持ち男性と結婚する羽目になりました。義理の娘に嫌われることも覚悟していましたが、本当の家族を手に入れることができました。
石河 翠
ファンタジー
義母と義妹の嫌がらせにより、子持ち男性の元に嫁ぐことになった主人公。夫になる男性は、前妻が残した一人娘を可愛がっており、新しい子どもはいらないのだという。
実家を出ても、自分は家族を持つことなどできない。そう思っていた主人公だが、娘思いの男性と素直になれないわがままな義理の娘に好感を持ち、少しずつ距離を縮めていく。
そんなある日、死んだはずの前妻が屋敷に現れ、主人公を追い出そうとしてきた。前妻いわく、血の繋がった母親の方が、継母よりも価値があるのだという。主人公が言葉に詰まったその時……。
血の繋がらない母と娘が家族になるまでのお話。
この作品は、小説家になろうおよびエブリスタにも投稿しております。
扉絵は、管澤捻さまに描いていただきました。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
【短編】旦那様、2年後に消えますので、その日まで恩返しをさせてください
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
「二年後には消えますので、ベネディック様。どうかその日まで、いつかの恩返しをさせてください」
「恩? 私と君は初対面だったはず」
「そうかもしれませんが、そうではないのかもしれません」
「意味がわからない──が、これでアルフの、弟の奇病も治るのならいいだろう」
奇病を癒すため魔法都市、最後の薬師フェリーネはベネディック・バルテルスと契約結婚を持ちかける。
彼女の目的は遺産目当てや、玉の輿ではなく──?
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
メイドから家庭教師にジョブチェンジ~特殊能力持ち貧乏伯爵令嬢の話~
Na20
恋愛
ローガン公爵家でメイドとして働いているイリア。今日も洗濯物を干しに行こうと歩いていると茂みからこどもの泣き声が聞こえてきた。なんだかんだでほっとけないイリアによる秘密の特訓が始まるのだった。そしてそれが公爵様にバレてメイドをクビになりそうになったが…
※恋愛要素ほぼないです。続きが書ければ恋愛要素があるはずなので恋愛ジャンルになっています。
※設定はふんわり、ご都合主義です
小説家になろう様でも掲載しています
王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~
石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。
食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。
そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。
しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。
何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。
扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる