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エメリーヌと呼ばれる最後の日

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 そうこうしている内にクレマント領へ向かう日がやってきた。この十日間は本当にあっという間に過ぎ、ぎりぎりまでユージェニーの身代わりにお嫁に行くという実感が湧かなかったぐらいだ。
 なにせ、本当に突然だったのだ。
 つい一月前まではユージェニーもとうとうお嫁に行ってしまうのだと思い、寂しく思っていたのに。
 それが私が侯爵家へお嫁に行くことになるとは。
 人生分からないものである。

 
「エメリーヌ、元気でね」
「ユージェニーこそ、フリオと幸せにね」
「ええ、ぜったいに幸せになるわ、私」

 私と同じ、巻き毛の銀髪。私と同じ、翡翠の瞳。ユージェニーはこぼれ落ちそうなほど大きな瞳に大粒の涙をためて、私に抱きついてきた。
 
 ──もう、私はエメリーヌと呼ばれることはないのね。

 自分の名前はあまり好きではなかったけど、もう二度と呼ばれなくなると思うと寂しく思った。
 私はこれから、ユージェニーとして生きる。クレマント侯爵、イリネスの妻として。
 ……頭のなかで何度思い描いても、やっぱりまだ、実感は湧いていないような気がする。侯爵夫人として立ち回る自分の姿は想像できなかった。

「エメリーヌ! エメリーヌ……!」

 まだ日も完全には上がらない早朝だというのに、父も母も、弟たちも、別れの挨拶に駆けつけてくれていた。
 皆、口々に私の名を呼び、抱き合った。
 もう二度と会えないだろう家族。イリネスとの挙式は三ヶ月後だけど、私の両親は当然、招待されていない。
 父と母に婚礼着姿を見せてあげられないのが辛い。私はユージェニーとして侯爵家へお嫁に行くのだから、仕方がないけれど。

 ──上手くやらなくちゃ、実家の家族のためにも。

 私がユージェニーとして上手く振る舞えれば、皆が幸せになれる。ユージェニーとしてイリネスに愛されれば、誰も悲しまずに済むのだ。

 涙をぐっとこらえて馬車へ乗り込んだ。小さな山をひとつ越える前には、泣きやまなければ。
 涙の痕を、夫になる青年に見せるわけにはいかないから。
 クレマント領は、ユージェニーの父親が治める土地と隣接していた。遅くとも昼前には馬車は着いてしまう。
 頰に流れていきそうになった水滴を、慌ててハンカチで拭った。

 ユージェニーから貰ったドレスは少し窮屈だった。不安な心を宥めるように胸を撫でる。こんなに仕立ての良いものを着るのは初めてで、より一層緊張感は高まった。



 ◆




「ユージェニー、久しぶりだな」

  クレマント領主館に着き、止まった四頭馬車の重い扉を開けたのは、なんと婚約者のイリネスその人だった。
 領主である婚約者自ら、出迎えてくれたのだ。
 じいやが見せてくれた姿絵と同じ黒い髪に、晴れた日の海のように青い瞳。やわらかく弧を描いた切れ長の目が、こちらへ向けられていた。

 じいやの言っていた通りだった。
 イリネスははっと見惚れるぐらい、すてきな外見をした青年だった。きっちり締められた白いシルクタイに三揃いのフロックコート。
 今までまったく縁の無かった──高貴な生き物がそこにいた。

「イリネス様……?」
「ユージェニー、元気そうだね」

 イリネスは第一声で私をユージェニーと呼んだ。彼の落ち着いた優しい声色に、自分の胸に広がる大きな安堵感に脱力しそうになる。なんて耳障りの良い声だろうか。
 私は正直、イリネスに『ユージェニー』と呼ばれるまで、入れ替わりがバレるのではないかとはらはらしていたのだ。馬車のなかでもずっと緊張しっぱなしだった。

「……イリネス様。これからどうぞよろしくお願いしますわ」

 ほうっと息をはきながら、私は恭しく頭を下げた。口調はなるべくユージェニーに似るように努めたが、とっさのことで表情までは頭が回らなかった。

 ──良かった、優しそうな方だわ。

 思わず口許が緩む。想像していたよりも、ずっとずっと素敵で、優しそうな若い青年が出迎えてくれたからかもしれない。頰が今までにないぐらいポッと熱くなった。
 何だか身体が汗ばむのは、陽気がいいからだけではないだろう。

「……ああ、こちらこそよろしく頼む。ユージェニー」

 この時の私は目の前の貴公子に見惚れていて、気がつかなかった。彼が一瞬、訝しむような視線をこちらへ向けていたことに。

 馬車の外からサッと差し出された大きな手。私は初めて受けるエスコートに、嬉しくて、破顔を止められなかった。
 白手袋越しに伝わる体温、私の手を支えようとする力強い感触。ときめかずにはいられなかった。

「……ご親切に、ありがとうございます」
「ああ」

 馬車から降り立ち、思っていた以上にイリネスの背がすらりと高いことに気がつく。自分よりも頭ひとつ分以上は大きいだろうか。思わずまじまじと見上げてしまった。男のひとなのに肌はすべらかでキズ一つない。短い黒髪には艶がある。実年齢よりもずっと若く見えた。それに何だか爽やかな良い香りもする。

 ──ユージェニーはどうして、イリネス様のことを好きにならなかったのかしら?

 何回目か分からない疑問がまた頭に浮かぶ。私はイリネスほど清潔感があって素敵な男の人は見たことがない。こんなにフロックコートが似合う男性はなかなかいないのではないか?
 貴族の社交の場にでる機会はなかったけど、そう思った。

「……どうかしたのか? 私の顔に何かついてるかな?」

 自身のあごを撫でながら、イリネスは困惑気味にそう言った。

「あっ! ごめんなさい。あまりにもイリネス様が素敵な方でしたので、見惚れてしまいました……」

 私が頭をかきながら、愛想笑いを浮かべると、イリネスは一瞬目を見開いて「そうか」と言った。どうも照れているらしい。頰が赤くなっていた。照れた顔もどこか可愛らしい。

 ──なんだか上手くやれそうな気がするわ。

 はじめて自分の心に生まれた淡い感情。鼓動がはやくて胸が痛いような気がするけど、嫌ではない。
 自分の半歩前を歩くイリネスをちらりちらりと見上げては、熱を帯びた目蓋まぶたを伏せた。時折、視線がかちりと合うと、恥ずかしくて、胸がむず痒くなるような気がした。

 今思うと、この時の私は何ておろかな行動を重ねてしまったのだろうと反省しかしないが、おぼこのような態度を取ってしまったのは無理もないと思う。出迎えてくれたイリネスはそれはもう、息をするのも忘れるぐらいかっこよかったから。

 この時の私はすっかり忘れていたのだ。
 ユージェニーはイリネスにずっと興味がなかったという事実に。
 本来のユージェニーは、最愛の恋人と引き離され、長い付き合いがあっても惹かれない婚約者の元へ嫁いだ、悲劇の令嬢だ。暗い顔をしていても無理はない状況だった。
 私はユージェニーになりすますのなら、落ち込んだ顔をしなければならなかったのだ。
 それなのに、私は……。この十日間、じいやから毎日お願いされていた『イリネス様とどうか仲良くしてあげてください』との言葉を完全に鵜呑みし、イリネスと仲良くすることばかりを考えていた。
 そう、浮かれていたのだ。

 イリネスは当然というか、ユージェニーとその恋人であるフリオのことを知っていた。だからこそ彼はユージェニーに扮した私に、身構えた態度を取っていたというのに、私はまったくそれに気がついていなかった。
 白手袋で包まれたままの手を差し出されたのも、屋敷まで案内されているというのに脇をあけた腕を差し出されなかったのも、本来挙式を控えた婚約者にする行動ではなかったらしい。

 私はどこまでも無知だった。男性経験がなさ過ぎたのが、仇となったのだ。

 エスコートの時、男性側は手袋を取るということも、脇を開けるということも、私は知らなかったのだ。
 今までは知る必要が無かったし、知る機会も無かったから。
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