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69 乙支文徳VS于仲文・その1

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 それからさらに三日後。于仲文かん ちゅうぶんひきいるずい軍はようやく鴨緑江アムノクガンの北岸に到着した。

 追いついてくるのにここまで時間がかかったのは、隋軍が大所帯だからというだけの理由ではないだろう。まさか高句麗コグリョ軍がこうもあっさり遼東城ヨドンソン放棄ほうきするとは思わなかったため、現場で多少の混乱があったのではないか。だがその混乱もすでに収拾しゅうしゅうずみであるらしい。隋軍は川岸に陣を張ると、河川を渡って南岸にいる高句麗軍を攻めるための準備を着々と進めているようだった。

 そんな鴨緑江を南から北へと渡る小さな舟が一艘いっそう。穏やかな波に右に左にと揺られながら、まっすぐに隋軍の本陣がある場所へと向かっていった。それに乗っているのはぎ手の船頭が一人と、黄金色の鎧を身に着けた高句麗の将軍が一人。言うまでもなく乙支文徳ウルチ ムンドクである。乙支文徳は弁当のおにぎりを竹筒の水筒に入れたお茶で胃の中に流しこみつつ、刻一刻と近づいてくる隋軍の陣営を、感無量かんむりょうと言った目つきでながめ続けていた。

「……ふん。さすがに隋帝国のいた陣だ。こんな急ごしらえのものでも高句麗の陣よりよほど巨大で豪華で、堂々としている。こんな所に一人で入って、果たして生きて帰ってこられるものかね」

 他人ごとのようにそんなことを呟いているうちに、舟は鴨緑江北岸の隋軍本営前にと到着した。乙支文徳はねるように舟から飛び降りると、緊張をごまかすために小さく息をついて、船頭のほうに向き直る。

「ご苦労さん。君はここまででいいよ。あとはおれが合図をしたら、出来るだけ早く迎えに来てくれ。分かってるね?」

  乙支文徳の言葉に船頭は頭を下げると、そのままかいを漕いで舟を操り、岸を離れた。乙支文徳は二、三回大きく深呼吸をすると、そのまま隋軍の本営に向かい歩き始める。

「たのもぉー」

 陣の入り口で見張りをしている兵士二人に向けて、乙支文徳はそう声をかけた。兵士たちはあからさまに警戒けいかいしたような顔つきになり、手にしたやりの先を乙支文徳に向けた。

「待たれよ。おれ……いや、私は怪しい者ではない」

 両手を上に上げて武器を持っていないことを示して見せながら、乙支文徳は出来るだけ偉そうなもったいぶった声を出した。

「私の名前は乙支文徳。高句麗の征虜せいりょ大将軍を務めている者である。本日は降伏の使者として、ここ隋軍の本営を訪れさせていただいた。是非ぜひ、司令官たる于次武じぶ将軍にお取り次ぎ願いたい」

「ひっ……! 高句麗の乙支文徳将軍!?」

「こ、降伏の使者として参られたとっ!?」

「いかにも」

 どうやら彼らも、乙支文徳の名前くらいは知っているらしい。こんな下っ端にまで知られているとは、自分も有名になったものだと乙支文徳はこっそり皮肉げな笑みを浮かべながら、仰天ぎょうてんしたようにさけぶ見張りの兵士二人に向けて重々しくうなずいた。

「こ、こちらへどうぞ」

 兵士Aは兵士Bに誰か呼んでくるように伝えると、自らは乙支文徳を本営の中にと招き入れた。乙支文徳は軽く頭を下げると、兵士Aの後に続いてゆっくり歩いていく。

 歩きながらも、乙支文徳は目だけはいそがしく左右に動かして陣の中の様子を見渡した。周りには多くの兵士たちがおり、何人かは一体なにが起きたんだといぶかしげな表情を浮かべながら、うさんくさそうな顔つきを作って乙支文徳のほうをにらみつけている。

 だが大半の兵士たちは乙支文徳なんぞに関心を持つ気力さえないと言うように、木や建物の陰になる場所に寄りかかりながら、視線をぼんやりと宙にさまよわせていた。

 彼らはもう何日も身体を洗っていないと言うかのように薄汚れており、服も血や泥にまみれていたり破れたりしていて、その周囲をハエやヤブなどにたかられている。おまけにほほはこけ身体はせ細り、えたような臭いが風に乗って辺りを漂っていた。

 時々荷物などを乗せた牛や馬が通るが、それらもいちじしく痩せこけており、兵士たちに追い立てられてよろよろと歩くさまが見ていてなんとも痛ましい。

「こちらで、しばしお待ちを」

 兵士Aは、乙支文徳を来客用らしい天幕テントの中に招き入れると、その中に一つだけ置いてある竹ひごを編んで作ったようなみすぼらしい椅子に腰掛けるようにすすめた。

「かたじけない」

 乙支文徳がその椅子にちょこんと腰掛けていると、さほど待たないうちに天幕の入口が開かれ、二人の人物が中に入ってきた。一人は四〇代半ばくらいのたくましい体つきをしたいかにも武人もののふと言った感じの、しかし穏やかで気さくそうな男。もう一人はかなりの年配だが、背筋が伸び、きりりと引きまった顔立ちの男である。

 二人とも一般の兵たちとは違って身なりはこざっぱりとして、高級ではないが清潔感のある衣服を身に着けていた。ただ目の下に多少くまのようなものが出来ており、どことなくくたびれているように見える。さらによく観察してみると服やズボンがかなりだぶついていた。二人そろってわざと大きめのものを身に着けているとは思いにくい。これはここ数か月で、着ている服がだぶだぶになるくらい急激に痩せたと見るべきではないだろうか……。

「高句麗の、乙支文徳将軍であらせられますな?」

 乙支文徳が思考をめぐらせている間に二人の男は椅子の前まで近づいて、深々と頭を下げてきた。乙支文徳も椅子から立ち上がって、あわてて礼を返す。そんな彼に向かってどうか座っていてくださいと身ぶりで示しながら、身体の大きな武人風の男のほうがうやうやしく声をかけてきた。

「お初にお目もじつかまつるでござる。拙者せっしゃは隋軍十二将軍が一、辛世雄しん せいゆうと申す者にござる。こちらは同じく十二将軍が一人の……」

衛玄えいげんと申しますじゃ。どうかお見知りおき下さりますよう」

 年配の男のほうもそう口を開き、再び丁寧ていねいに頭を下げる。







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