契約妻と無言の朝食

野地マルテ

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渦巻く心

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「……アレクシア様、頬の手当てをしましょうか?」
「必要ありません……。私のことは気にしないでください」
「でも、痕になったら」
「平気です。もともと、たいした顔じゃないもの」

 三階の屋上から落下した私たちは、高く伸びる草木が生い茂る場所へ落ちた。エリオンに庇われた私は身体や頭をぶつけることはなかったものの、顔にいくつか切り傷を作っていた。
 社交界で一度も男性からお声が掛からなかった顔だ。多少頰に小さな傷を作ったぐらいで、人からの評価は変わらないだろう。友人達からは肌が綺麗で羨ましいといつも言われていたが、男は肌が美しいだけではなびかない。肌が美しかったら七難隠せるというのは嘘だ。

 頭部を包帯でぐるぐる巻きにしたエリオンも顔にいくつか傷を作っていたが、人形のように造作の整った顔をして眠っていた。こんなことを考えている場合ではないと分かっているが、美形はいつ如何なる時も美形なのだなとしみじみ思ってしまった。
 医者の診断では、彼は頭をぶつけたわけではなく、大きな木の枝に頭をひっかけて裂傷を負ったらしい。
 さぞや痛かっただろうに。それでも彼は私の身体を最後まで離さなかった。
 草木がクッションになり、エリオンも致命的となるような身体のぶつけ方はしておらず、骨も無事らしいが、何故か彼は気を失ったままだった。

 ぽろぽろと、頰に涙がこぼれ落ちる。
 頬の傷に涙がしみる。
 鼻の奥が痛い。
 このままエリオンが目覚めなかったらどうしよう。
 私が『死んで詫びる』とつぶやくと、家令に叱られた。

「なんの為にエリオン様がアレクシア様をかばったのか……分からないのですか?」

 分からない。あのまま放っておいてくれても良かったのに。どうしてエリオンは私を庇ったのだろう。

「分かりません……」
「エリオン様はアレクシア様に生きて貰いたかったのですよ」
「どうして……。旦那様は半年間も私を無視したのに」

 瞼を固く閉じたエリオンが横たわる、ベッドの端で私はうつ伏せた。嗚咽が止まらない。彼がこのまま死んだり、何か後遺症が残ったらどうしよう。ベッドシーツを掴む手が震えた。

 家令は誰かに呼ばれ、申し訳なさそうに部屋から出て行った。
 私たちは二人きりになった。

「旦那様……」

 呼びかけても返事がない。
 私はここで半分嘘をつくことにした。
 なんとなく、嫌なことを言えばエリオンは目覚めてくれそうな気がしたからだ。

「旦那様は一昨日から、やたら私の気持ちを聞いてきましたよね? 私……、ほんとうは旦那様のことが嫌いなんです」

 寝ているはずのエリオンの瞼が、ぴくりと動いたような気がした。
 自分を命懸けで庇ってくれた人を嫌いだと言うなんて。自分でも酷いと思うが、口は止まらなかった。

「結婚してから半年間も私のことを無視するし、いきなり添い遂げようなんて言い出して、私を抱くし……。あまつさえ、性的に婚姻の無期限化を迫るなんてあんまりです。ひどすぎます」

 こんなに無茶苦茶なことをされて、好きになれと言われても無理だ。はじめての快楽を教えられた身体は、確かにエリオンに落ちていると思う。
 でも、心は。
 心にはぐるぐる迷いが渦巻いている。
 彼は、私がここに嫁いできて朝が楽しみになったと言ってくれた。私の姿が好きなドレスや髪型だと嬉しく思ったと言ってくれた。
 この半年間、私に好意を伝えない・黙ったままでいたエリオンにその時は腹が立ったが、あれから、言葉や行動の端々から感じられる『あれ? この人は私のことが好きなんじゃ……?』と勘違いしそうになる事柄に、すっかり惑わされている。
 彼は私が昼食を取らず部屋に籠っていると聞き、果実水とリンゴを持ってきてくれた。
 屋敷の人たちが言うとおり、優しいところも確かにあるのだろう。

 でも、やっぱり朝のダイニングでは口をきいてくれなかったり、意地悪なことを言いながら私を性的に追い詰めたり、エリオンが何をしたいのか理解できないことはたくさんあった。

 私が出した結論は、エリオンとは一緒に暮らせないというものだ。

 だって、この二日間でさえ、私の感情は揺れに揺れまくった。心の中はぐちゃぐちゃになった。エリオンのことが好きなのかもと思ったこともあったし、こんな理不尽なクソ野郎好きになれるか! とも思った。
 こんなに心がぶれぶれに、不安定になる相手と結婚生活を続けるなんて無理だ。
 今回私たちは三階から落ち、身体は無事で済んだが、また似たようなことが起きたらと思うとゾッとした。
 私は彼といたら、また心が不安定になると思う。
 だって閨の時でも、彼が行為に慣れているなと感じるたびに、過去にいたであろう女達にものすごく嫉妬したのだ。
 私に触れるように、誰か他の人のことも優しく触れたのかと考えるだけで叫び出したくなる。
 エリオンは美形だ。黙って立っているだけでも女性が寄ってくるような魅力的な男性だ。
 経験があって当然なのに。
 怒りと嫉妬、そして好意。感じたことのない強い感情に私は振り回される。

「旦那様のことなんか、だいっきらい……」

 大嫌いの言葉が自分の胸に突き刺さる。
 私は半分、自分の心に嘘をついているからだ。
 もう、情緒はぐちゃぐちゃだった。
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