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34 遼河の戦い・その10
しおりを挟む(もしこの直感が正しいとして。隋軍の指揮官が変わっていたならどうだろう? パワーレスラータイプの宇文述じゃなく、謀略が得意な于仲文に指揮権が移っていたら? でもそうだとしたら彼は何故、宇文述の戦術を踏襲するような物量作戦を仕掛けてくるんだ。こういう戦いかたはあの男の好みじゃないと思うんだがな。なにか理由があるのか? たとえばおれたちにはまだ、隋軍の司令官は宇文述のままだと思わせておきたいとか)
乙支文徳は自分が于仲文になったつもりで思考実験を進めた。もし自分が隋軍の司令官で、遼河という大河の向こうで自分たちを迎撃しようとしている二万の兵を蹴散らさなければならない立場だとしたら? 彼らは寡兵のくせに意外としぶとく、さまざまな小賢しい策を弄しては数度に渡って友軍の進撃を防いでいる。どうやら敵の指揮官は少しは頭が回る奴のようだ。そいつの裏をかき対岸に自軍の兵を送りこむにはどうすればいい?
乙支文徳の頭の中で同時にいくつもの策が生み出され、その策が実行された場合のシュミレーションが行なわれていき、実現不可能なものや成功の確率が低いものなどが次々と消去されていく。残された可能性はさらに吟味検討され、より完璧に近い作戦にと作り替える。これらを並行して高速で行なっているうちに、一つの可能性が導き出された。自軍の犠牲が大きいことを除けば、最も労少なく最大の効果を期待出来る作戦……。
「……っ! そうか、そういうことか!!」
そう叫ぶや否や、乙支文徳は弾かれたように飛び上がると、茫然としている大陽を押し退け、傍らに控えている伝令全員に早口で命令を伝えた。
「各部署に詰めている中隊長クラス、全員に伝令! 『大至急オペレーションEを実行せよ』!!」
「は? オペレーションEを、ですか?」
乙支文徳の命令に、伝令の一人は訝しげにそう首をかしげた。
オペレーションEとは戦闘が行なわれる前に、乙支文徳があらかじめ定めておいた符号の一つで、逃走という意味である。つまり乙支文徳は全軍に、持ち場を放棄して本拠地としている遼東城に逃げ帰るよう命令を出したのだ。しかも大至急。
「……何故? 何故なんですか、乙支文徳。我が軍はこれまで順調に勝ってきているじゃありませんか。なのになんでいま敢えてこの武麗邏を放棄するんです?」
「勝っているのはいまだけだ!」
理解出来ないと言うように声をあげた大陽と伝令たちに、乙支文徳は早口で事情を説明する。
「このままでは我が軍は大負けする! 圧倒的な大軍に左右から挟撃されてな」
「……どういうことです?」
「さっき隋軍が攻撃を仕掛けてきて、それを我が軍が撃退しただろう? おれたちはあれを宇文述のいつもの物量作戦だとばかり思っていた。宇文述は同じことばかりして懲りない奴だと嗤いながらそれを撃退したが、果たして本当にそうだったのだろうか?」
乙支文徳は浮かんでもいない額の汗を拭いつつ、さらに説明を続ける。
「もしかしたらあれはおれたちがそう思うであろうことを見越して、わざとこれまでと同じような単調な攻撃を仕掛けてきたんじゃないか? だとしたらその目的は陽動以外に考えられない」
「陽動? では今回隋軍は、わざと負けたと言うんですか!?」
「その通りだよ大陽。隋軍の作戦はこうだ。わざと高句麗軍に気づかれるような場所に浮き橋を架けて、兵士たちにいまにも攻撃するぞと言わんばかりの思わせぶりな行動を取らせ、こちらの気を引きつけておく。宇文述の単純一直線の戦術に慣れてしまったおれたちは今度もまたそうだと思いこんで、そっち方面にばかり注意を向けるようになる」
「た……確かに」
「そう。そして案の定、隋軍の兵士は戦闘を仕掛けてきた。だがそれはおそらく死間、つまり最初から戦死することを前提として送られてきた連中だ。当の兵士たちがそれを知らされていたとは思えないがね。彼らはとにかく大げさに騒いで、大げさに討ち死にすることで、高句麗軍の注意を引きつけることが使命だった。おれたちはまんまとその策に乗っかって連中と戦い、撃退し、勝ったと喜んでいた。だけどそれは全て罠だ!」
「それじゃあつまり隋軍は、一方で大がかりな戦闘を仕掛けてそこに高句麗軍の注意を引きつけておいて、そのスキに別働隊を別の場所からこっそり送りこもうと……」
大陽は乙支文徳の言葉の意味を察して、顔面を蒼白にしながら口を開いた。単純と言えば呆れるくらいに単純な策だが、それだけに効果的でもある。乙支文徳には自軍の兵をこうもあっさり犠牲にするという発想がなかったため、これが隋軍の作戦ということになかなか気づけなかったのも痛恨だ。乙支文徳は首肯するのももどかしく言葉を紡ぐ。
「多分隋の別働隊は別の浮き橋を別の場所に架け、いままさにこっちに渡ってこようとしているんだ。いや、もうすでに渡っているかもしれない。そうなったら高句麗軍は勝利に浮かれているところを背後から急襲されパニックに陥るのは間違いない。そこを狙って改めてこっちの浮き橋からも大量の兵が攻めてきたら挟み撃ちだ。そうなったら二万ぽっちの兵なんてひとたまりもないぞ」
「な……なるほど。しかし……」
伝令たちは互いに顔を見合わせながら頷き始めたが、まだ完全には納得しがたいと言うような表情で、遠慮がちに乙支文徳の顔を見やった。
「しかし、この武麗邏を放棄するということは、隋軍に高句麗の領土に足を踏み入れさせるということでもあります。国土防衛の点から鑑みて、敵軍を国内に侵入させるというのは少し、まずいのでは?」
「それじゃああくまでも国境防衛にこだわって、ここで隋軍と戦い見事玉砕するか?」
乙支文徳がじろりと睨みつけて言うと、伝令たちは言葉を失ったように黙りこくった。そんな彼らと大陽に向けて乙支文徳は言葉を続ける。
「勘違いするな。おれたちが守らなければならないのは国境なんかじゃない。高句麗の民と領土だ。なのにこんな所で勝てっこない無謀な戦いをして全滅する訳にはいかないんだ」
「で……でも、必ず負けると決まった訳ではないでしょう? 閣下の天才的な知略を以てすれば、まだ隋軍を遼河の向こう側に押しとどめるチャンスも残っているのでは?」
「無理。そもそもおれはそんな、君らが思っているほど天才的な知略の持ち主というわけじゃないし」
もの憂げに頭を左右に振って見せながら、乙支文徳は自嘲するように言を紡ぐ。
「そんなおれたちがこれまでまがりなりにも勝ってこられたのは、間に遼河という大河があったからだ。隋軍が攻め、おれたちが守るという立場である以上、隋軍はどうしても遼河を渡らなければならないが、この河川は広くて大勢の兵が一度に渡ることは出来ない。そこにつけこむスキがあった。でもある程度の数の敵兵に遼河を越えられてしまえばその優位はあっさりと失われる。そうなったら兵の数が少ない我が軍のほうが圧倒的に不利だ。分かるか!?」
「はあ。分かりました」
伝令たちはそう応えはしたものの、明らかに全く分かっていないような顔つきをしていた。乙支文徳もさすがにイライラを抑えきれなくなり、大声で彼らを怒鳴りつける。
「分かったんなら、さっさと命令を伝えに行け! ことは一刻を争うんだ!!」
その言葉に、伝令たちは急いで走り去って行く。それを確認してから、乙支文徳も撤退計画をまとめるために指揮官用の天幕へと急いだ。大陽も慌ててその後についてくる。
☆ ☆
乙支文徳は大急ぎで兵を返し、可能な限り整然かつ迅速に遼東城へと撤退を開始した。
だが、于仲文率いる隋軍も素早かった。乙支文徳は于仲文が追撃してくるスピードを数段階に分けて予測していたが、ほぼその最速を極められてしまった形である。
乙支文徳もその対応に並ならぬ苦労を強いられたが、地の利を生かし数々の奇策を駆使することでなんとか于仲文を振り切り、遼東城に逃げ戻ることに成功した。だがその際これまでの戦いに数倍する犠牲者を出すこととなってしまったのだ。
その後隋軍は遼河の渡河に成功し、武麗邏を始めとする高句麗北部の広い地域をその支配下におくこととなる。それはこの遼河で隋軍との間に戦端が開かれて以来、高句麗軍と乙支文徳が初めての敗北を喫したことを意味していた。
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