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第一章 鉄格子越しの逢瀬
「本日は王城前通りにある菓子屋の、ひと口タルトタタンをお持ちしました」
豪奢な部屋の中央を分断するように取り付けられた鉄格子の向こう側。縦長の菓子箱の中には、目にも美味そうな飴色をした、ひと口サイズの丸い菓子が横に二つ縦に五つ並んでいた。その菓子を目にした女は、空色の大きな目をさらに大きく見開くと、ごくりと喉を鳴らす。
「とっても美味しそうですね!」
女は真っ白な手を握り合わせ、目を細めて笑った。
女の、肩の下まである栗色の巻き髪は綺麗に整えられ、耳の上にはバラを模した桃色の髪飾りが付いている。彼女のドレスも髪飾り同様桃色を基調としたもので、胸元は上品な白いフリルで飾られている。どこからどう見ても、鉄格子とは不釣り合いな装いだ。
「召し上がられますか、おひとつどうぞ」
女と同年代と思われる黒髪の青年が、菓子箱を手に、形の良い唇の端を吊り上げる。彼女が菓子を手に取れるよう、鉄格子に菓子箱を近づけた。
女は嬉しそうに鉄の柱の向こう側へ腕を伸ばし、飴色をしたひと口サイズの丸いタルトタタンをひとつ手に取る。と同時に大きく口を開け、リンゴと砂糖、それにバターの塊を頬張った。シャクシャクと音を立てて咀嚼するその顔は実に嬉しそうだ。
女のご満悦な様子に、青年も人形のように整った顔をほんの少しだけ綻ばせた。
「お~いしいっ! リンゴのシャキシャキ感とバターのまろやかさ……! 適度にシナモンが利いていてとっても美味しいです!」
「それは良かった」
女はこの国――宗国の南半分を治めるティンエルジュ侯爵家の令嬢だ。ティンエルジュ侯爵家は王家の傍流に当たる家で、本来ならば手掴みでものを食べるなど躊躇するような身分だが、森に囲まれた田舎の領地で育った彼女は、手や口の周りが汚れるのにどうも頓着しないらしい。指先についた砂糖をちゅぱりと舐めながら、青年に「もうひとつください!」とニッコリおねだりした。
女のおねだりに、青年は残りの菓子を箱ごと彼女へ渡す。縦長の菓子箱はちょうど鉄格子の間を通る横幅であった。
彼らを隔てる鉄格子の存在さえなければ、和やかな光景に見えたかもしれない。しかし、二人の間には幼児の手首ほどの太さの柱が並ぶ、いかにも堅牢そうな鉄格子がある。
それだけではない。豪奢な部屋の中には、揃いの赤い制服を着たティンエルジュ家の私設兵達が壁に沿うようにずらりと立ち並んでいる。彼らは鉄格子で隔てられた部屋の両側にいて、女と青年のことを見張っているのだ。
「おい、いくつ食べるつもりだ」
私設兵の列から、ひと際大きな女が一歩前に出る。真っ直ぐな黒髪を肩のあたりで切り揃えた女は、自分の女主人に向かって粗暴とも言える口の利き方で声をかける。その黒々とした瞳は据わっていた。
「また太るぞ、リオ」
「だって、せっかくアレス様が買ってきてくださったのよ? 美味しく食べてお礼を言わなきゃ」
私設兵から雑に愛称で呼ばれた女は、鉄格子の向こう側にいる青年に「ねえ?」と微笑んで同意を求める。
「ありがとうございます、リオノーラ……」
アレスと呼ばれた黒髪の青年は力なく頷いた。
胸元に金の鎖がついた灰色の詰襟服を着込む彼の顔立ちは非常に整っているが、切れ長の瞼から覗く深緑の瞳には生気がない。どこか遠い目をして、タルトタタンを頬張る女――リオノーラの顔を見ている。言葉はかろうじて発しているが、様子は普通ではない。目の下には隈ができており、魂が抜けたように覇気がなかった。
「さあ、もう時間だ」
私設兵の女がぱんぱんと手のひらを打ち鳴らす。
「もう? アレス様、今日も美味しいお菓子をありがとうございました。タルトタタン、とっても美味しかったです!」
「喜んでいただけて光栄です。また来週、こちらへ参りますね」
「あ、別に無理して来なくても大丈夫ですよ?」
胸の下に腕を当て恭しく腰を折るアレスに、リオノーラは困ったように眉尻を下げる。
アレスが腰を折ったまま、ぴしりと固まった。
「こ、来なくてもいい……?」
「アレス様、すっごく顔色が悪いですよ。お忙しいんですよね……? お休みのたびにティンエルジュ領まで来るのは大変でしょう? しばらく来なくても大丈夫ですよ」
「そんな、ことは」
それまで人形のように表情に乏しかったアレスの顔に、明らかな焦りの色が浮かぶ。深緑色の瞳を左右に揺らし、彼は絞り出すような声で再び「……また、来週参ります」とだけ言うと、部屋を後にしたのだった。
「ねえ、レイラ。アレス様は大丈夫なのかしら?」
リオノーラは眉尻を下げたまま、先ほど自分に「太るぞ」と忠告した私設兵の女――レイラの顔を見上げる。問うた彼女の顔は不安げだが、菓子に伸ばす手は止まらず、またひとつタルトタタンを口へと運んでいる。
(……アレス様の様子がおかしい)
アレスとはたまにしか顔を合わせないリオノーラでも、違和感を抱くほど。
もぐもぐごくんとリンゴと砂糖とバターの塊を飲み込んだ。
「……大丈夫ではないだろうな。明らかな『戦神の薬』の副作用が出ている。あの分では持って一年、いや、半年か」
レイラの不穏な言葉に、リオノーラはぎゅっと眉根を寄せ、目を伏せる。白い頬に睫毛の影ができた。
「どうすればいいのかしら……」
「リオがこの屋敷を出て、婿殿と一緒に王都で暮らせばいいだろう。悩む必要なんかない」
リオノーラに菓子を持ってきた黒髪の青年――アレスは、彼女の歴とした夫だ。彼らは一年と九ヶ月前に結婚したが、それ以来共に暮らしたことは一度もなく、今も別居状態が続いている。
アレスは宗国軍の特務師団に所属する騎士で、リオノーラより二歳年上の現在二十三歳。約二年半前に終結した西の帝国との戦争――通称「宗西戦争」で前人未到の戦果を上げ、現在はエリート職である師団長補佐官の任に就いている。特務師団は諜報と暗殺を主に担う組織で、アレスは宗西戦争時、暗殺部隊の部隊長であった。
宗国軍は、宗国を治める宗王に仕える騎士達を中心とした組織で、王都に本部があることから「王立騎士団」とも呼ばれている。
若くして出世したアレスはきっと気苦労の絶えない生活を送っているに違いない。そのことはなんとなく察しているが、リオノーラには、ティンエルジュ領から出られない事情があった。
「簡単に言ってくれるわねえ。私には仕事があるのよ?」
リオノーラは小さな唇を尖らせる。
彼女はティンエルジュ侯爵の一人娘で、家令がいない父親の右腕として日々忙しく働いていた。今も、リオノーラの後ろには書類の束を持った別の私設兵がいて、様子をちらちら窺いながら決裁を待っている。
リオノーラは自分の身を自領の発展のために捧げていた。恋愛欲はあまりなく、父親に自分の婿について「家の利益になるような男性で、私のことをあまり構わない人がいい」とわざわざリクエストしていたほどだ。
ちなみに、この宗国はここ数年戦争が頻発しており、戦死するなどして嫡男がいない家も多い。女でも一応家督を継げるが、リオノーラのように、跡継ぎとなる婿を取る家のほうが多数派だ。
どこか突き放すようなリオノーラの言葉に、レイラは眉間の皺を深くする。
「婿殿は家族ではないのか? 家族の具合が悪いのに駆けつけてやらないのか?」
「家族って……。アレス様が勝手に陛下に願い出て、私との結婚を決めたんじゃない」
彼らの結婚は、親同士が決めた政略結婚でも、恋愛結婚でもない。
王命だ。
アレスは、難攻不落と謳われていた西の帝国との戦争で、人一倍どころか人百倍の戦果を上げ、その褒賞にリオノーラとの結婚を望んだのだ。宗西戦争の勝利に気を良くした王はアレスの願いをあっさり承諾し、二人は結婚することになったのだが――
リオノーラはアレスの無理やりとも言える求婚を喜ばなかった。喜ばないどころか「どうして私になんの相談もなく、宗王に結婚を願い出たのか」と、アレスを責め立てた過去がある。
リオノーラは、アレスが自分の婿に――いや、将来のティンエルジュ侯爵家の当主としてふさわしくないと考え、彼の求婚に憤ったのだ。リオノーラとアレスは幼馴染で、かれこれ十五年以上の付き合いがある。アレスは昔から人一倍おとなしい性分で、口数も多いとは言えない。そんな彼が海千山千の老獪な貴族や商人、ティンエルジュ領に隣接する属国南方地域の族長達と渡り合っていけるとは到底思えなかったのだ。
ちなみに、アレスの出自はかなり複雑だが、リオノーラは彼の生まれに関しては気にしていない。
アレスの父親はこの宗国の貴族だが、母親は宗国の属国である南方地域出身の移民だった。そしてアレスの父親には、母親とは別に、歴とした正妻がいた。アレスは婚外子、庶子なのである。
「婿殿のことが嫌いなのか?」
レイラはさらにリオノーラに問う。
アレスは、実はレイラにとって父親違いの弟でもある。
アレスの父親には正妻との間に息子が二人いるが、二人とも生まれつき身体が丈夫ではなかった。アレスの父親は家の発展のため、騎士となって武功を立てられる息子を欲していた。
レイラとアレスの母は、南方地域にある戦闘部族らが住まう村の族長で、村で一番強い剣士でもあった。強い女なら丈夫な子を産むだろうとアレスの父親は考えたらしい。干ばつが続いていた戦闘部族らの村は貧しく、一族への資金援助を条件に、レイラとアレスの母は宗国へと移り住み、そしてアレスを産んだのだという。なお、現在戦闘部族らの村は、南方人であるレイラの父親が長として治めている。
レイラはこのティンエルジュ家に、十五歳の時からもう十五年も仕えてくれていて、現在では私設兵団の長を務めている。勤続歴が長いこともあり、身内の事情をリオノーラへ包み隠さず話していた。
レイラがアレスのことを「婿殿」と呼んでいるように、二人は現在も姉弟付き合いをしていないようだが、それでもレイラはアレスのことが心配だから強い口調で尋ねてくるのかもしれない、とリオノーラは考える。
リオノーラはレイラの問いに首を横に振った。
「嫌いじゃないわ。でも、家のことも放っておけないの。領の仕事が山積みなのに、屋敷を空けられないわ」
王命にて結婚が決まった際、リオノーラはアレスと結婚しても共に暮らすことは難しいと考えていた。結婚する前から、彼女は常に両手いっぱいの仕事を抱えていて、アレスが忙しい任務の合間を縫ってわざわざこの屋敷まで訪ねてきた時も、一言二言話して終わることも多かった。
また王都の騎士であるアレスも、戦後大量に出た殉職者の分まで働かねばならず、いつまでもこの屋敷にいるわけにはいかなかった。
二人は結婚から二年近く経った今も、この鉄格子のある部屋で一︑二週に一度、束の間の面会を続けている。なぜ鉄格子越しかというと、別居婚に痺れを切らしたアレスがリオノーラを攫うかもしれないと、彼女の父親が心配したからである。
「仕事が大事だというのも分かる。でも、人の命は失われたら二度と戻らない」
「レイラ……」
「後悔だけはするなよ、リオ」
レイラの言葉に、リオノーラは下唇を噛んだ。
本音を言えば、彼女はアレスのもとに行きたいと思っている。アレスのことが心配だからだ。でも、自分が彼のもとへ行っても、何もできないんじゃないかとも思っている。
リオノーラは、アレスがなぜ自分との結婚を望んだのか、本当の理由を理解できないでいた。
二人の出会いは約十五年前に遡る。父親同士が士官学校時代からの友人で、その繋がりで交流があった。お互い年齢も近く、昔馴染みの友人としての付き合いはあったが、二人の関係はそれだけだ。将来を誓い合ってもいない。
たまにアレスから好意の言葉は伝えられたが、裕福な貴族家の一人娘であるリオノーラの婿になりたがる男は多く、好意の言葉は挨拶のようなものだと思っている。
リオノーラはまたひとつ、飴色の丸い菓子を手に取った。残りひとつになってしまったそれを噛みしめるように食べる。砂糖とバターをたっぷり使って煮込まれたリンゴは、噛むたびに濃厚な甘みが口の中いっぱいに広がる。
長方形の箱に十個詰められていたひと口タルトタタンは、あっという間になくなってしまった。リオノーラは空になった箱を見つめ、いつも王都で人気の菓子を届けてくれる物静かな青年の姿を思い浮かべる。
彼は元々おとなしい性格だったが、宗西戦争後は、それに輪をかけて覇気のない人間になってしまった。原因は分かっている。彼は戦果を上げるために、無茶をしたのだ。
アレスは三日三晩どころか、五日五晩無休で戦えると謳われる薬、通称「戦神の薬」を使い、宗西戦争で前人未到の戦果を上げたと、新聞に書かれていた。
なお、この戦神の薬はアレスの父アーガス・デリングが開発したものだ。アーガスは王家公認の薬師で、自領だけでなく属国の南方地域や、アレスが宗西戦争の褒賞で得た西の帝国の土地にも薬畑を作り、莫大な富を得ている。
アレスは父親が作った薬が原因で、心身を病んでいるのではないかとレイラは言っていた。
レイラ曰く、戦神の薬は確かな効果があるが、その分強い副作用があるらしい。
主な副作用は抑うつで、希死念慮を持つ者も少なくないらしい。また個人差はあるが、味覚障害や不眠症など生活の質を落とす副作用もあるとのこと。
現在レイラの実家がある村には、アレスの父アーガスが買い取り、族長であるレイラの父親に命じて作らせた薬畑が広がっている。戦神の薬のもととなるマカフミの葉もそこで作られる。実家の土地が薬畑に変えられたことで、レイラは薬に詳しいのだ。
命の前借りをするような薬を使い、無理やり戦果を上げてまで、アレスはなぜ自分との結婚を望んだのか。リオノーラはずっと考え続けていた。自分との結婚のために彼が病んでしまったと思うだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……アレス様はどうして、私との結婚を望んだのでしょうね」
「そりゃ、リオのことが好きだからだろう」
「建前は、そうだけど」
いつも淡々としているアレスの秀麗な顔を思い浮かべる。リオノーラは大貴族ティンエルジュ家の令嬢だが、姿形は平凡だ。
胸が特別豊満なわけでも、腰が細くくびれているわけでもない。背は低く、手足も短めだ。桃色のドレスに隠れた太腿はむっちりしている。端的に言えば、彼女は自分に自信がなかった。
すらりと背が高く涼やかな美男子であるアレスから、自分が好かれるはずなどないと本気で思っている。
「アレス様みたいに素敵な人が、私みたいなちんちくりんな女、本気で好きになるわけないじゃない。私が王都へ訪ねていっても迷惑じゃないかしら?」
「少ない休みの日に、馬を半日飛ばしてまで好きでもない女の顔をわざわざ見に来る男がどこにいる? しかも婿殿は激務なんだぞ」
たびたび王都へ出向き、王立騎士団へ入り込んでいるティンエルジュ家の間者とやりとりするレイラは、アレスの任務内容にも詳しかった。
「それは、ティンエルジュ家の婿の立場を維持したいからじゃ……」
「婿の立場を維持? このままじゃお前らは離縁だぞ」
「えっ」
離縁。リオノーラは長い睫毛をぱたぱた瞬かせた。大きな瞳を揺らし、レイラに反論する。
「べ、別に一緒に住んでないからって、離縁には……」
「リオ、お前はまだ未通だろう?」
レイラのあけすけな言葉に、リオノーラは頬を赤く染め、「うっ」と言葉を詰まらせた。
「そ……そうだけど」
「この宗国じゃあ、王命だろうがなんだろうが二年間白い結婚が続いたら離縁だ。お館様が医者を呼んで未通証明書を書かせると言っていたぞ? あと三ヶ月別居婚が続いたら、お前達は強制離縁だ」
お館様というのは、リオノーラの父親のことだ。ティンエルジュ領の領民達は、領主のことをそう呼んでいる。
「……!」
リオノーラは驚きの事実に声も出ない。
彼女は領主である父親の右腕として働いている。もちろん法にもそれなりに精通している。だが、今の今まで自分達に当てはめて考えることはしてこなかった。あえて考えないようにしていた、と言ったほうが正しいかもしれない。彼女は焦りの汗を額に滲ませる。
いくつもの大国や地域に囲まれ、常に周囲からの侵略に神経を尖らせているこの宗国の婚姻制度は、他国と比べてもかなり柔軟だ。王族や大貴族の婚姻であっても、跡継ぎが作れない状態が二年続き、それが第三者によって証明できれば、離縁が可能だった。それだけ、跡継ぎを残すことを宗国は重要視しているのだろう。
飛ぶ鳥をも落とす勢いで戦争に勝ち続け、今や大陸の宗主国「宗国」となったこの国は、婚姻制度をあえて柔軟なものとすることで貴族家を存続しやすくしているのかもしれない。
だが、その宗国特有の婚姻制度のせいで、リオノーラは追い詰められていた。
「ど、どうしましょう……!」
「婿殿は来週も来ると言っていたから、鉄格子越しにまぐわうしかないな」
レイラは厳しい顔を崩し、にやにやしている。この屈強で大柄な女従者は、たまにキツすぎる冗談を言う傾向があった。もちろん、言われたリオノーラは顔を真っ赤にして激怒する。
「もうっ! 馬鹿なことを言わないでちょうだい!」
「はははっ、悪い悪い。……だがな、離縁の危機にあるのは本当だぞ?」
「うっ、そうよね……」
「そこで私から提案がある」
レイラは赤い制服の内ポケットから、折り畳まれた羊皮紙を取り出した。四つ折りにされたそれを開き、リオノーラの目の前にかざす。しかしリオノーラにはそこに書かれた文書を読むことができなかった。使われている文字は宗国王都公用語だが、一見するとでたらめな文章が書かれていたからだ。
「何よこれ? 暗号?」
「ああ、婿殿の上官から預かったものだ」
「上官?」
「婿殿のことで話があるそうだ」
リオノーラは首を傾げる。アレスのことで話があるのなら、普通にそう書けばいいのにと思う。わざわざ暗号にする意味が分からない。
ちなみにこのメモは、レイラが先日王立騎士団と接触した際にアレスの上官本人から受け取ったものらしい。
「お館様にこのメモを見られたらまずいと思ったのだろうな。待ち合わせ日時と場所が書かれている。行くか? リオ」
「時間はあるの?」
「リオの予定は調整してある」
すでに行くことになっているらしい。勝手に予定を決められたことにムッとしなくはないが、アレスのことは心配だ。直属の上官から話を聞けるのなら、それに越したことはないだろう。
「行くわ。アレス様が心配だもの」
菓子が入っていた長方形の箱を折り畳みながら、リオノーラは大きく頷いた。
それから三日後、リオノーラは夜明け前にレイラと共に屋敷を出た。レイラが御する馬の背に跨り、昼前に宿場街に到着する。
今日はちょうど、彼女の父は隣接する属国である南方地域へ出掛けており留守だった。領主がいない時に自分までいなくなるのはどうかと思わなくもなかったが、それ以上にアレスのことが気がかりだった。ティンエルジュ家の屋敷と宿場街までは単騎で四時間ほど。アレスの上官から話を聞き、すぐに引き返せば夕刻には屋敷へと戻れる。
さて、とある宿の一室に、アレスの上官はいた。
アレスと同じ灰色の詰襟服を着ているが、袖の線は彼よりも一本多い。
「お初にお目にかかります、リオノーラ様。わたくしは宗国軍特務師団師団長補佐官らの長をしております、ラインハルト・ドゥ・ポルトワと申します。今は宗国の貴族家に入っておりますが、生まれは南方地域でございます。本日はこのようなところまでご足労いただき、ありがとうございます」
はっきりと明るい声で挨拶をし、恭しく腰を折ったその男は、リオノーラを見つめると糸のように細い目をさらに細めた。
南方人らしく背はそれなりに高いが身体の線は細く、一見すると騎士に見えない。黒髪を後ろにきっちり撫でつけ、口の上には細く整えられた黒髭を蓄えている。年齢は三十をいくつか過ぎていそうだ。
ラインハルトは自ら南方人だと言ったが、彼は一目でそうと分かる様相をしている。
宗国人と南方人とでは外見がかなり異なる。宗国人はリオノーラのように、寒色の瞳に茶髪や金髪など明るい色の髪を持ち、体格は小柄な者が多い。
一方南方人は目の前のラインハルトやレイラのように黒髪に黒い瞳を持つ者が多く、皆総じて長身だ。
そして南方人の、特に戦闘部族と呼ばれている者達は独自の戦う術をもっていた。恵まれた体格と戦闘技術を生かすため、南方地域から宗国へ移住し、王立騎士団に入る者も少なくないと聞く。
もっとも、南方地域が宗国との戦争に負け、属国となって三十年になる。アレスのような混血の人間も年々増えているので、両方の人種の特徴を持つ人間も珍しくないが。
「はじめまして。リオノーラ・フォン・ティンエルジュと申します」
続いてリオノーラも片方の足を引いて膝を曲げ、形ばかりの淑女の挨拶をする。彼女は馬に跨るため、ズボン姿だった。ズボンに合わせて上もごわついた生成りのシャツを着ている。邪魔にならないよう、癖のある髪は首の後ろで一本にまとめた。
「夫がいつもお世話になっております」
「いえいえ、世話になっているのは私のほうですよ。今日もアレスは私の代わりに王城の軍議に出ておりますから。彼はとても真面目で優秀でね、戦働きも机仕事も人の十倍はやりますよ」
直属の上官からの評に、リオノーラはなんとも言えない気持ちになった。アレスの顔色が常に悪いのは、戦神の薬の影響もあるだろうが、過剰労働が原因ではないかと踏んでいる。
ラインハルトはよく喋る男だった。アレスがいかに真面目で、有能な部下であるかを雄弁に語る。リオノーラはラインハルトの言葉に相槌を打ちながら、この男になんとなく嫌なものを感じていた。
……かつてティンエルジュ家で雇っていた家令と似たものを感じたからかもしれない。
リオノーラの母は、約十五年前に家令に連れられて屋敷を出て、現在は宗国の後宮にいる。その家令――母を連れ去った男が、ラインハルトのように堂々とした物言いをする男だったのだ。
(……よく喋る方だわ)
「本日は王城前通りにある菓子屋の、ひと口タルトタタンをお持ちしました」
豪奢な部屋の中央を分断するように取り付けられた鉄格子の向こう側。縦長の菓子箱の中には、目にも美味そうな飴色をした、ひと口サイズの丸い菓子が横に二つ縦に五つ並んでいた。その菓子を目にした女は、空色の大きな目をさらに大きく見開くと、ごくりと喉を鳴らす。
「とっても美味しそうですね!」
女は真っ白な手を握り合わせ、目を細めて笑った。
女の、肩の下まである栗色の巻き髪は綺麗に整えられ、耳の上にはバラを模した桃色の髪飾りが付いている。彼女のドレスも髪飾り同様桃色を基調としたもので、胸元は上品な白いフリルで飾られている。どこからどう見ても、鉄格子とは不釣り合いな装いだ。
「召し上がられますか、おひとつどうぞ」
女と同年代と思われる黒髪の青年が、菓子箱を手に、形の良い唇の端を吊り上げる。彼女が菓子を手に取れるよう、鉄格子に菓子箱を近づけた。
女は嬉しそうに鉄の柱の向こう側へ腕を伸ばし、飴色をしたひと口サイズの丸いタルトタタンをひとつ手に取る。と同時に大きく口を開け、リンゴと砂糖、それにバターの塊を頬張った。シャクシャクと音を立てて咀嚼するその顔は実に嬉しそうだ。
女のご満悦な様子に、青年も人形のように整った顔をほんの少しだけ綻ばせた。
「お~いしいっ! リンゴのシャキシャキ感とバターのまろやかさ……! 適度にシナモンが利いていてとっても美味しいです!」
「それは良かった」
女はこの国――宗国の南半分を治めるティンエルジュ侯爵家の令嬢だ。ティンエルジュ侯爵家は王家の傍流に当たる家で、本来ならば手掴みでものを食べるなど躊躇するような身分だが、森に囲まれた田舎の領地で育った彼女は、手や口の周りが汚れるのにどうも頓着しないらしい。指先についた砂糖をちゅぱりと舐めながら、青年に「もうひとつください!」とニッコリおねだりした。
女のおねだりに、青年は残りの菓子を箱ごと彼女へ渡す。縦長の菓子箱はちょうど鉄格子の間を通る横幅であった。
彼らを隔てる鉄格子の存在さえなければ、和やかな光景に見えたかもしれない。しかし、二人の間には幼児の手首ほどの太さの柱が並ぶ、いかにも堅牢そうな鉄格子がある。
それだけではない。豪奢な部屋の中には、揃いの赤い制服を着たティンエルジュ家の私設兵達が壁に沿うようにずらりと立ち並んでいる。彼らは鉄格子で隔てられた部屋の両側にいて、女と青年のことを見張っているのだ。
「おい、いくつ食べるつもりだ」
私設兵の列から、ひと際大きな女が一歩前に出る。真っ直ぐな黒髪を肩のあたりで切り揃えた女は、自分の女主人に向かって粗暴とも言える口の利き方で声をかける。その黒々とした瞳は据わっていた。
「また太るぞ、リオ」
「だって、せっかくアレス様が買ってきてくださったのよ? 美味しく食べてお礼を言わなきゃ」
私設兵から雑に愛称で呼ばれた女は、鉄格子の向こう側にいる青年に「ねえ?」と微笑んで同意を求める。
「ありがとうございます、リオノーラ……」
アレスと呼ばれた黒髪の青年は力なく頷いた。
胸元に金の鎖がついた灰色の詰襟服を着込む彼の顔立ちは非常に整っているが、切れ長の瞼から覗く深緑の瞳には生気がない。どこか遠い目をして、タルトタタンを頬張る女――リオノーラの顔を見ている。言葉はかろうじて発しているが、様子は普通ではない。目の下には隈ができており、魂が抜けたように覇気がなかった。
「さあ、もう時間だ」
私設兵の女がぱんぱんと手のひらを打ち鳴らす。
「もう? アレス様、今日も美味しいお菓子をありがとうございました。タルトタタン、とっても美味しかったです!」
「喜んでいただけて光栄です。また来週、こちらへ参りますね」
「あ、別に無理して来なくても大丈夫ですよ?」
胸の下に腕を当て恭しく腰を折るアレスに、リオノーラは困ったように眉尻を下げる。
アレスが腰を折ったまま、ぴしりと固まった。
「こ、来なくてもいい……?」
「アレス様、すっごく顔色が悪いですよ。お忙しいんですよね……? お休みのたびにティンエルジュ領まで来るのは大変でしょう? しばらく来なくても大丈夫ですよ」
「そんな、ことは」
それまで人形のように表情に乏しかったアレスの顔に、明らかな焦りの色が浮かぶ。深緑色の瞳を左右に揺らし、彼は絞り出すような声で再び「……また、来週参ります」とだけ言うと、部屋を後にしたのだった。
「ねえ、レイラ。アレス様は大丈夫なのかしら?」
リオノーラは眉尻を下げたまま、先ほど自分に「太るぞ」と忠告した私設兵の女――レイラの顔を見上げる。問うた彼女の顔は不安げだが、菓子に伸ばす手は止まらず、またひとつタルトタタンを口へと運んでいる。
(……アレス様の様子がおかしい)
アレスとはたまにしか顔を合わせないリオノーラでも、違和感を抱くほど。
もぐもぐごくんとリンゴと砂糖とバターの塊を飲み込んだ。
「……大丈夫ではないだろうな。明らかな『戦神の薬』の副作用が出ている。あの分では持って一年、いや、半年か」
レイラの不穏な言葉に、リオノーラはぎゅっと眉根を寄せ、目を伏せる。白い頬に睫毛の影ができた。
「どうすればいいのかしら……」
「リオがこの屋敷を出て、婿殿と一緒に王都で暮らせばいいだろう。悩む必要なんかない」
リオノーラに菓子を持ってきた黒髪の青年――アレスは、彼女の歴とした夫だ。彼らは一年と九ヶ月前に結婚したが、それ以来共に暮らしたことは一度もなく、今も別居状態が続いている。
アレスは宗国軍の特務師団に所属する騎士で、リオノーラより二歳年上の現在二十三歳。約二年半前に終結した西の帝国との戦争――通称「宗西戦争」で前人未到の戦果を上げ、現在はエリート職である師団長補佐官の任に就いている。特務師団は諜報と暗殺を主に担う組織で、アレスは宗西戦争時、暗殺部隊の部隊長であった。
宗国軍は、宗国を治める宗王に仕える騎士達を中心とした組織で、王都に本部があることから「王立騎士団」とも呼ばれている。
若くして出世したアレスはきっと気苦労の絶えない生活を送っているに違いない。そのことはなんとなく察しているが、リオノーラには、ティンエルジュ領から出られない事情があった。
「簡単に言ってくれるわねえ。私には仕事があるのよ?」
リオノーラは小さな唇を尖らせる。
彼女はティンエルジュ侯爵の一人娘で、家令がいない父親の右腕として日々忙しく働いていた。今も、リオノーラの後ろには書類の束を持った別の私設兵がいて、様子をちらちら窺いながら決裁を待っている。
リオノーラは自分の身を自領の発展のために捧げていた。恋愛欲はあまりなく、父親に自分の婿について「家の利益になるような男性で、私のことをあまり構わない人がいい」とわざわざリクエストしていたほどだ。
ちなみに、この宗国はここ数年戦争が頻発しており、戦死するなどして嫡男がいない家も多い。女でも一応家督を継げるが、リオノーラのように、跡継ぎとなる婿を取る家のほうが多数派だ。
どこか突き放すようなリオノーラの言葉に、レイラは眉間の皺を深くする。
「婿殿は家族ではないのか? 家族の具合が悪いのに駆けつけてやらないのか?」
「家族って……。アレス様が勝手に陛下に願い出て、私との結婚を決めたんじゃない」
彼らの結婚は、親同士が決めた政略結婚でも、恋愛結婚でもない。
王命だ。
アレスは、難攻不落と謳われていた西の帝国との戦争で、人一倍どころか人百倍の戦果を上げ、その褒賞にリオノーラとの結婚を望んだのだ。宗西戦争の勝利に気を良くした王はアレスの願いをあっさり承諾し、二人は結婚することになったのだが――
リオノーラはアレスの無理やりとも言える求婚を喜ばなかった。喜ばないどころか「どうして私になんの相談もなく、宗王に結婚を願い出たのか」と、アレスを責め立てた過去がある。
リオノーラは、アレスが自分の婿に――いや、将来のティンエルジュ侯爵家の当主としてふさわしくないと考え、彼の求婚に憤ったのだ。リオノーラとアレスは幼馴染で、かれこれ十五年以上の付き合いがある。アレスは昔から人一倍おとなしい性分で、口数も多いとは言えない。そんな彼が海千山千の老獪な貴族や商人、ティンエルジュ領に隣接する属国南方地域の族長達と渡り合っていけるとは到底思えなかったのだ。
ちなみに、アレスの出自はかなり複雑だが、リオノーラは彼の生まれに関しては気にしていない。
アレスの父親はこの宗国の貴族だが、母親は宗国の属国である南方地域出身の移民だった。そしてアレスの父親には、母親とは別に、歴とした正妻がいた。アレスは婚外子、庶子なのである。
「婿殿のことが嫌いなのか?」
レイラはさらにリオノーラに問う。
アレスは、実はレイラにとって父親違いの弟でもある。
アレスの父親には正妻との間に息子が二人いるが、二人とも生まれつき身体が丈夫ではなかった。アレスの父親は家の発展のため、騎士となって武功を立てられる息子を欲していた。
レイラとアレスの母は、南方地域にある戦闘部族らが住まう村の族長で、村で一番強い剣士でもあった。強い女なら丈夫な子を産むだろうとアレスの父親は考えたらしい。干ばつが続いていた戦闘部族らの村は貧しく、一族への資金援助を条件に、レイラとアレスの母は宗国へと移り住み、そしてアレスを産んだのだという。なお、現在戦闘部族らの村は、南方人であるレイラの父親が長として治めている。
レイラはこのティンエルジュ家に、十五歳の時からもう十五年も仕えてくれていて、現在では私設兵団の長を務めている。勤続歴が長いこともあり、身内の事情をリオノーラへ包み隠さず話していた。
レイラがアレスのことを「婿殿」と呼んでいるように、二人は現在も姉弟付き合いをしていないようだが、それでもレイラはアレスのことが心配だから強い口調で尋ねてくるのかもしれない、とリオノーラは考える。
リオノーラはレイラの問いに首を横に振った。
「嫌いじゃないわ。でも、家のことも放っておけないの。領の仕事が山積みなのに、屋敷を空けられないわ」
王命にて結婚が決まった際、リオノーラはアレスと結婚しても共に暮らすことは難しいと考えていた。結婚する前から、彼女は常に両手いっぱいの仕事を抱えていて、アレスが忙しい任務の合間を縫ってわざわざこの屋敷まで訪ねてきた時も、一言二言話して終わることも多かった。
また王都の騎士であるアレスも、戦後大量に出た殉職者の分まで働かねばならず、いつまでもこの屋敷にいるわけにはいかなかった。
二人は結婚から二年近く経った今も、この鉄格子のある部屋で一︑二週に一度、束の間の面会を続けている。なぜ鉄格子越しかというと、別居婚に痺れを切らしたアレスがリオノーラを攫うかもしれないと、彼女の父親が心配したからである。
「仕事が大事だというのも分かる。でも、人の命は失われたら二度と戻らない」
「レイラ……」
「後悔だけはするなよ、リオ」
レイラの言葉に、リオノーラは下唇を噛んだ。
本音を言えば、彼女はアレスのもとに行きたいと思っている。アレスのことが心配だからだ。でも、自分が彼のもとへ行っても、何もできないんじゃないかとも思っている。
リオノーラは、アレスがなぜ自分との結婚を望んだのか、本当の理由を理解できないでいた。
二人の出会いは約十五年前に遡る。父親同士が士官学校時代からの友人で、その繋がりで交流があった。お互い年齢も近く、昔馴染みの友人としての付き合いはあったが、二人の関係はそれだけだ。将来を誓い合ってもいない。
たまにアレスから好意の言葉は伝えられたが、裕福な貴族家の一人娘であるリオノーラの婿になりたがる男は多く、好意の言葉は挨拶のようなものだと思っている。
リオノーラはまたひとつ、飴色の丸い菓子を手に取った。残りひとつになってしまったそれを噛みしめるように食べる。砂糖とバターをたっぷり使って煮込まれたリンゴは、噛むたびに濃厚な甘みが口の中いっぱいに広がる。
長方形の箱に十個詰められていたひと口タルトタタンは、あっという間になくなってしまった。リオノーラは空になった箱を見つめ、いつも王都で人気の菓子を届けてくれる物静かな青年の姿を思い浮かべる。
彼は元々おとなしい性格だったが、宗西戦争後は、それに輪をかけて覇気のない人間になってしまった。原因は分かっている。彼は戦果を上げるために、無茶をしたのだ。
アレスは三日三晩どころか、五日五晩無休で戦えると謳われる薬、通称「戦神の薬」を使い、宗西戦争で前人未到の戦果を上げたと、新聞に書かれていた。
なお、この戦神の薬はアレスの父アーガス・デリングが開発したものだ。アーガスは王家公認の薬師で、自領だけでなく属国の南方地域や、アレスが宗西戦争の褒賞で得た西の帝国の土地にも薬畑を作り、莫大な富を得ている。
アレスは父親が作った薬が原因で、心身を病んでいるのではないかとレイラは言っていた。
レイラ曰く、戦神の薬は確かな効果があるが、その分強い副作用があるらしい。
主な副作用は抑うつで、希死念慮を持つ者も少なくないらしい。また個人差はあるが、味覚障害や不眠症など生活の質を落とす副作用もあるとのこと。
現在レイラの実家がある村には、アレスの父アーガスが買い取り、族長であるレイラの父親に命じて作らせた薬畑が広がっている。戦神の薬のもととなるマカフミの葉もそこで作られる。実家の土地が薬畑に変えられたことで、レイラは薬に詳しいのだ。
命の前借りをするような薬を使い、無理やり戦果を上げてまで、アレスはなぜ自分との結婚を望んだのか。リオノーラはずっと考え続けていた。自分との結婚のために彼が病んでしまったと思うだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……アレス様はどうして、私との結婚を望んだのでしょうね」
「そりゃ、リオのことが好きだからだろう」
「建前は、そうだけど」
いつも淡々としているアレスの秀麗な顔を思い浮かべる。リオノーラは大貴族ティンエルジュ家の令嬢だが、姿形は平凡だ。
胸が特別豊満なわけでも、腰が細くくびれているわけでもない。背は低く、手足も短めだ。桃色のドレスに隠れた太腿はむっちりしている。端的に言えば、彼女は自分に自信がなかった。
すらりと背が高く涼やかな美男子であるアレスから、自分が好かれるはずなどないと本気で思っている。
「アレス様みたいに素敵な人が、私みたいなちんちくりんな女、本気で好きになるわけないじゃない。私が王都へ訪ねていっても迷惑じゃないかしら?」
「少ない休みの日に、馬を半日飛ばしてまで好きでもない女の顔をわざわざ見に来る男がどこにいる? しかも婿殿は激務なんだぞ」
たびたび王都へ出向き、王立騎士団へ入り込んでいるティンエルジュ家の間者とやりとりするレイラは、アレスの任務内容にも詳しかった。
「それは、ティンエルジュ家の婿の立場を維持したいからじゃ……」
「婿の立場を維持? このままじゃお前らは離縁だぞ」
「えっ」
離縁。リオノーラは長い睫毛をぱたぱた瞬かせた。大きな瞳を揺らし、レイラに反論する。
「べ、別に一緒に住んでないからって、離縁には……」
「リオ、お前はまだ未通だろう?」
レイラのあけすけな言葉に、リオノーラは頬を赤く染め、「うっ」と言葉を詰まらせた。
「そ……そうだけど」
「この宗国じゃあ、王命だろうがなんだろうが二年間白い結婚が続いたら離縁だ。お館様が医者を呼んで未通証明書を書かせると言っていたぞ? あと三ヶ月別居婚が続いたら、お前達は強制離縁だ」
お館様というのは、リオノーラの父親のことだ。ティンエルジュ領の領民達は、領主のことをそう呼んでいる。
「……!」
リオノーラは驚きの事実に声も出ない。
彼女は領主である父親の右腕として働いている。もちろん法にもそれなりに精通している。だが、今の今まで自分達に当てはめて考えることはしてこなかった。あえて考えないようにしていた、と言ったほうが正しいかもしれない。彼女は焦りの汗を額に滲ませる。
いくつもの大国や地域に囲まれ、常に周囲からの侵略に神経を尖らせているこの宗国の婚姻制度は、他国と比べてもかなり柔軟だ。王族や大貴族の婚姻であっても、跡継ぎが作れない状態が二年続き、それが第三者によって証明できれば、離縁が可能だった。それだけ、跡継ぎを残すことを宗国は重要視しているのだろう。
飛ぶ鳥をも落とす勢いで戦争に勝ち続け、今や大陸の宗主国「宗国」となったこの国は、婚姻制度をあえて柔軟なものとすることで貴族家を存続しやすくしているのかもしれない。
だが、その宗国特有の婚姻制度のせいで、リオノーラは追い詰められていた。
「ど、どうしましょう……!」
「婿殿は来週も来ると言っていたから、鉄格子越しにまぐわうしかないな」
レイラは厳しい顔を崩し、にやにやしている。この屈強で大柄な女従者は、たまにキツすぎる冗談を言う傾向があった。もちろん、言われたリオノーラは顔を真っ赤にして激怒する。
「もうっ! 馬鹿なことを言わないでちょうだい!」
「はははっ、悪い悪い。……だがな、離縁の危機にあるのは本当だぞ?」
「うっ、そうよね……」
「そこで私から提案がある」
レイラは赤い制服の内ポケットから、折り畳まれた羊皮紙を取り出した。四つ折りにされたそれを開き、リオノーラの目の前にかざす。しかしリオノーラにはそこに書かれた文書を読むことができなかった。使われている文字は宗国王都公用語だが、一見するとでたらめな文章が書かれていたからだ。
「何よこれ? 暗号?」
「ああ、婿殿の上官から預かったものだ」
「上官?」
「婿殿のことで話があるそうだ」
リオノーラは首を傾げる。アレスのことで話があるのなら、普通にそう書けばいいのにと思う。わざわざ暗号にする意味が分からない。
ちなみにこのメモは、レイラが先日王立騎士団と接触した際にアレスの上官本人から受け取ったものらしい。
「お館様にこのメモを見られたらまずいと思ったのだろうな。待ち合わせ日時と場所が書かれている。行くか? リオ」
「時間はあるの?」
「リオの予定は調整してある」
すでに行くことになっているらしい。勝手に予定を決められたことにムッとしなくはないが、アレスのことは心配だ。直属の上官から話を聞けるのなら、それに越したことはないだろう。
「行くわ。アレス様が心配だもの」
菓子が入っていた長方形の箱を折り畳みながら、リオノーラは大きく頷いた。
それから三日後、リオノーラは夜明け前にレイラと共に屋敷を出た。レイラが御する馬の背に跨り、昼前に宿場街に到着する。
今日はちょうど、彼女の父は隣接する属国である南方地域へ出掛けており留守だった。領主がいない時に自分までいなくなるのはどうかと思わなくもなかったが、それ以上にアレスのことが気がかりだった。ティンエルジュ家の屋敷と宿場街までは単騎で四時間ほど。アレスの上官から話を聞き、すぐに引き返せば夕刻には屋敷へと戻れる。
さて、とある宿の一室に、アレスの上官はいた。
アレスと同じ灰色の詰襟服を着ているが、袖の線は彼よりも一本多い。
「お初にお目にかかります、リオノーラ様。わたくしは宗国軍特務師団師団長補佐官らの長をしております、ラインハルト・ドゥ・ポルトワと申します。今は宗国の貴族家に入っておりますが、生まれは南方地域でございます。本日はこのようなところまでご足労いただき、ありがとうございます」
はっきりと明るい声で挨拶をし、恭しく腰を折ったその男は、リオノーラを見つめると糸のように細い目をさらに細めた。
南方人らしく背はそれなりに高いが身体の線は細く、一見すると騎士に見えない。黒髪を後ろにきっちり撫でつけ、口の上には細く整えられた黒髭を蓄えている。年齢は三十をいくつか過ぎていそうだ。
ラインハルトは自ら南方人だと言ったが、彼は一目でそうと分かる様相をしている。
宗国人と南方人とでは外見がかなり異なる。宗国人はリオノーラのように、寒色の瞳に茶髪や金髪など明るい色の髪を持ち、体格は小柄な者が多い。
一方南方人は目の前のラインハルトやレイラのように黒髪に黒い瞳を持つ者が多く、皆総じて長身だ。
そして南方人の、特に戦闘部族と呼ばれている者達は独自の戦う術をもっていた。恵まれた体格と戦闘技術を生かすため、南方地域から宗国へ移住し、王立騎士団に入る者も少なくないと聞く。
もっとも、南方地域が宗国との戦争に負け、属国となって三十年になる。アレスのような混血の人間も年々増えているので、両方の人種の特徴を持つ人間も珍しくないが。
「はじめまして。リオノーラ・フォン・ティンエルジュと申します」
続いてリオノーラも片方の足を引いて膝を曲げ、形ばかりの淑女の挨拶をする。彼女は馬に跨るため、ズボン姿だった。ズボンに合わせて上もごわついた生成りのシャツを着ている。邪魔にならないよう、癖のある髪は首の後ろで一本にまとめた。
「夫がいつもお世話になっております」
「いえいえ、世話になっているのは私のほうですよ。今日もアレスは私の代わりに王城の軍議に出ておりますから。彼はとても真面目で優秀でね、戦働きも机仕事も人の十倍はやりますよ」
直属の上官からの評に、リオノーラはなんとも言えない気持ちになった。アレスの顔色が常に悪いのは、戦神の薬の影響もあるだろうが、過剰労働が原因ではないかと踏んでいる。
ラインハルトはよく喋る男だった。アレスがいかに真面目で、有能な部下であるかを雄弁に語る。リオノーラはラインハルトの言葉に相槌を打ちながら、この男になんとなく嫌なものを感じていた。
……かつてティンエルジュ家で雇っていた家令と似たものを感じたからかもしれない。
リオノーラの母は、約十五年前に家令に連れられて屋敷を出て、現在は宗国の後宮にいる。その家令――母を連れ去った男が、ラインハルトのように堂々とした物言いをする男だったのだ。
(……よく喋る方だわ)
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