契約妻と無言の朝食

野地マルテ

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家に帰りたい

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「アレクシア‼︎」

 今まさに飛び降りをしようとした瞬間、聞き覚えのある声が屋上に響いた。
 びっくりして咄嗟にその場にしゃがみ込む。

 声の主は見たことがないぐらい真っ青な顔をして、髪を振り乱しながら凄い勢いで私のところへとやってきた。

「旦那様……」
「何をしているんだ……こんなところで……」
「何って……」

 どうしてこの人はこんなに血相を変えているのだろう。いつも整えている髪はぐちゃぐちゃだし、シャツの襟も変な形に曲がっている。何も取らず無我夢中で走ってきた、そんな様相に見えた。いつもの澄ました顔はどこへやら、だ。

「ここから下へ飛び降りようと思って」
「はっ、はぁっ⁉︎ な、なんでそんな真似を……! 危ないからこっちへ来るんだ!」

 何でそんな真似をって。実家に帰りたいからだ。
 半年間もエリオンに無視され続けたと思ったら、急に添い遂げようって言われて半端無理やり抱かれて。
 私と仲良くしてくれた義兄一家の安否すらはっきり分からない。
 屋敷の人たちはエリオンの味方で私に本当のことを言ってくれない。
 エリオンの行動の意味が分からないし、誰かに相談したくても相手がいない。
 端的に言うと、私は追い詰められていた。

 エリオンは息を切らしながらこう言った。

「死んでは駄目だ……!」

 ──死?

 エリオンが発した物騒な言葉に驚く。私は死ぬつもりはない。ただ、ここから飛び降りて厩へ行こうと思っているだけだ。
 家に帰りたい。

「私は家に帰りたいだけです」
「……そうか、それなら馬車を用意して明日にでも帰そう。だからこっちへ来るんだ」

 エリオンは嘘をついている。
 彼は私を引き止めるために、咄嗟に嘘をついたのだ。
 彼は私に手を伸ばそうとする。
 どうせこの手を取ったら、誰もいない部屋に連れ込まれて、また性的に迫られる。

 快楽に誤魔化されて、彼本人を好きだと思うようにはなりたくない。
 私はもっとエリオンと語らって、わかり合いたかったのに。たとえ、二年間だけのかりそめの夫婦でも、彼と仲良くなりたかったのだ。

 私がこの契約妻を引き受けた理由は、お金のためもあったけど、個人的な動機は別にある。社交界で壁の花をやってきた私には、家族以外の男の人との良い思い出が何一つない。二年間だけでもいいから、自分がいいなと思った男性と一緒に過ごして、何度も思い返して心を温められる、一生の思い出が欲しかったのだ。
 それなのに。朝食の時にいくらこちらから声をかけても彼はろくな返答をくれなかった。気のない返事をされるたび、どれだけ悲しかったことか。
 また涙が込み上げてきた。それを誤魔化すように私は叫んだ。

「どうせ、私を犯すくせに! 抱き潰して屈服させるつもりでしょう⁉︎ ひどいひどいっ! どうしてそういうことをするの⁉︎ 私のこと、好きじゃないくせに!」

 私は何気ない日常のやりとりとか、そう、例えば朝食の時とかに『これ美味しいね』とか、『今日は天気がいいね』とか、とりとめのない世間話を気兼ねなくして、少しずつ心を通わせたかったのに。

「落ち着こう、アレクシア」

 エリオンは柵を難なく越えてこちらへやってくる。嫌だ、触られたくない。そう思い、彼に腕を掴まれそうになって、私は咄嗟に膝を引いた。

 ──あっ……!

 柵を越えた狭い場所、人一人がやっと立ち歩ける幅しかない。そんなところで私は腕を大きく振り、体の重心を崩してしまった。

 ──お、落ちる……!

 オレンジ色に染まる空、ぽんと宙に投げ出される私の体。とっさにエリオンに腕を掴まれたが、間に合わなかった。
 もう駄目だとぎゅっと瞼を閉じたその時、私は自分の頭をすっぽり包む感触にはっとした。
 嗅いだことのあるグリーン系の香水、温かな体温。
 私はエリオンの腕のなかにいた。
 人は落ちる時、時間が止まったように感じるというのは本当だ。
 自分の落下にエリオンを巻き込んでしまったと焦る前に、私は不謹慎にも彼の腕のなかを心地よいと感じてしまった。
 私もエリオンの身体に必死にしがみついた。



 ◆



 私たちの身体は、茂みの中に落ちた。木の枝が折れるバキバキという凄い音がした。
 私の身体は、エリオンが守ってくれたおかげでどこにもぶつけることなく無事だった。
 その事実に泣きそうになる。
 彼はなんの受け身を取ることなく、三階から落下した。無事ですむわけが無かった。

「! 旦那様っ……!」

 エリオンは気を失っているのか、私が呼びかけても返事をしない。艶やかな黒髪の隙間からじわじわ血が溢れ出し、額につっと赤黒いものが流れていくのが見えた。

「旦那様、旦那様あっ‼︎ 誰か! だれかぁ!」

 私は叫ぶ。
 よりにもよってこの時間、屋敷内で一番人がいないであろう場所に落ちてしまった。厩にも見張りの私設兵がいるだろうが、それは外部からの侵入者を警戒するものだろう。建物側には人の姿は見えない。
 ここは完全に死角だった。しかも高く伸びた雑草がそれなりに広い範囲に生えている場所。

 ──どうしよう、どうしよう……!

 自分の落下事故にエリオンを巻き込んでしまった。彼はどこかにぶつけたのか、頭部からの出血がひどい。私がこんなに叫んでいるというのに、彼の瞼は閉じられたままだった。
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