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32 遼河の戦い・その8
しおりを挟む「なんだ。たかだか二万の兵を相手に、まぁだ手間取っているんですかぁ?」
これまでの高句麗軍との戦闘結果を(嫌々ながら)報告した宇文述に対して、于仲文は口元を手で隠してホホホのホと笑いながら、嘲るように言った。
于仲文のこの反応は想定外のものではなかったけれど、だからと言って腹が立たない訳ではない。宇文述は怒りのために頭に血が昇りすぎて失神しそうになったが、理性を総動員させてなんとかにっこり笑顔を浮かべて、副司令官の顔を見やった。
「いやあ、面目ない。こんな戦いで司令官自ら出張って部下の手柄を横取りしたなどと陰口を叩かれるのもなんですから、全ては部下の十二将軍に任せて、小官は後方に控えてのんびり構えていたのですが、それが間違いの元だったようです。彼らも仮にも隋の将軍という地位にまで上り詰めた者たち。任せておいても滅多なことはあるまいと思っていたのですが、まさかこのような情けない結果になるとは思いもしませんでした」
「ほほぅ」
全責任を部下に押しつけるべく懸命に熱弁を振るう宇文述だったが、于仲文はまるで信じていないような表情を浮かべ、鼻で嗤うかのごとくそう声をあげている。
「も、もちろん。これからは十二将軍などに任せることなく、小官自ら戦いの采配を振るつもりですから。高句麗軍の命運が尽きるのも、時間の問題でしょう」
「伯通どの……」
「な、なんでしょうかな? 次武どの」
「嘘をつく時、口唇の左端を引きつらせるクセは、直したほうがいいと思いますよ」
はっとして手を口の左側に当てる宇文述。しかし次の瞬間、我が意を得たりとばかりの笑みを浮かべている于仲文を見て、宇文述は不覚にも自分が引っかけられていたことに気がついた。
「い、いや、次武どの。これは……」
「やはりね。大体そんなことだろうと思っていました。しかしご自分の失敗を部下に押しつけるというのは、あまり誉められた態度ではありませんねえ。そのようなことを続けていてはいずれ部下の信頼をなくしてしまいますよ。それとも、もうすでになくしているのですかな? だとすると高句麗軍に負け続けているのもそれが原因かもしれませんね」
「お……大きなお世話です。確かに多少手間取ってはいるのは事実だが、それもあとわずかの辛抱。戦いの連続で疲れきっているのは敵軍も同じ。いや、我々より数が少ない分疲労度はさらに大きいと見て間違いないでしょう。あともう少しだけ耐え忍べば、必ず高句麗軍の田舎者どもを撃破し、遼河を越えて高句麗領に侵攻することがかなうはず……」
「あとわずかの辛抱、あともう少しだけ耐え忍べば、ですか」
宇文述の言葉を途中で遮り、于仲文は大げさに肩をすくめ首を大きく横に振りながら言った。
「伯通どの……いえ、司令官閣下のおっしゃるもう少しとは、一体どのくらい未来のことなのですかな? 一年? 一〇年? それとも一〇〇年?」
「それはっっ……」
「もうあと一週間もすれば、主上もこの場所までおいでになられます。もしもその時までに遼河を越えることが出来なかったら、なんと言い訳なさるおつもりです。また部下のせいになさいますか? それとも『あと一〇〇年ご辛抱ください。さすれば必ず、高句麗軍を倒してごらんにいれます』とでも申し上げますか?」
「う……」
揶揄するような于仲文の言葉に、宇文述は返す言葉もなく、ただギリギリと下口唇を強く噛み締めるだけだった。そんな宇文述の顔をいかにも楽しげに見てから、于仲文は肩をすくめ、わざとらしくはあとため息をこぼした。
「仕方ありませんね。他ならぬ大親友の伯通どののためです。いいでしょう。ここはぼくちゃんが一肌脱いで差し上げちゃいましょうじゃないですか」
「な……? それは一体どういう意味です、次武どの?」
誰が大親友だと心の中でツッこみつつ宇文述は慌てて尋ねた。
「もちろん、次はぼくちゃんが指揮する隋軍第二陣の力を以て、高句麗軍と戦って差し上げるということですよ。あ。もしぼくちゃんが失敗したら、ご自分に責任を押しつけられるのではとかいう心配ならご無用ですよ。何故かって? ぼくちゃん、失敗しませんから」
「無用! 遼河において高句麗軍との戦闘はこの宇文述に任されております! いかに副司令官どのとは言え、小官の職責を侵すようなことはご遠慮いただきたい。次の戦いでは誰にも文句のつけようがないほどの大勝をおさめ四、五日後には絨毯を敷きつめるがごとく、遼河を高句麗兵の死体でいっぱいに埋め尽くして差し上げよう。そして陛下がおいでになられたらその上を悠々と渡って、高句麗にご案内いたしましょうからな!」
宇文述は胸を張り、はっきりきっぱりそう応えたのだが、于仲文はそんな彼をせせら嗤うように鼻の穴をぴくぴくと動かし、大きく息をついてから言葉を続ける。
「そうはおっしゃいますがね。失礼ながら貴方はこれまで何度も高句麗軍と矛を交えながらも一度も勝てず、総計五万名以上もの犠牲を出しているのですよ? そんな貴方が今後、これまでの負けを帳消しにするほどの大勝が出来ると本気でお思いなのですか?」
「も……もちろん!」
宇文述はそう応えたが、我ながらその言にはなんの説得力も根拠も備わっていないように思えて、気分がげんなりとせずにはいられなかった。認めたくはないが、敵軍の将はかなり軍略に長けた人物であることは確かなようだ。そんな敵を相手にして、煬帝が到着するまでの短い間に勝ちをおさめることが本当に可能だろうか?
「司令官閣下は乙支文徳という名の高句麗人をご存じですか?」
そんな宇文述の内心を読み取ったかのように、于仲文は静かに言を紡ぐ。
「? ……いえ。記憶にございませんが。その乙支なんとかとは一体、何者なのですか?」
「高句麗の将軍ですよ。今回の戦いで高句麗の防衛軍を率いているのはこの男ではないかと、ぼくちゃんは睨んでいるのです」
「なんと!? それは確かなのですか?」
いままで自分に散々煮え湯をご馳走してくれ続けてきた男の名前かもしれないということでさすがに無関心ではいられず、宇文述は勢いこんでそう声をあげた。于仲文は小さく頷く。
「九分九厘、間違いないでしょう。この男、これまで一度たりとも戦闘に参加したことはなく、当然手柄も立てたことはないそうですが、にも関わらず学生時代から高句麗国王である嬰陽王から深い信頼を寄せられている男なのだそうです」
「一度も戦闘に参加したことがない? なんでそんな男が国王の信頼を得て、防衛軍の最高責任者として高句麗軍を率いているのです? おかしいじゃないですか?」
「確かに普通に考えれば、奇妙なことです。でもこうも考えられるんじゃないですか? 彼はこういう有事が起きた時のために高句麗が密かに温存していた、秘密兵器のような存在だったのだと。実は並々ならぬ軍事的才能を有しているのですが、それを外国……特に我々隋に知られると警戒されて、色々厄介です。そこで可能な限りその存在は隠しておいて、いざと言う時に出すつもりだったと。それなら全ての疑問に説明がつきます」
もっとも、それは全てぼくちゃんの想像ですがね、と于仲文はつけ加えた。
「でもその想像に間違いはないと思いますよ。並の将軍ではいくら対岸を挟んでの有利な位置を占めているとは言え、たかが二万かそこらの兵で我々隋軍をここまで苦しめるほど巧妙に策を練り、能く兵を動かすことなど出来っこないですからね」
べっこう縁のメガネのブリッジ部分を指でくいと押し上げながら、真剣な面持ちで言う于仲文。
この、他人は全て自分の栄達の道具でしかないと見下しているような男がこれほど評価するということはその乙支文徳なる男、本当に相当の知恵者なのだろうと宇文述は思った。考えてみれば、自分ほど有能な将軍がこうもことごとく負けを喫しているのだから、敵の将軍は有能を越えた有能、超有能であったとしても確かに不思議はない。
「それで、そんな超有能な相手に、次武どのなら勝てるとおっしゃられるのですか?」
「ご心配なく。いかに有能とは言え、しょせんは田舎国の一将軍。はばかりながら、隋国一の知将と呼び声も高いこのぼくちゃんにかかれば、ちょちょいのちょいですよ」
高らかな嗤い声をあげ、于仲文は応える。それではその田舎の一将軍に完膚なきまでに叩きのめされた自分は一体なんなんだと、宇文述は少なからずムッとした。
「まあ、見ていてごらんなさい」
そんな宇文述をよそに、于仲文はいかにも自信たっぷりの笑みを浮かべながら強気の口調で言う。
「主上がおいでになるまでの一週間もいりません。二日もあればぼくちゃんの知略を以て、高句麗軍を武麗邏から追い出してご覧にいれますよ」
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