上 下
5 / 17

バレていただなんて

しおりを挟む



「う~~ん……、どうしましょう」

 クレマントの屋敷にもう一月もいるというのに、私は書庫のある棟で迷ってしまった。クレマント家の屋敷はとにかく広い。どれだけ広いかと言うと、実家の屋敷が十個は余裕で入るほど広かった。いや、もっと入るかもしれない。
 もちろんこれだけ広いとイリネスと偶然すれ違うことさえ難しい。彼の執務室の場所は知っているけど、イリネスは急な視察に出ていることも多く、仕事場のまわりをうろちょろしていてもまず顔を見ることはなかった。

 ──私、方向音痴なのよねぇ……。

 歩けば歩くほど、廊下を進めば進むほど、明後日の方向へ迷いこんでしまっているような気がする。みたこともない回廊に入ってしまい焦るが、なぜか周りに人の姿は見当たらない。
 侍女についてきて貰えばよかったと今更後悔した。

 きょろきょろと、辺りを見回しながら、大理石の固い床を踏み締める。こんなに高級そうな石目の床の上を、歩いていいものかといつも躊躇する。回廊や廊下に飾られた壺や絵画もどれも高級そうで、場違い感に怖気づく。

 ──あれは?

 ふと目についた扉を一つ開けると、壁紙が違う廊下に出た。飴色の重厚感のある内装から、小花模様の可愛い壁紙の空間になり、少しだけ心が和んだ。
 回廊の奥には、ハガキサイズの絵画が、壁にずらりと飾られた空間があった。

「絵画じゃないわ……これは……」

 ──ポストカード?

 厚紙に、水彩塗料で描かれた自然の風景。そう、真鍮製の立派な額縁に入ったそれは、ポストカードだった。
 しかもこのポストカードには見覚えがあった。

「私が描いた絵葉書ポストカード……?」
「ユージェニー!」

 誰もいなかったはずの廊下の奥から、ふいに人の声がした。びくりと背を震わせ、後ろを振り向くと、そこには食事時にしか顔を合わせられない婚約者、イリネスがいた。

 イリネスは息をはずませ、こちらへ駆け寄ってくる。いつも整えられていた短い黒髪は、若干乱れている。襟付きシャツに綿のトラウザーズ、膝まで丈のある柔らかそうな上着を纏った彼は、焦った顔をしていた。

「イリネス様……」
「一体こんなところで何をしている?」
「あ、私……書庫へ行こうとして迷ってしまって」
「──迷った?」
「すみません。私、方向音痴で……」

 これは恥ずかしい。一月も暮らしている屋敷で迷う人間はそうはいないだろう。身体に巻いていたストールを手繰り寄せ、頭を下げる。
 彼はどこかで私の姿をみていて、駆けつけてくれたのだろう。ここは私が入ってはいけない空間だったのかもしれない。

「そうか。書庫へ案内する」

 イリネスはいつも通りの柔らかなトーンで言葉を紡ぐ。しかし彼の瞳の奥は『勝手にこんなところへ入りやがって』と言わんばかりに私を責めているように感じた。
 ……いやむしろ逆かもしれない。私に、いや、ユージェニーに対し、彼は余計な感情を極力持たないようにしているのかもしれない。仮面のように、いつも浮かべられた柔和な顔。今だって彼は優しげな顔をしているのに。
 一ヶ月間一緒に暮らしていて、毎日彼と顔を合わせているというのに、心理的な距離感はまったく縮まっていないような気がする。
 ──彼の考えがいまいち読み取れない程度には。

「イリネス様、こちらの絵は……?」
「ああ、見ての通り……君から季節ごとに送られたポストカードだ。大袈裟かと思ったが、大切な婚約者から贈られたものだからな。飾らせて貰ったんだ」

 ──どうもセリフだけって、感じがするのよね……。

 あの十五年分の膨大な手紙を読んだ時は、ユージェニーに少なくない好意を持っているのだと思っていたけど、実際に一緒に暮らすとそうでもないのかなという印象に変わった。
 イリネスは好意をほのめかす言葉を口にしても、目の奥にある感情が見えない。
 屋敷に到着した私を出迎えてくれた、あの時は上手くいきそうだと思っていたのに。

「懐かしいです……。一枚一枚、図鑑を見ながら丹精込めて描いたんですよ。見て回ってもいいですか?」
「……買ったものではないのか?」
「うふふ。私、昔から絵は得意なんです」

 それでも、婚約者が贈ったポストカードを飾る程度の好意はあるのだ。
 従者の誰かの提案なのかもしれないが、イリネスはそれを了承している。

 ユージェニーはおそらく、私が彼女へあげたポストカードをそのままイリネスへ送ったのだろう。手紙のお返しとして。
 ユージェニーは昔から友達が多かった。彼女はよく手紙の返事に困り、私にポストカードを描くようにねだってきたことを思い出した。

 ポストカードに描かれた絵の解説をしようかと思ったのに、一枚の絵を指さした次の瞬間、イリネスに止められてしまった。

「……いや、こんな人気ひとけの無いところで二人きりでいるのはまずい」
「……イリネス様?」
「戻ろう、ユージェニー」

 あと二月後には式を挙げるというのに、イリネスはまるで何の関係もない未婚の若い男女が、二人きりでいるのはよくないと言わんばかりに首を横にふる。

 思えば彼は私に一切触れようとしない。今だって、会話をするには少し距離があるような気がする。
 いつも食堂で、テーブル越しに会話をするだけだったので全然気がつかなかった。
 彼はユージェニーのことを何だと思っているのだろうか? 我々はただの若い男女ではない。言葉では婚約者だと言っていても、そうは思ってないのではないか。

「イリネス様、私たちは二月後には正式な夫婦になるのですよね? 侍女頭も、家令長も、私たちが二人きりで過ごすことを推奨するようなことを言っても、駄目だなんて言いません」

 思わず強い口調で言い切ってしまった。この一ヶ月間、なかなか縮まらない距離感に、じれったく思っていた鬱憤が出てしまった。
 私の強い語気にひるんだのか、イリネスの瞳が一瞬揺れた。

「そうだが……」
「私は夕食の時以外でもイリネス様と一緒にいたいと思っていますし、もっと二人きりで過ごしたいと思っています。……駄目ですか?」

 ──もっと仲良くなりたいと思っているのに。

 良い言い方ができたら良いのに。男女の機微が分からなくて、どうしても直接的な言い方になってしまう。
 瞼を伏せた。なんとなく気まずくて、彼の目が見れなかった。

「……正直、決めかねている」
「何がですか……?」
「先週、ロイドから君の話を聞いた」

 ロイドはじいやの名である。
 一体彼から何を聞いたというのか。
 先週、じいやはこの屋敷にイリネスの姿絵を返しに来たと言っていた。そのついでに私とも会ってくれて、そこでユージェニーの現状を聞いたのだ。
 じいやからは特に変わった様子は見られなかったけど、でも。

 嫌な予感がして、胸がどくんと跳ねた。
 そして、その予想は的中していた。

「……君はユージェニーじゃないらしいな?」

 かちりと視線がぶつかった。彼の青の瞳には、はっきりと非難の色が滲んでいる。
 
「……っ」

 どう答えてよいか分からず、とっさに俯くことしか出来なかった。

 身代わりがバレてしまった。
 焦りで嫌な汗が身体中から吹き出る。どくどくと鼓動が早まり、思考が回らなくなる。

 ──どうしよう……。

 一体いつだろうか。私がユージェニーじゃないと気がつかれたのは。
 イリネスが私と距離を取っていたのは、私の正体に気がついていたからだったとは。

 何か繕う言葉を口にしようと思っても、頭をガンと殴られたようなショックで、何も出てこなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R-18】嫁ぎ相手は氷の鬼畜王子と聞いていたのですが……?【完結】

千紘コウ
恋愛
公爵令嬢のブランシュはその性格の悪さから“冷血令嬢”と呼ばれている。そんなブランシュに縁談が届く。相手は“氷の鬼畜王子”との二つ名がある隣国の王太子フェリクス。 ──S気の強い公爵令嬢が隣国のMっぽい鬼畜王子(疑惑)に嫁いでアレコレするけど勝てる気がしない話。 【注】女性主導でヒーローに乳○責めや自○強制、手○キする描写が2〜3話に集中しているので苦手な方はご自衛ください。挿入シーンは一瞬。 ※4話以降ギャグコメディ調強め ※他サイトにも掲載(こちらに掲載の分は少しだけ加筆修正等しています)、全8話(後日談含む)

【完結】誰にも相手にされない壁の華、イケメン騎士にお持ち帰りされる。

三園 七詩
恋愛
独身の貴族が集められる、今で言う婚活パーティーそこに地味で地位も下のソフィアも参加することに…しかし誰にも話しかけらない壁の華とかしたソフィア。 それなのに気がつけば裸でベッドに寝ていた…隣にはイケメン騎士でパーティーの花形の男性が隣にいる。 頭を抱えるソフィアはその前の出来事を思い出した。 短編恋愛になってます。

〈短編版〉騎士団長との淫らな秘め事~箱入り王女は性的に目覚めてしまった~

二階堂まや
恋愛
王国の第三王女ルイーセは、女きょうだいばかりの環境で育ったせいで男が苦手であった。そんな彼女は王立騎士団長のウェンデと結婚するが、逞しく威風堂々とした風貌の彼ともどう接したら良いか分からず、遠慮のある関係が続いていた。 そんなある日、ルイーセは森に散歩に行き、ウェンデが放尿している姿を偶然目撃してしまう。そしてそれは、彼女にとって性の目覚めのきっかけとなってしまったのだった。 +性的に目覚めたヒロインを器の大きい旦那様(騎士団長)が全面協力して最終的にらぶえっちするというエロに振り切った作品なので、気軽にお楽しみいただければと思います。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

【R18】王と王妃は側妃をご所望です。

とらやよい
恋愛
王太子妃になるべく厳しく育てられた侯爵令嬢イエリンだったが、努力の甲斐なく彼女が王太子妃選ばれることはなかった。 十代で夢破れ第二の人生に踏み出しても、見合いすら断られ続け結婚もできず六年が経過した。立派な行き遅れとなったイエリンにとって酒場で酒を飲むことが唯一の鬱憤の捌け口になっていた。 鬱々とした日々の中、ひょんなことから酒場で出会い飲み友になったアーロン。彼の存在だけが彼女の救いだった。 そんな或日、国王となったトビアスからイエリンを側妃に迎えたいと強い申し入れが。 王妃になれなかった彼女は皮肉にも国王トビアスの側妃となることになったのだが…。 ★R18話には※をつけてあります。苦手な方はご注意下さい。

王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~

石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。 食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。 そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。 しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。 何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。 扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。

【R18】塩対応な副団長、本当は私のことが好きらしい

ほづみ
恋愛
騎士団の副団長グレアムは、事務官のフェイに塩対応する上司。魔法事故でそのグレアムと体が入れ替わってしまった! キスすれば一時的に元に戻るけれど、魔法石の影響が抜けるまではこのままみたい。その上、体が覚えているグレアムの気持ちが丸見えなんですけど! 上司だからとフェイへの気持ちを秘密にしていたのに、入れ替わりで何もかもバレたあげく開き直ったグレアムが、事務官のフェイをペロリしちゃうお話。ヒーローが片想い拗らせています。いつものようにふわふわ設定ですので、深く考えないでお付き合いください。 ※大規模火災の描写が出てきます。苦手な方はご自衛をお願いします。 他サイトにも掲載しております。 2023/08/31 タイトル変更しました。

王太子殿下が好きすぎてつきまとっていたら嫌われてしまったようなので、聖女もいることだし悪役令嬢の私は退散することにしました。

みゅー
恋愛
 王太子殿下が好きすぎるキャロライン。好きだけど嫌われたくはない。そんな彼女の日課は、王太子殿下を見つめること。  いつも王太子殿下の行く先々に出没して王太子殿下を見つめていたが、ついにそんな生活が終わるときが来る。  聖女が現れたのだ。そして、さらにショックなことに、自分が乙女ゲームの世界に転生していてそこで悪役令嬢だったことを思い出す。  王太子殿下に嫌われたくはないキャロラインは、王太子殿下の前から姿を消すことにした。そんなお話です。  ちょっと切ないお話です。

処理中です...