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前世の夢

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 シトリンは夢を見ていた。
 いつも見る、前世の夢だ。

 場面は自分が働いていた王宮内。白亜の美しかった城内は、敵である黒羽族の襲撃を受けてあちこちの壁や柱が崩れ落ちていた。石畳の床に散らばるのは、夥しい量の黒羽族のつるりとした羽や爪。身体の一部が欠損し、血を流した遺体が廊下を埋め尽くしていた。横たわったまま動かない顔見知りの姿もあった。言うまでもなく、地獄絵図だった。

 シトリンは悲鳴をあげなかった。王宮で料理番として働く彼女は、兵士の救護班としても働いていた。ぼろぼろになった者を見慣れてしまったのだ。それでも、この惨劇に冷や汗が止まらない。
 むせかえるような血の臭い。なるべく息を止めて、シトリンは死体の山を慎重に、一歩一歩、歩を進めていく。周囲に首を巡らせながら。
 そして彼女は王宮の大広間まで来た時、探していた人物を見つけてしまった。

『アルゼット‼︎』

 悲鳴混じりの声で、シトリンは夫の名を呼ぶ。
 アルゼットは大広間の壁に背を預け、血まみれで座り込んでいた。彼の右手には剣があるが、真ん中から先が欠けていた。剣の状態からも、ここでの戦いの過酷さが伺い知れた。
 アルゼットにはまだ僅かながら息があった。しかし、彼が呼吸をするたびに服が破れたところから出血している。真っ赤に染まった羽根もところどころ折れているようだ。息を引き取るのも時間の問題かと思われた。

 シトリンは泣きたい気持ちを押し殺してアルゼットの前に両膝を下ろす。彼女は救護班として何人もの兵を看取ってきた。せめて今際の際ぐらいは安らかな気持ちで逝かせてあげたい。他の兵にしてあげるのと同じように、シトリンはアルゼットの手を取った。
 しかしシトリンのほっそりした手はパンッと振り払われてしまう。微かな舌打ちと共に。

『チッ……』
『アルゼット……』

 ぼろぼろの彼のどこにそんな力が残っていたのか。シトリンは振り払われた手を、もう片方の手で包む。手はじんと痺れていた。

『お前になんか看取られたくない……! 迷惑だ……』

 地の這うようなアルゼットの声。これが今生の別れの台詞なのか。
 戦乱の世。二人の結婚は早く、互いが十四歳の頃に神殿の取り決めで夫婦つがいとなった。それから十年。アルゼットは最後の最後までシトリンに感謝の言葉ひとつ告げることは無かった。

 シトリンはショックを受けるが、それでも、死にゆく夫が知りたいであろう事柄を口にする。

『アルゼット、あなたが勇敢に戦ってくれたおかげで、女官や城の皆は無事よ。……ありがとう』

 アルゼットは瞼を閉じたまま、シトリンの言葉に応じるようにすうっと肩の力を抜いた。からんと音を立てて、彼の右手に握られていた剣が石畳の床に落ちる。
 それを見たシトリンは、目の前の光景が歪むのを感じた。頬が、顎が、熱い液体でじっとり濡れていく。口の中がしょっぱくて、鼻の奥が痛んだ。彼女は自身が血で汚れるのにも構わず、アルゼットの首に抱きついた。

『い、逝かないで……! 私を置いて逝かないでよぉ!』

 シトリンはアルゼットの胸で声をあげて泣いた。彼女はどれだけアルゼットから冷たくあしらわれても、彼のことを愛してきた。アルゼットは周囲から冷徹だと言われていたが、戦場では先陣を切って戦い、白羽族を身体を張って守ってきた。そんな彼のことをシトリンは心から尊敬していた。
 アルゼットから袖にされるシトリンを見て、彼女の両親は彼女へ離縁を勧めた。シトリンも、他のつがい達のように、伴侶と愛を交わし合いたいと思ったことは数えきれないほどある。しかし、シトリンはアルゼットでなければ嫌だった。アルゼットから愛されなければ、意味がなかった。二人はそう、神殿が取り決めた運命のつがいだったから。

 アルゼットがいなければ、この世にいる意味なんてない。シトリンは彼が右手に握っていた剣を手に取った。瞼を閉じ、スッと息を吐きながら、刃こぼれした刄を喉元へ突きつける。

 二人は前世で、ほぼ同時に亡くなっていた。


 ◆


 公園の丘の上、アルゼットの膝の上で寝ていたシトリンは、ぱちりと目を覚ます。

「シトリンさん、起きたのか?」

 頭上から穏やかな声が降ってくる。シトリンは声の主の顔を見てハッとした。

「あ、アルゼット……怪我は……?」
「怪我?」

 アルゼットの膝の上からむくりと起き上がったシトリンは、見開いた瞳を揺らしていた。額には汗がうっすら浮いている。また目尻に涙を溜めたシトリンは、目の前にいるアルゼットの首に抱きついた。

「わっっ」

 いきなりシトリンに抱きつかれたアルゼットはよろめきそうになるが、何とか彼女を抱きとめた。すぐにアルゼットの耳には彼女の啜り泣く声が聞こえてきた。

「アルゼット、死んではだめ……! だめ……!」
「……シトリンさん、大丈夫だ。今世の俺は君を置いて死んだりしない」

 アルゼットには前世の記憶は無かったが、自分の前世が、最期が、どのようなものだったのか、概要だけは国の調査機関から聞いて知っている。前世の自分たちは戦争で死に分かれていた。シトリンはきっと前世の夢を見たのだ。可哀想に。
 アルゼットはシトリンの背に腕を回し、ぎゅっと抱き締める。シトリンの身体は、小さくて細くて柔らかかった。甘い花のような匂いが鼻腔をくすぐる。こんなにも愛らしい存在を残して逝かなければならなかった前世の自分を思うと、胸の奥が締め付けられる。どれほど、無念だったことか。
 シトリンの背を撫でていると、次第に彼女は落ち着きを取り戻した。そして彼女は顔を上げると、赤かった顔をサッと青ざめさせた。

「あっあっ……! ご、ごめんなさい! アルゼットさん」
「あはは、大丈夫だよ。寝ぼけることなんて誰にでもあるさ」
「えっ、あの、本当にごめんなさい!」

 ころころと表情を変えるシトリンに、アルゼットは笑ってはいけないと思いながらも、つい彼女の愛らしさから吹き出してしまった。

「さあ、そろそろ帰ろうか。日が落ちると寒くなってくるからな」

 床に敷いていた敷布を片付けるアルゼットを見て、シトリンは咄嗟に彼の腕を掴んだ。

「シトリンさん?」

 シトリンの行動の意味が分からず、アルゼットは彼女に問いかける。

「あの、アルゼットさん、今日はもっと一緒にいたいです」
「それはいいが……」

 まだ付き合ってはいない二人のデートは、いつも日中に終わる。ランチを一緒に摂って、公園か美術館、図書館を回ったあと、カフェで軽く休憩してから別れている。本来なら、ここで今日のデートは終わりだ。しかし、シトリンはもっと一緒にいたいと言う。

「シトリンさんはどこか行きたいところはあるか?」
「アルゼットさんのお部屋へ行ってみたいです」
「は、俺の部屋?」
「いきなりは迷惑ですか?」
「そんなこともないが……。寝に帰っているだけの部屋だから、何もないぞ?」

 こくりとシトリンは頷く。
 アルゼットから見て、今のシトリンはかなり情緒不安定に見える。彼女は一人でいたくないのかもしれない。しかし、家に連れ帰るのはちょっとなと思う。端的に言えば、アルゼットは彼女に何もしないでいられる自信がない。
 アルゼットから見れば、シトリンはかなり魅力的な女性だった。いつも彼女に触れたいと思っているし、キスやそれ以上のこともしたくて堪らない。
 アルゼットがシトリンとの結婚を急いでいるのも、夜のことがしたいのも本音だ。

 (でも、今のシトリンさんを一人にするのはなぁ……)

 一人で泣いているシトリンを想像するだけで、アルゼットの胸は締め付けられる。出来れば一緒にいてやりたい。でも、手出ししないでいられるだろうか。人がまばらにいる開けた公園の丘の上でさえ、自分の膝で眠るシトリンを見てまったくムラムラしなかったと言えば嘘になる。

「……いいよ。俺の部屋においで」
「えっ、いいんですか?」
「ああ」
「わぁっ、お礼に何か作りますね! アルゼットさん、何か食べたいものはありますか?」

 アルゼットの部屋に行けると知り、シトリンの表情がパッと輝く。それを見て、アルゼットの胸は罪悪感で痛んだ。

 (俺はこの笑顔に誓う……! シトリンさんに何もしないと)

 シトリンはついこの間、アルゼットとの結婚に難色を示した。そんな状況で無理強いをしてしまえば、嫌われてしまうのは必須だ。

「食べたいものか……野菜の肉巻きかな……」
「いいですね! 材料を買いにいきましょうね」

 アルゼットは、ベッドの上であられもない姿を晒しているシトリンの妄想を脳内から追い出すため、必死で食べたいものを思い浮かべる。シトリンは料理上手で、公園デートの時はいつも弁当を作ってきてくれる。この間食べた野菜の肉巻きは旨かった。卵焼きも甘めの味付けで好みだった。
 料理上手で可憐なシトリンとどうしても結婚したい。彼女に嫌われたくない。アルゼットはシトリンの話に耳を傾けながら、己の欲望と戦っていた。
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