離縁の危機なので旦那様に迫ったら、実は一途に愛されていました

野地マルテ

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1巻

1-2

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 その後もラインハルトはアレスがいかに大切な部下であるかを語り、続けてアレスと共に困難な任務を乗り越えた話をする。ラインハルトの語り口は巧みで、リオノーラは相槌を打ちながら眉尻を下げた。

「それは大変でしたね……」
「……ええ、だからこそ、私はアレスを失いたくない。私は西の帝国戦後、二人の補佐官と三十人の一般兵の部下をとむらいました。リオノーラ様は戦後、精神的な病で自死する騎士や一般兵が多く出たことをご存知ですか?」
「ええ」

 ラインハルトは時間がないと言わんばかりに矢継ぎ早に話す。実際、時間はないのだろう。アレスは特務師団の師団長補佐官をしているが、いつも忙しそうだ。その補佐官の長たる彼もわずかな時間を縫ってここに来ているのは想像に難くない。

「アレスも危ないかもしれません」
「危ないとは?」
「百聞は一見にしかず、と言います。このまま王都まで来ていただけませんか?」

 ラインハルトの突然の提案に、リオノーラはとっさに隣のレイラに視線を送った。今は昼前。今からこの宿を出れば夕刻には王都へ着くが、王都から今日中にティンエルジュの屋敷へ戻るのは難しい。なるべくなら、女だけで夜道を単騎で走るのは避けたいところだ。

「婿殿を見捨てるのか、リオ」

 リオノーラの迷いを悟ったレイラの言葉は厳しい。異父弟のアレスのことを心配しているのだろう。
 レイラは口調は厳しいが、根は優しい女性だ。部族長である母親が一族を困窮から救うために宗国貴族アーガス・デリングから大金を積まれて産んだ、という複雑な出自を持つ弟であっても、真剣に心配している――その想いがリオノーラには痛いほど伝わってきた。
 実はリオノーラにも父親違いの弟がいる。家令に連れられてティンエルジュ家を出た母は、その後後宮で王子となる男児を産んだ。直接会ったことはないが、弟に何かあったらきっと心配すると思う。

(でも、お父様に何も言わずに出てきてしまったし。どうしましょう……)

 それに、まだ今日中に片付けなければならない書類は屋敷にいくらでもある。自分の役目は放棄できないという考えと、アレスへの想いがリオノーラの中でせめぎ合う。
 まぶたを閉じて深呼吸し、リオノーラは自分がどうするのか、答えを出した。

「……王都へ参ります」

 リオノーラの頭の中は大いに混乱していたが、口から出た言葉は、ここから引き返すのではなく王都へ向かうという選択だった。三日前に会ったアレスの様子を思い浮かべ、もうこれ以上彼を放っておくことはできないと判断した。
 魂が抜け落ちたようなあの目。光を映していないガラス玉のようなアレスの瞳を見るたびに不安になった。言葉は発しているし、足取りもちゃんとしていたが、いつ消えてしまってもおかしくないようなはかなさをずっと彼から感じていた。

「リオ、ありがとう」

 リオノーラの決断に、いつも男まさりなレイラがぱっと表情を明るくさせ、しおらしく礼を言う。

「お礼なんていいのよ」

 このまま屋敷に戻ったら、きっと後悔することになる。多忙を極めているであろう特務師団の補佐官の長が、わざわざ部下の妻へ暗号書を書いたのだ。これはもうどう考えてもただごとではない。
 リオノーラはざわつく胸を押さえる。三日前に会ったばかりだが、無性に今、アレスに会いたいと思った。


 レイラが御する馬に再びまたがったリオノーラは、アレスのことを考えていた。

(結婚する前は、こうじゃなかったのに……)

 今でこそ鉄格子越しに一言二言交わすだけだが、結婚前は鉄格子のないところで二人きりで会っていたこともある。騎士になった十六歳頃から急激に身長が伸び始めたアレスのために、裁縫が得意なリオノーラがシャツを仕立てることさえあったのだ。

(……あの頃は楽しかったわ)

 リオノーラは人より背が低い。採寸をするためには踏み台へ上がる必要があったのだが、踏み台の上だと、いつもは見下ろされる自分が見下ろす側になれることが愉快でたまらず、アレスの肩に背後から抱きついたこともあった。
 いつも淡々としていて動じることのないアレスが、その時ばかりはびくりと肩を震わせ、深緑色の目を大きく見開きながら振り返り、眉尻を下げてこちらを見上げるのだ。

『リオノーラ、踏み台の上でふざけるのはやめてください。落ちたらどうするのですか?』

 今でも、目を閉じれば、自分をたしなめるアレスの戸惑ったような声が聞こえてくる。

(……また、アレス様とあんな関係になれるかしら?)

 恋仲ではないが、お互いを子どもの頃から知っているがゆえの気安い関係。結婚してその関係を失ってから、心に隙間風が吹いている。
 新婚当初に求婚そのものについてめたことを考えると今の関係だって悪くはないのだが、結婚前の関係を思うと、随分と距離ができてしまったように感じる。

(私のせいよね……)

 父親の命令とはいえ、この一年と九ヶ月の間、鉄格子越しにしか会わなかったのだ。
 二人の間に距離ができて当然だ。

(……アレス様はずっと私のもとに通い続けてくれたのに、私はアレス様のことを見ようとしなかったわ)

 リオノーラは領の仕事にかまけて、アレスのことをあえて考えないようにしてきた。
 だが、とうとう彼と向き合わなくてはならない時が来たのだ。


 ラインハルトの案内で、リオノーラとレイラがアレスの暮らす王立騎士団の寮に着いたのは、日が沈みかける頃。
 リオノーラは足腰をがくがくさせながら馬上から下りた。今日は一日馬の背にまたがりっぱなしだった。身分を隠すためとはいえズボンを穿いてきて正解だったと、彼女は硬い布地についた砂粒やゴミを手で払いながら思う。

「リオ、大丈夫か?」
「平気よ、これぐらい」

 平気ではないが、気張って笑顔を見せる。

「さすがティンエルジュ侯の娘様でございますね。健脚であられる」
「そんなことありませんわ」

 リオノーラの気丈さに、ラインハルトも口の端を上げた。そもそもこの国では、馬に乗れる令嬢は少数派だ。いても騎士志望の下級貴族の娘ぐらいだろう。リオノーラは色々な意味で規格外な令嬢だった。父である侯爵も、単騎でよく領内を走り回っている。貴族らしくないと王都でも有名らしい。

「さあ、ここがアレスが暮らす部屋です」

 堂々と不法侵入しようとしているラインハルトに、リオノーラは眉をひそめる。

「……勝手に入ってもよろしいのですか?」
「ええ。彼は今日、ここへは戻ってきませんから」

 ラインハルトに連れられてやってきた建物は、二階建ての四角い戸建住居だった。まだ建てられて何年も経っていないらしく、外壁塗料の臭いが少しだけする。周囲にも似たような建物が立ち並んでいた。
 所属する師団にもよるが、王立騎士団の補佐官以上の騎士は将校と呼ばれていて、住居などあらゆる面で優遇されているらしい。そしてその将校らには、戸建の寮が提供されている。しかし一人で住んでいるのはアレスだけだとラインハルトは言う。

「将校になっても単身でいるのは少数派ですからね。妻帯者のために広めの寮が提供されるのです」

 単身、という言葉がリオノーラの胸に突き刺さる。自分達は結婚後、それが当たり前であるかのように別居した。リオノーラは自領の仕事を多く抱えていて実家の屋敷を出るのが難しく、またアレスも戦後処理でたびたび西の帝国に出向いていた。
 新婚当時は同居できるような状態ではなかったのだ。
 宗西戦争終結から二年半が経過した今、戦後処理は落ち着いているようだが、二人はリオノーラの父の反対もあり、完全に同居のタイミングを失っていた。
 さらにその父の命令で、たまの面会も鉄格子越しだ。あの状態ではアレスも「同居しよう」とは言い出せなかったのだろうと容易に想像がつく。何せ、あの場には兵長のレイラを含めた私設兵達もずらりと立ち並んでいるのだから。
 家の錠が外され、ラインハルトに続いて恐る恐る中へ入る。
 室内の様子を捉えたリオノーラは首を巡らせた。ふと違和感を覚える。

「……ここ、人が住んでいるのですか?」

 ラインハルトが手元灯を点けると、あたりに柔らかな光が広がった。

「生活感ないでしょう? アレスは騎士団の詰所で寝泊まりしていて、ここへはほとんど帰っていないみたいなので」

 リオノーラの言葉に、ラインハルトは苦笑いする。
 玄関を入ってすぐ隣にある炊事場の、調理台の上には台拭きひとつ置かれていない。寝室らしき部屋の前の隅には、新品の布団やシーツがいくつも重ねて置かれていた。騎士は仕事柄負傷することも少なくない。ベッドは汚れがちなため、あらかじめ寝具はたくさん支給されているのだという。

「ここに女の子の一人でも連れ込めば、少しは気が紛れたんでしょうけれど、あいつは岩のように堅物でね。私や同僚がいくら娼館へ誘っても断るのです」

 ラインハルトは軽口を叩きながら、部屋の中央にあった四角いテーブルの端を掴み、ずずずっと音を立てて動かした。
 彼が移動させたテーブルの下には、床下収納があった。

「リオノーラ様、覚悟はよろしいですか?」

 そこに鍵がかかっていないことを確認したラインハルトが、リオノーラの顔を見上げる。
 彼女は唇を真っ直ぐに引き結んだ。

「はい……」

 ラインハルトが戸に手をかけ、一気に引き開ける。
 生活感のまったくない室内。その床下には、アレスのむごたらしい日常の残骸が埋まっていた。

「これは……」

 床下から出てきた麻袋の中身に、愕然がくぜんとする。酒瓶数本と、おびただしい数の、針。透明の筒の先に針がついたものが山ほど出てきたのだ。優に百本以上はあるだろうか。
 窓から差し込む夕日。橙色だいだいいろに染まる室内で、その針の山は異様な存在感を放っていた。
 アレスが負傷した兵の治療を行う衛生部隊所属ならば、床下から注射器が出てきてもさほど驚かなかったかもしれない。しかし彼の所属は特務師団。主な任務は諜報、そして暗殺だ。暗殺の際に毒物を用いることもあるかもしれないが、わざわざこの量の注射器を自宅には置かないだろう。

「……使用済みの物ばかりですな。リオノーラ様、見ての通り、アレス・デリングは薬物依存に陥っております」
「マカフミの葉と溶剤……戦神の薬か。最近使われた跡があるな」

 薬の知識を持つレイラが、麻袋の中をあらためながらつぶやく。
 アレスが薬物依存に陥っていると聞いても、リオノーラは驚かなかった。彼と同じような様子の若者を自領でも何人も見たし、宗西戦争から戻ってきた者の様子がおかしいとの報告は、屋敷にいくつも届いていたからだ。

「アレスは律儀にも、一度に使う容量をきっちり守っているようです。戦後二年半になりますが、彼が死なずに済んでいるのは、わざわざ目盛り付きの注射器を使っていたからでしょうな」
「この薬を打ち続けるとどうなるのですか……?」
「ろくなことにはなりません。しかし、無理にやめようとすると、ひどい離脱症状が出ると聞きます。アレスも離脱症状に耐えきれず、この薬を少しずつ使い続けたのでしょう」

 胃に重たいものを感じる。この二年近くの間、アレスが少しずつ人間らしさを失っていることに気がついていたのに、家業の手伝いを理由に見て見ぬふりをしていた。
 リオノーラは、いつもならケーキをホールごと食べても胃もたれひとつ起こさない強靭きょうじんな腹をさすった。己の腕に針を突き立てるアレスを思い浮かべるだけで、胃がキリキリと痛む。

「アレス様に、この薬をやめさせます……!」

 リオノーラは嗚咽おえつのような声を漏らす。彼女は責任を感じていた。

「ラインハルト殿、戦神の薬依存から脱する方法はあるのか?」

 レイラが尋ねると、ラインハルトは「ふむ」と顎に手を当てる。

「う~~ん、そうですなぁ。離脱症状が気にならなくなるほど、他に楽しいことや夢中になれることがあれば、やめることもできるかと思いますが……。アレスの場合、唯一の趣味がリオノーラ様に会いに行くことですからね」
「えっ」

 リオノーラは長い睫毛まつげしばたたかせ、己を指さした。

「私ですか?」
「アレスのリオノーラ様への惚れっぷりは、それはもうすごいものがありますから。どれだけ時間がなくても流行はやりの甘味を買いに行き、単騎でティンエルジュ領まで駆け抜けますからね。これで惚れていないと言ったら、私は恋がなんなのか分かりません」
「リオ、このまま婿殿と共にここで暮らせ。お館様には私から話しておく」
「ちょっ、ちょっと待って、レイラ!」

 勝手にアレスと同居する話に転びそうになり、リオノーラは慌てる。

「私は……! アレス様は軍病院へ入院したほうがいいと思うんですけど……」

 山のような使用済みの注射器を見て、リオノーラはこれはもう自分の力ではどうにもならないと考えていた。薬物依存は本人に立ち直る気力がなければ、それを支える者ごと共倒れすると聞く。ここは専門家を頼るべきだ。
 もちろん、できる限りアレスに手を差し伸べるつもりではいる。金銭援助や、人の手配など。

「お金や世話人の手配なら私がなんとか……」
「リオノーラ様」
「は、はい」
「今のアレスには希望がありません」
「希望……?」
「この二年半、数は少ないですが、戦神の薬依存から脱した人間を見てきました。子どもが産まれたとか、結婚が決まったとか、立ち直った者は将来に何かしらの希望を持っていました。一人者でも、自分なりの夢や目標を見つけて精一杯頑張っていましたよ」

 ラインハルトは、リオノーラにアレスの希望になってほしいと言う。

「短い間だけでもいい。アレスと共に暮らしてはもらえませんか?」
「リオ、私からも頼む」

 レイラもラインハルトも南方人だ。二人とも、半分は同郷の血を引くアレスを心配しているのだろう。特にレイラはアレスの異父姉弟だ。宗国貴族の父親と自分の母親との間に生まれた弟に、何か思うことがあってもおかしくない。

「……少し、だけなら」
「リオ!」

 戸惑いながらつむがれた返事に、レイラが感嘆の声をあげ、リオノーラを抱きしめる。

「苦しいわ、レイラ!」
「ありがとうリオ、お館様へは上手く言っておく」
「すみませんねえ、リオノーラ様。日用品や食べ物なんかは、後でウチの出入り商人に運ばせますので。この二階建て住宅は旧帝国の建築士が設計したもので、加熱機器や給湯設備があります。使用人がいなくとも暮らしやすいかと。……あ、アレスの有休届けは私のサインを入れてひと月先まで出しておくので、しばらくここで新婚生活を満喫してくださいね」

 リオノーラがアレスとの同居を承諾した途端、ラインハルトの心痛な面持ちは一転し、にっこり笑みを浮かべた。

(すぐに表情が変わったわね、ラインハルト様……)

 ラインハルトの手配は妙にスムーズだった。最初から自分とアレスと同居させるつもりだったのではないか。何か裏があるのではないか。そう一瞬は勘ぐったが、アレスとの同居を決めたことをレイラがものすごく喜んでくれたので、「まぁいいか」とこの場は流してしまった。


    ◆◇◆


 仕事を終えた朝、アレスは寮の自宅へと戻ってきた。
 部屋の扉の鍵を開けようとして、ふと違和感に気がつく。普段はしないはずの食べ物の匂いが、窓から漂ってきていたからだ。
 玉ねぎが煮える美味そうな匂いがする。賊にでも入られたかと思ったが、そもそも盗人が悠長に何かが煮える匂いをさせるはずがない。
 一応警戒はしつつも、彼はゆっくり錠を外した。
 開けた扉の先にはなんと、人がいた。一歩、後ずさる。
 アレスの眼前には、ここにいるはずのない女が町娘のような三角巾を頭に被り、エプロンドレスを身に着け、頬を染めてなにやらもじもじしていた。栗色のつややかな巻き毛に、零れ落ちそうなほど大きな青い瞳のちんまりとした存在に、彼の目が点になる。

「おかえりなさいませ、アレス様! お食事にされますか? それともお風呂? あ、わ、私でも大丈夫ですけれど……!」

 昨日一日、アレスは王城内を駆けずり回っていた。
 近衛師団や軍司令部、衛生部隊のそれぞれの軍議に特務師団の代表者として呼ばれ、演台へ立った。人前で話すのは得意でも苦手でもないが、さすがに一日に三つの軍議を掛け持ちするのはきつい。どうせこちらが語ることはほとんど同じなのだから、まとめてやらせてくれと何度思ったことか。
 面倒な仕事を押しつけてくれた直属の上官ラインハルトの顔が浮かび、心の中で舌打ちしながらもなんとかこなした。
 軍議の報告書もその日の内に書いて王城内にある監査部へ提出せねばならず、一人で黙々と報告書を作った。
 大変そうな自分を見兼ねて監査部の事務官が手伝うと申し出てくれたが、その事務官が子どもが生まれたばかりだと雑談しているところをつい数日前に見てしまっていたので断った。事務官の妻は事務官の帰りを心待ちにしていることだろう。他人の家庭を自分のせいで壊したくなかった。
 倒れそうになりながら詰所に戻ったのは深夜。詰所から寮までは目と鼻の先だったが、わざわざ帰るのも面倒で、いつも通り詰所でシャワーを浴び仮眠室で寝て、朝になってようやく今、帰宅したのだ。
 端的に言えば、アレスは疲労のピークだった。

「リオノーラの幻を見てしまうとは……」
「えっ、まぼろし? アレス様、私は幻ではありませんよ?」

 アレスは額に手を当て、天を仰ぐ。
 深く息を吐いてもう一度視線を戻すが、やはりティンエルジュの屋敷にいるはずの妻がそこにいた。なぜか市井しせいの娘のようなエプロンドレスを着ている。現実を受け入れ、アレスの切れ長の目尻が吊り上がった。

「……リオノーラ、なぜこのようなところにいるのです」
「なぜって……」
「まさか勝手に屋敷から出てきたのですか? ティンエルジュ侯の許しは? レイラさんもここにいるのですか?」

 くっきりくまが浮いた目でリオノーラを見下ろし、アレスは淡々と詰問する。
 疲れていた彼は混乱状態に陥っていた。
 二年近くも別居していて、しかも鉄格子越しにしか会えなかった妻がいきなり自分の部屋に現れたのだ。混乱のあまり、つい、厳しい口調でリオノーラに詰め寄ってしまった。

「ごめんなさい……突然来てしまって」

 エプロンドレスの裾をぎゅっと握り、リオノーラがうつむく。その目尻にじわりと浮かんだ涙に、アレスは大いに慌てた。

「すみません! 怒ってないですから、どうか泣かないでください!」
「……本当ですか? 良かったあ! あ、立ち話もあれですから、お部屋へ入ってください! 私、温かいスープを作ったんですよ。良かったら召し上がってくださいね!」
「えっ、は? スープ?」

 リオノーラが玄関に立ち尽くしたままのアレスの騎士服の裾を掴み、ぐいぐい引っ張る。
 怒っていないとの言葉を聞き、彼女は一転して安心したように満面の笑みを浮かべている。
 逆にアレスはというと、額に冷や汗を浮かべていた。どんなに厳しい戦場でも、過酷な任務でも、眉ひとつ動かさない冷静沈着な彼が、女一人に振り回されている。そもそも、鍵をかけていたはずの留守宅に勝手に入られているのだが、指摘できていない。
 玄関から入ってすぐのところある調理台の上には、リオノーラが作ったらしいスープの鍋が見える。

「手を洗って着替えてきてください。お食事にしましょう?」


 突然やってきた妻を現実と受け入れ、ひと呼吸ついた後。

「有休……? しかもひと月も……?」

 上官ラインハルトのサインが入った書類の控えに、アレスは何度も何度も視線を上下に走らせる。
 特務師団の配属になって早七年。暗殺部隊長から師団長補佐官に昇格してから約二年、彼は初めて有給休暇を取得した。いや、取得できたと言ったほうが正しいかもしれない。
 ラインハルトは補佐長という立場にありながら、誰にも何も告げず勝手に消えることがしばしばあり、そのたびに、放棄された彼の仕事をアレスがこなしていた。定休を取るのが精一杯で、「有給休暇」という単語すらアレスの中から抜け落ちていた。

「ええ、アレス様はずっと休んでいなかったでしょう? ラインハルト様がお休みをくださったのですよ」
「いや、急に休めと言われても……」

 特務師団の師団長補佐官という、ばりばりの中間管理職者であるアレスのスケジュールはびっちり埋まっている。代理の者を立てるにせよ、じゃあ誰に代わりを頼めばいいのかパッと思い浮かばないぐらいには、特務師団は人手不足だった。
 本来王都の騎士は三勤一休制なのだが、彼は騎士になってからずっと六勤一休で働いている。
 詰所から消えがちなラインハルトのことを差し引いても、多感な十代半ばから過剰労働はなはだしい職場でしか働いたことのないアレスに、休むという概念は希薄だ。国のため主君のために、どれだけ辛く汚い仕事であっても進んで行うのが騎士だというのが、彼の信条なのである。

「……無理です」

 アレスは眉の間をくぼませ、奥歯を噛みしめてうなるように言う。

「ええっ、そうなんですか? 私、アレス様とここで楽しく過ごすために来たのですけれど」
「絶対に休みます。もう仕事しません!」

 しかし、眉尻を下げるリオノーラを見て、アレスは即座に今までの信念をじ曲げた。
 どれだけ仕事が忙しくても、半日休まず単騎を飛ばして会いに行くほどの妻が目の前にいる。いくら岩のような堅物と言われている彼でも、二十代前半男子の持つたぎるような性欲には敵わなかった。
 心身ともに疲れ切っている状態。いつもはしない女性の甘い匂いでいっぱいの部屋。楽しく過ごすってどういうことだろうと、本能が期待した……と、同時に疑念が湧く。

(……結婚してから一年九ヶ月もの間、同居の『ど』の字すら口にしたことがなかったリオノーラがなぜ急に? もしやティンエルジュ侯と何かあったのでは? ……いいや、気まぐれでもなんでもいい!)

 アレスの頭の中に、ツンツンした金髪に青い目の、やたらと声が大きくて軟派な部下の顔が浮かぶ。そいつの首に刃のひとつでも押し当てて、何がなんでも仕事を押し付けよう。瞬時にそう算段した。
 彼はシリアスな外見と口調とは裏腹に、中身はそれなりに年相応の青年だった。


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