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バレていただなんて
しおりを挟む「う~~ん……、どうしましょう」
クレマントの屋敷にもう一月もいるというのに、私は書庫のある棟で迷ってしまった。クレマント家の屋敷はとにかく広い。どれだけ広いかと言うと、実家の屋敷が十個は余裕で入るほど広かった。いや、もっと入るかもしれない。
もちろんこれだけ広いとイリネスと偶然すれ違うことさえ難しい。彼の執務室の場所は知っているけど、イリネスは急な視察に出ていることも多く、仕事場のまわりをうろちょろしていてもまず顔を見ることはなかった。
──私、方向音痴なのよねぇ……。
歩けば歩くほど、廊下を進めば進むほど、明後日の方向へ迷いこんでしまっているような気がする。みたこともない回廊に入ってしまい焦るが、なぜか周りに人の姿は見当たらない。
侍女についてきて貰えばよかったと今更後悔した。
きょろきょろと、辺りを見回しながら、大理石の固い床を踏み締める。こんなに高級そうな石目の床の上を、歩いていいものかといつも躊躇する。回廊や廊下に飾られた壺や絵画もどれも高級そうで、場違い感に怖気づく。
──あれは?
ふと目についた扉を一つ開けると、壁紙が違う廊下に出た。飴色の重厚感のある内装から、小花模様の可愛い壁紙の空間になり、少しだけ心が和んだ。
回廊の奥には、ハガキサイズの絵画が、壁にずらりと飾られた空間があった。
「絵画じゃないわ……これは……」
──ポストカード?
厚紙に、水彩塗料で描かれた自然の風景。そう、真鍮製の立派な額縁に入ったそれは、ポストカードだった。
しかもこのポストカードには見覚えがあった。
「私が描いた絵葉書……?」
「ユージェニー!」
誰もいなかったはずの廊下の奥から、ふいに人の声がした。びくりと背を震わせ、後ろを振り向くと、そこには食事時にしか顔を合わせられない婚約者、イリネスがいた。
イリネスは息をはずませ、こちらへ駆け寄ってくる。いつも整えられていた短い黒髪は、若干乱れている。襟付きシャツに綿のトラウザーズ、膝まで丈のある柔らかそうな上着を纏った彼は、焦った顔をしていた。
「イリネス様……」
「一体こんなところで何をしている?」
「あ、私……書庫へ行こうとして迷ってしまって」
「──迷った?」
「すみません。私、方向音痴で……」
これは恥ずかしい。一月も暮らしている屋敷で迷う人間はそうはいないだろう。身体に巻いていたストールを手繰り寄せ、頭を下げる。
彼はどこかで私の姿をみていて、駆けつけてくれたのだろう。ここは私が入ってはいけない空間だったのかもしれない。
「そうか。書庫へ案内する」
イリネスはいつも通りの柔らかなトーンで言葉を紡ぐ。しかし彼の瞳の奥は『勝手にこんなところへ入りやがって』と言わんばかりに私を責めているように感じた。
……いやむしろ逆かもしれない。私に、いや、ユージェニーに対し、彼は余計な感情を極力持たないようにしているのかもしれない。仮面のように、いつも浮かべられた柔和な顔。今だって彼は優しげな顔をしているのに。
一ヶ月間一緒に暮らしていて、毎日彼と顔を合わせているというのに、心理的な距離感はまったく縮まっていないような気がする。
──彼の考えがいまいち読み取れない程度には。
「イリネス様、こちらの絵は……?」
「ああ、見ての通り……君から季節ごとに送られたポストカードだ。大袈裟かと思ったが、大切な婚約者から贈られたものだからな。飾らせて貰ったんだ」
──どうもセリフだけって、感じがするのよね……。
あの十五年分の膨大な手紙を読んだ時は、ユージェニーに少なくない好意を持っているのだと思っていたけど、実際に一緒に暮らすとそうでもないのかなという印象に変わった。
イリネスは好意をほのめかす言葉を口にしても、目の奥にある感情が見えない。
屋敷に到着した私を出迎えてくれた、あの時は上手くいきそうだと思っていたのに。
「懐かしいです……。一枚一枚、図鑑を見ながら丹精込めて描いたんですよ。見て回ってもいいですか?」
「……買ったものではないのか?」
「うふふ。私、昔から絵は得意なんです」
それでも、婚約者が贈ったポストカードを飾る程度の好意はあるのだ。
従者の誰かの提案なのかもしれないが、イリネスはそれを了承している。
ユージェニーはおそらく、私が彼女へあげたポストカードをそのままイリネスへ送ったのだろう。手紙のお返しとして。
ユージェニーは昔から友達が多かった。彼女はよく手紙の返事に困り、私にポストカードを描くようにねだってきたことを思い出した。
ポストカードに描かれた絵の解説をしようかと思ったのに、一枚の絵を指さした次の瞬間、イリネスに止められてしまった。
「……いや、こんな人気の無いところで二人きりでいるのはまずい」
「……イリネス様?」
「戻ろう、ユージェニー」
あと二月後には式を挙げるというのに、イリネスはまるで何の関係もない未婚の若い男女が、二人きりでいるのはよくないと言わんばかりに首を横にふる。
思えば彼は私に一切触れようとしない。今だって、会話をするには少し距離があるような気がする。
いつも食堂で、テーブル越しに会話をするだけだったので全然気がつかなかった。
彼はユージェニーのことを何だと思っているのだろうか? 我々はただの若い男女ではない。言葉では婚約者だと言っていても、そうは思ってないのではないか。
「イリネス様、私たちは二月後には正式な夫婦になるのですよね? 侍女頭も、家令長も、私たちが二人きりで過ごすことを推奨するようなことを言っても、駄目だなんて言いません」
思わず強い口調で言い切ってしまった。この一ヶ月間、なかなか縮まらない距離感に、じれったく思っていた鬱憤が出てしまった。
私の強い語気にひるんだのか、イリネスの瞳が一瞬揺れた。
「そうだが……」
「私は夕食の時以外でもイリネス様と一緒にいたいと思っていますし、もっと二人きりで過ごしたいと思っています。……駄目ですか?」
──もっと仲良くなりたいと思っているのに。
良い言い方ができたら良いのに。男女の機微が分からなくて、どうしても直接的な言い方になってしまう。
瞼を伏せた。なんとなく気まずくて、彼の目が見れなかった。
「……正直、決めかねている」
「何がですか……?」
「先週、ロイドから君の話を聞いた」
ロイドはじいやの名である。
一体彼から何を聞いたというのか。
先週、じいやはこの屋敷にイリネスの姿絵を返しに来たと言っていた。そのついでに私とも会ってくれて、そこでユージェニーの現状を聞いたのだ。
じいやからは特に変わった様子は見られなかったけど、でも。
嫌な予感がして、胸がどくんと跳ねた。
そして、その予想は的中していた。
「……君はユージェニーじゃないらしいな?」
かちりと視線がぶつかった。彼の青の瞳には、はっきりと非難の色が滲んでいる。
「……っ」
どう答えてよいか分からず、とっさに俯くことしか出来なかった。
身代わりがバレてしまった。
焦りで嫌な汗が身体中から吹き出る。どくどくと鼓動が早まり、思考が回らなくなる。
──どうしよう……。
一体いつだろうか。私がユージェニーじゃないと気がつかれたのは。
イリネスが私と距離を取っていたのは、私の正体に気がついていたからだったとは。
何か繕う言葉を口にしようと思っても、頭をガンと殴られたようなショックで、何も出てこなかった。
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