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はじめてぶち当たる壁①

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 リオノーラが息子のエミリオを連れて王都へ移住し、今日で一ヶ月になる。
 彼女は書類が山と積まれた机の上でうつ伏せていた。

「はぁぁああぁ~~」

 想像していた以上に母子寮での息子との二人暮らしが大変過ぎてもはやため息しか出ない。仕事との両立は言わずもがなだ。
 顔をうつ伏せたまま、机の上に置いた籠に手を伸ばす。籠の中には粉と卵、牛乳を混ぜて焼いた菓子があった。
 まあるい焼き菓子をひとつ口の中へ放り込むと、彼女は気だるそうに咀嚼する。

 (一緒に暮らす子はエミリオだけだし、もっと余裕のある生活が出来ると思っていたのに……)

 リオノーラは自分の仕事があるため、毎朝エミリオを街の託児所まで送り届けているのだが、それだけでも大変だった。
 朝、食事をさせて出かける支度をし、決まった時間までに息子を託児所へ送る。ただそれだけでも毎日ゲンナリしてしまう。

 エミリオは好奇心旺盛で、すぐにあっちこっちへ行こうとする。それを何とか宥めて託児所まで連れて行くのだが、これがもう、ものすごく大変なのだ。息子はこれまでずっと田舎でお屋敷暮らしをしていた。城下街に暮らすようになって見るものすべてが新鮮なのは分かるのだが、託児所までなかなかたどり着けなくてほとほと困っている。

 まだエミリオは託児所への通い渋りをしないので、その点は助かっていた。すでに仲の良い先生やお友達も出来たようで、よく託児所での出来事をにこにこしながら話してくれる。エミリオの笑顔だけがリオノーラの救いだった。

 あまりにも自分が日々の送り迎えに手こずるので、夫が手配してくれた護衛官達にも『我々でエミリオ様の送り迎えをしましょうか?』と言われてしまった。

「なさけない……」

 子どもはエミリオで四人目なのだが、リオノーラの母親業レベルは素人に毛が生えた程度だった。一通りの世話は出来るが、それはあくまでも他に大人の手があることが前提のレベル。
 リオノーラはエミリオ一人に完全に振り回されていた。

 (他に相談できる人もいないし……)

 母子寮では、リオノーラはすでにベテラン母として周囲に認識されてしまっている。
 全寮制の兵学校に通う上の三人娘が、半ドンの日に母子寮の部屋までランチを食べに来るのだが、それを見た周囲の人達から勝手にベテラン母だと勘違いされてしまったのだ。

 上の子三人を兵学校に入れた凄い母親なのだと母子寮の入居者達に思われてしまった。娘達のことは夫にほとんど任せていると言っても聞いて貰えなかった。ちなみに兵学校には受験がある。世界中から受験者が集まるため、受験倍率は高い。

 リオノーラは姿見鏡に映る自分を見て、またため息をつく。
 正直に言って、肝っ玉母さんなのは外見だけだ。

 ふと壁に掛けてあるカレンダーを見る。
 明日は夫、アレスとの面会の日だ。
 リオノーラはエミリオを連れて王都へ移住する際、アレスととある約束をしていた。彼が非番やすみの日には息子を預けるという約束を。

 アレスにエミリオを預けている間だけは、リオノーラは自由の身になれた。
 本来ならば待ち遠しくなる日なのだが、母子寮へ来てからの自分があまりにもダメダメすぎて、少し夫に会いづらいなと思ってしまう。

「はぁ……」

 また一つ、リオノーラのため息が机の上に落ちた。


 ◆


「おとうさぁん!」

 王立騎士団近衛部隊の詰所の前。
 息子は父親の姿を目にすると、ふわふわの癖っ毛を振り乱しながら走り出す。かっちりとしたタイトなズボンと黒皮のブーツに包まれた長い脚にしがみつく。
 顔を上げたエミリオの深い緑色の大きな瞳には、酷薄そうな顔をほんの少しだけ緩めた父親アレスの姿が映っていた。

「エミリオ、元気そうだな」
「げんきー!」

 灰色の詰め襟服を着たアレスは、エミリオの脇に手のひらを差し入れると慣れた様子で抱き上げた。愛おしい息子の笑顔に、切れ長の目が細められる。
 微笑ましい父子の様子を、リオノーラは何とも言えない表情で見つめていた。
 今日、この母子は午前勤務で上がる父親を詰所の前で待っていたのだ。

 アレスは、どこか遠い目をしている妻の表情を見逃さなかった。すぐさま彼は部下の女性騎士を呼び、エミリオを抱っこしながら何やら耳打ちする。

「エミリオ、リーリエお姉さんが遊んでくれるって」
「わぁっ、やったぁ!」

 アレスは女性騎士にエミリオを渡すと、リオノーラの方を振り返った。

「部屋を用意してある。行こうか」
「部屋……?」
「大人と話がしたいだろう?」

 オトナ、話、その単語だけでリオノーラは即座に首をぶんぶん縦に振った。

「はい!」

 幼い息子との二人暮らしは孤独だった。たまに書類を届けにティンエルジュ家の使いが来たり、王都に住む叔母の家へ行くことはあるが、圧倒的に大人との会話が足りなかった。息子は息子で可愛いのだが、まだ息子は三歳にもなっていない。当然、会話が成り立たないことは多かった。

 リオノーラは思う存分、大人と話がしたいと思っていた。
 大人とのやり取りに飢えていたのだ。
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